sigh of relief

くたくたな1日の終わりに、
熱いコーヒーと、
甘いドーナツと、
友達からの手紙にほっとする、感じ。

あるものでなんとかする

2017-03-31 | 芸術、とか
去年のゴールデンウィークにやった写真展の時の写真を選びながら思ったのは、
同じカメラの同じレンズで撮ると多少トーンは揃うけど、
それよりやっぱり同じ目で撮ってると、なんとなく揃う感じになるなぁということ。
写真を撮る時、ぼんやりとあまり何も考えずに撮っているんだけど、
自分は大体、3種類くらいの目のどれかで撮ってる。

デジイチだと、さっと見てもっと気にいる構図を探して
少し考えて同じものを何枚も何枚も撮り直したりするけど、
銀塩だとそういうあたり、構図やフレーミングとかは考えない。
じっくりとピントは合わせるけど(でもいつも合わないけど)
できるだけそのまま素直にまっすぐほいっと撮ってる。

あと、理想の絵があって、それのために試行錯誤するようなタイプでもない。
何かをほんの少し良くするために大変な努力をするアーティストは多いけど、
そういう意味で自分は全然表現者ではなく、ただの無責任に楽しく遊んでいる人です。
写真に関して、完璧さに近づこうという情熱が全然ない。
完璧な美しい写真は好きだけど、
これがなければいいのになぁというものが絶妙に写ったままのような、
いらないものや間違ったことが残っている写真も好きなものは多いし。

日本画をやってた時、絵を描いているときでさえそう。
理想の色を作るための試行錯誤は、あんまりしない。
新しい絵の具を出さずに、その時、絵皿に残っている絵の具を
とりあえず使ってしまおうとして、変なことになったり、失敗したり
そういうことよくあった。
逆に思わぬ良い効果が出たりもしたけど。
そういうことを意図的にできる人がプロなんだろうなぁと思うけど、
そこにあるもので、できることだけをする、というゆるゆるの姿勢が、
わたしをアーティストにさせなかったんだなぁ。

若い時はもっとストイックでしたが、人生上で諦めることに慣れてしまったのと、
あとはそういうゆるさダメさも面白いやんと思うようになったことかな。
ダメな自分でいる方が、人にも寛容でいられるし、
生きていく中でそっちの方が優先順位が高かった。

芸術をなめてんのかといわれると、まあ、確かに本当は
あんまり芸術の力を信じてない気がする。
美大の卒業式で、先生は、芸術は世界を変える力になるって言ってたけど、
それって「常に」でも「完璧に」でもないと思ってる。
うっかり変えちゃうことはあるかもしれないけどね。
飢えてる時にはやっぱりアートよりパンの方が重要と思うし。
どっちか選ばなくてはという問題ではないけど。

そういえば料理も、あるものでなんとかするタイプです。
そして料理は写真と違って、いつもなんとかおいしくできる。笑
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昔何かがあって

2017-03-30 | Weblog
昔何かちょっとあって、今は年に数回あって食事したりするだけで、
今も時々軽く口説いてくれるけど冗談にして流せるような関係の男の人、
というのが5人くらいいたら、人生かなり楽しいんじゃないだろうか。

なにしろ、現在進行形というのは、なんでも結構大変だしめんどくさい。
甘い過去の亡霊だけでいい気がしてきたこの頃。

とはいえ、自分の気持ちというものも思い通りにはならないので、
好きな人を好きじゃなくなったり、好きじゃない人を好きになったりなど、
そうそう都合よくはできないものですけど。
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自分の思う自分

2017-03-29 | Weblog
わたしってさばさばしてて中身おっさんと自称する女子は大体すごく女っぽいし
人見知りだと言い張る女子の多くが外交的で社交的に見えるし(わたしもそれですね)
自己評価低いっていう女子の半分以上はきらきらしてるから、
本当の自分は誰にもわからない、というわけでなければ、
自分の思ってる自分ってなんかおかしいってことかな。

わたしの知ってる中でもかなり気が強く自分好きで女王様タイプの自信満々で
意識高い系のバリバリ才色兼備女子が、自分の問題点は自己評価が低すぎること、
自分に自信持たなきゃ、って書いてるのを見て、しばらく固まるほどびっくりした。
でもよく考えるとそういうものかもしれないなぁと。
年齢をいうとすごくびっくりされちゃった〜、みたいな自慢?を
毎日書いてる人で、実際、実物は本当に可愛くてできる人なんだけど。
自信やプライドととコンプレックスはホント裏表だよねぇ。

わたし自身、自分は人見知りするし(人間怖い)、
自尊感情の低さは負けないぞと密かに思ってるけど、
人からそう見えないことは知ってるし、
めんどくさいのでもう自分からはそういう話はしない。
そういう話はほんとに自分が潰れた時に、
仕方なくセラピストやカウンセラーの人に患者としてだけならするかな。
あるいはツイッターで人知れずぼやく。笑

自分に関しては、自己評価が低いわけじゃないとは思う。
自分がひどい馬鹿でないことも、
わりと善良な部類の人間であることもわかってるし、
別に謙遜も卑下もしないから。
でも自尊感情は、また別のことだからなぁ。
ああ、自分を大事にするということの難しさよ・・・。
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一汁一菜、と料理の本

2017-03-28 | お弁当や食べ物
一汁一菜について、土井善晴さんの本に関することをこの頃よく見かけるけど、
一汁一菜、一汁二菜なんかの料理本ならずいぶん前からいくつも持ってたし、
おかず二つだけでお弁当みたいな本も持ってたし、
スープ一皿で大丈夫みたいな本も持ってるし、
料理に関して無理せず頑張らず気楽にという本はすでに結構あって、
わたしの中でもそれはごく普通のこと。
でも今回、土井善晴さんの影響力は大きくてあちこちで彼の姿勢に関する記事を見る。
いいことだと思います。

お料理やお菓子の本でも、年をとって生活を小さくしていく中で
とても少ない道具と材料で生活することが書かれる本なども持ってて、
わたしは家の料理はシンプルでいいとずっと思ってます。
「帰宅後5分でワインと何か」というハッシュタグで、
インスタグラムなどに写真をアップしたりもしてます。
夜帰ってきて、ご飯をガッツリ食べると太るけど、
好きなワインやビール1、2杯と、簡単でおいしい肴が少しあればそれで満足。
食べ盛りの人は家にいないし、糖質のこともあるので、
そういう軽い晩酌で夕ご飯を済ませちゃうことも多いのです。
年をとるとそれくらいの方がいいように思う。
成長期の子供がいたりすると、ご飯も毎回炊いて、
肉や魚もがっつり食べさせたいかなとは思うけど、
人間って驚くほど少ない栄養でも大丈夫な気がするこの頃。
(普段のわたしが大食いすぎるだけかな。笑)

自分は本当に食べることが好きで、ひどい食いしん坊なので、
自分の食べたいものがいつでも美味しく作れる人でいたいけど、
普段は質素でいいというか、質素なのが好きだしそれでいいと思う。
質素や簡単と「美味しい」は別に矛盾しませんね。
おいしく炊けた炊きたてのご飯はそれだけでゴージャスだもん。
ご飯に合う、おいしいものが少しあればいい。
手間のかかる丁寧な料理も、余裕のある時にはしたくなるし、楽しいし
豪華で盛り沢山な食卓も大好きだけど、
普段はご飯やパンと、少しの汁物やおかずで十分。
簡素も豪華も、気分のままにできる今は幸せです。

上の写真は、うちの本棚にあった一汁一菜的な料理本の一部ですが、
食いしん坊なので料理本はすごくたくさん持っています。
本棚のスペース上、この10年くらいできるだけ買わないようにしてるけど、
それでも本棚3、4段分くらいはある。
でも料理本に関して言えば、もうね、あんまり細かいレシピはいらないの。
アイデアがよければ、大体のものはもう自分で勝手に作れるから、
アイデアと姿勢と写真の好きな本を買うかな今は。
自分が普段しない、たとえばイチジクと肉をオーブンで焼くような料理が
きれいな写真で載ってると、こういう料理はまだ作ったことがないな、
味付けはどんなかな?試してみようかな、と思う。
そういうアイデアの詰まった本だけ、買うようにしています。
でも息子が家にいた時は、簡単料理の本や、手抜きの本も買ってた。
抜ける手は抜いて、味はおいしいままという技があると感心しましたね。

料理の本に関しては、本当にそれぞれ色々思うところがあるので
料理本の評論家になろうかと思ったこともあるくらいです。
本棚のスペース上あきらめたけど、料理本って、好きだなぁ(本当に食いしん坊)

来月には家のリフォームが始まり、キッチンも替えるので
新しいキッチンで(赤いの!)、お料理をするのがすごく楽しみ。
一汁一菜のおいしい毎日のほかにも、
おいしいものを作って人を呼ぶのも、もっとやってみたいなぁ。
リフォームの間数日キッチンが使えないと思うと落ち着きませんが、
いろいろ計画は膨らんで楽しみなことです。

あ、でも土井善晴さんの一汁一菜に関しての疑問がひとつ。
ご飯と具沢山のお味噌汁だけでいいというのは、一汁一菜ではなく、
一汁ゼロ菜なのでは?
あるいは一汁と一ではなく一汁が一菜で、おかず兼ねたお味噌汁ってこと?
まあどっちでもいいけど。笑
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水仙盆と須賀敦子さんのフィレンツェの街

2017-03-27 | 芸術、とか
台湾の故宮博物院で、この水仙盆の前に立ち尽くして、
あまりの美しさに何十分も見ていたというお友達の話を聞いても、
写真見てもカタログ見ても、なにがそんなにいいのかさっぱりわからなかったのに
実物を見たらすとんとやられた。まいった。すとん。
→北宋女窯青磁水仙盆の展示、美術館のサイト。

これは電車の中吊り広告。

大阪の中之島にある東洋陶磁美術館は、川沿いで、こじんまりとして好きな場所。
ここ数年ではルーシー・リーや、フィンランドデザイン展などを見ました。
今回は、台北にある国立故宮博物館の水仙盆の展示で、
人類史上最高のやきもの、海外初出品、という鳴物入りの展示。
そもそも焼き物がわからないわたしですが、
せめてその自分のわからなさについて、わかりたいと思って見てきました。

6つの水仙盆があったんだけど、4つは故宮博物院のもの。
一つは東洋陶磁美術所蔵のもので、前に何度か見たことがあるもの。
もう一つは18世紀清朝の景徳鎮で作られた、
史上最高水仙盆へのオマージュ的作品らしいです。
他の5つは全部北宋時代、11〜12世紀のもので、これ並べて見るとすぐわかる。
なんというか、全然違うのよ。
並べなかったらわかんないかもしれないけど、一緒に見るとすぐわかる。
この6つが一つの部屋にあったんだけど、何周もして何度も見て、
でも3周目からは、この6つ目のは飛ばして見てたくらい、何か違う。
それで他の5つの凄さが、あらためてわかるくらい。
写真などで見て、さっぱりわからなかったものが、実物を目にすると
一つ一つ違うことが良くわかってきて、ほっとしました。
何度も何度も見てちゃんとそれぞれのことが自分なりにわかって
仲良くなれた気がする。
そして、それぞれについてるコピーが、改めてうまいなぁと思いました。
1:人類史上最高のやきもの・・・夢に見そうな美しさ
2:天青色の極み・・・これは特別鮮やかな透明感のある彩度の高い青でした
3:最大サイズの水仙盆・・・大きいのに繊細さはそのままで素晴らしい
4:無銘の帝王:底面に乾隆御製詩のついてないタイプ
5:伝世女窯青磁の日本代表:東洋陶磁美術館の誇る所蔵品
6:女窯青磁水仙盆へのオマージュ
何度も見てると、このコピーがすごくわかりやすく頭に入ってきました。
→カラーチラシ
→作品解説・リスト

しかし、たまに行く美術館だけどこんなに混んでるのを初めて見た。
チケット買うまでに30分くらい並んだし、
水仙盆の部屋に入るのにもう20分くらい並んだと思う。
テレビの「日曜美術館」にとりあげられたせいで、その前まで去年のうちは
結構すいててガラガラだったそうです。
最初から行くつもりだったので、早めに行けばよかったなぁ。
海外初公開の水仙盆が4つもあるのですよ、この大阪の小さな美術館に。
これのためだけに故宮博物院まで行きたい人もいるようなものが。
テレビに出るまですいてたことの方が不思議かも。
でも印象派やらレンブラントやら若冲やらよりはずっとマシな混み具合。笑
並んでも、ゆっくり見られて、とてもよかったです。

何度も何度も水仙盆を堪能した後は、他の部屋の常設展示なども一通り見ました。
焼き物ってさーっぱりわからず、年に一度くらい何かの展示を美術館とかで見ても
なにがいいのかわからないままささっと見て終わるだけだったけど、
それくらいのことでも何十年も毎年繰り返してたら、
なんか少しずつ変わってくるんだよなぁと、やっとこの頃思います。
今も相変わらず焼き物のことはわからないけど、この小さな美術館では、
常設の展示でなんとなく覚えてる壺にあったら、
おお相変わらず渋い色だなーってかわいく思うし、
馴染みの子もできて(子じゃないけど)、
前に見たときよりなんか色っぽく見えるなぁとか思ったり。
そうすると、わからなさは相変わらずなんだけど、
何しろ馴染みの子だからさっと飛ばさないで、少しは会話する。
そしたらますます馴染みになって、次や次の次の年に見たときに、
あー気づかなかったけどこっちの子と出身同じなんだ!とか
首のこの辺り随分繊細な作りだったのね、とか気づいたりする。
すごくゆっくりゆっくりだけど仲良くなっていってる気がするのですよ。
年に一度会うか会わないかでも、何十年の単位で見ると、
少しずつ、なんとも悠長な仲の良くなり方ですけど。
でもそうやって、数年前は他人だった壺や盆や皿が、今は知ってる子みたいになって
すっと目に飛び込んでくるのが(知識はいい加減なままですけど)、
これがわかってきたってことなんじゃないだろうかと思うと心が躍る。
何かがわかるようになる、好きになるということは、本当に心ときめくことですね。

今日は実は、もう一度会ってよく確かめたかった気になってた子がいなくて
(→子じゃなく壺だけど)ちょっとさびしかった。
次の展示に変わって、すいた頃にまた行って会えたらなぁと思います。

そういうことを考えながら夜お風呂で須賀敦子さんのエッセイを読んでたら
彼女がフィレンツェに住んで、少しずつ街と仲良くなっていった描写が
まるで、わたしとやきもののことのようで、
まるで自分が書いたのかと思うような文章で(おこがましくてすみません!)
どきどきして嬉しくて、心が躍った。
「フィレンツェ、急がないで、歩く、街。」という短い文章です。
何度も同じ道を歩く、ひどく時間がかかるわかり方で少しずつ理解する。
このごろになって、やっと、私は、たとえばフィレンツェ・ルネサンスの建築への理解が、少しだけ身についてきたように思える。以前。本でなんど読んでもわからなかったことが、変な言い方だが、自分のからだの一部になってきたような気がする。その建物の前、あるいは横に立った時、ああ、ルネサンス建築とはこういうことだったのか、と感慨をおぼえる。その時点で、私は、もういちど、本を読む。すると、書いてあることが、ふしぎに立体感を持って、あたまに入る。こうなったら私とその建物の間には、もう誰も入れない。/須賀敦子

ああ、何かと仲良くなっていくって、楽しい!
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昔の自分

2017-03-26 | Weblog
昔の自分があまり思い出せない。
ネットのない時代はどこにも自分の記録がないし、
手帳やメモはあるけど書き物は随分捨てちゃったし。
多分10年くらい前に家庭がグダグダになったときに、
かなり別人になったと思うんだけど、別人になる前の自分が思い出せない。

別人になる前は、たとえば5年後にこういう風な人間になっていたいとか、
そういう自分に対する希望や目標がまだ少しはあったような気がする。
それに向けて前向きな努力をしようとしたりできてたと思う。
その頃は掃除もできてたしいろんな欲もあった。
今は、いい欲も悪い欲もあんまりなくなっちゃって、
ほんとその場しのぎで生きてるだけなんだけど。
楽しく、面白おかしく、その場しのぎしてますけどね。
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映画:海は燃えている

2017-03-25 | 映画


ドキュメンタリー映画。ギリギリ最終日に見ました。
前に同じ監督の「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」をさっと見たことがあるけど
そっちもまた改めてもっとじっくり見たい気がしてきました。
メッセージを特に押し出すことも、わかりやすい物語もほとんどないので、
ドキュメンタリー映画見慣れてない人にはつかみどころのない映画かもしれません。

イタリア領最南端の島ランペドゥーサ島は、島民5500人規模の小さな島ですが、
年間5万人もの難民が上陸し、難民移民の玄関口、難民危機の最前線と呼ばれ
アフリカや中東からの難民の多くがここを目指すという島。
地図を見るとわかるけど、北アフリカから最も近いヨーロッパ領なのです。

密航船の海難事故も多く、地中海を超えて過酷な条件の船の中で
命を落とす難民も少なくありません。
島には難民救助のための設備が整っていて、無線や救援挺やヘリコプターがあり、
訓練された救援部隊もあるようで、映画ではその様子が映し出されます。
脱水で意識もなく息も絶え絶えな人たち、袋に包まれた遺体たち、
救助後に、力尽きて呆然としている人たち。
島にたった一人の医師は、ひとりひとりを救おうと頑張っているけど
毎回の検死や、この現実に慣れることなどできないと言います。

そしてそういう難民についての映像の合間に、
それとは全く無関係に見える島の普通の人のいつもの日常生活が挟み込まれます。
透明度の高さで有名で、世界有数の絶景にもあげられているこの島の海とも、
押し寄せる難民たちの世界とも別の、ごく普通の人たちの生活。
丁寧にベッドメイクをする女性、イカの煮込み料理の下ごしらえ、
ウニを獲る仕事のダイバー、ラジオにリクエストの電話をするおばあさんなど。
松の木を削り出した自作のパチンコで、
的や鳥を狙うのが好きな12歳の少年についてはもっとじっくりと、
片目の弱視が見付かって治療したり、
漁師の父や、優しい祖母や、友達との日々などをカメラは追います。
でもそれも、平穏な日常のスケッチで、
それぞれ特に大きな物語の起伏はなくドラマチックな感じではないんだけど、
そうやって難民の世界と、それに関係なく続く他の日常とを
交互に映し出す手法が、より現実をうまく描いているように思います。
難民受け入れ最前線の緊迫のリアルも、無関係に見える島民の日常のリアルも、
どっちの世界も同じ島のできごとで、両方淡々とあるのが現実なんだなぁと。

欲を言うと、これだけの数の難民が上陸する島で、
地元の普通の人々の生活とのちょっとした影響や関わりの部分も
なにかあればよかったかなぁとも思うけど。
上陸後に難民たちはすぐにどこか別のところに送られるのかなぁ?
難民たちが集まられている場所で夜にサッカーをするシーンがあるけど、
救助直後は、不法入国者なわけだから、施設の外には自由に出歩けないのだろう。
それで、島民との接触はほとんどないのかもしれませんね。

この監督のインタビュー記事を以前ネットで読んだので抜粋。
「難民の“地獄”と、交わらない島の生活 巨匠ロージ監督×島村菜津が語る」
”映画というのは、世界的言語ですから、垣根のなさは深く心がけています。”
”いわゆるお国自慢の“イタリア人気質”もいいところばかりではないし、他者とのほどよい距離感という点でニューヨークが一番かな。オバマ前大統領は「壁をつくる国家は孤立するだけだ」と言っています。人と人の間に壁をつくる人も、自らを牢獄に閉じ込めるだけです。歴史を振り返れば、壁は常に壊されてきた。だから最近の米国の風潮は非常に残念ですね。”
”若い頃、仕事で東京に約1カ月滞在しましたが、この社会についてよくわからないことがある。だから学生に教わりながら考えてみたいんです。”

ぜひ、この人に今の日本も見て撮って描いてほしいと思いました。

・・・あと、映画に全く関係ないし、すごくどうでもいいことですが
12歳の子供がスパゲティを盛大にずるずるすするシーンが気になって気になって。
日本人がそばをすするのと変わらないくらい、ずずずーっとすするんです。
イタリア人も音立ててすする人いるのか?子供だからなのか?
ちなみにお父さんとおばあさんは、音立ててすすってはいなかった。笑
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2月のつぶやき:後半

2017-03-24 | つぶやき
きれいなものは好きなのにファッションにずっとあまり興味がなかったのは、
結局自分の容姿に自信がなかったからで、
できるだけ目立たない普通の服装をしていたかったけど、
50歳をすぎた今頃になって、ファッションを楽しんでる友達などを見ていて、
自分ももっと楽しみたい気持ちが出てきたかも。
容姿は依然とかわらんのだけどね。


何かに誘う時に、用件を言わずに〜日空いてる?と聞く人も好きじゃないけど
言いたいことがあるのに、話すことがあるんだけど今度にしようかな、
今聞きたい?とかもったいぶった会話の持って行き方する人も好きじゃない。
だいたいたいした内容じゃないし、わたしに関係ないことが多いし。
まわりくどいのや、思わせぶりなのや、もったいつけたのや、
持って回った話し方は、ほんとめんどくさいよ。
なんでそういう話し方するんだろうなぁ。


うさぎのキャラクターって鼻が犬や猫みたいに独立して丸く描かれてるものが多いけど、
うさぎは鼻の上まで毛皮で、ミッフィーちゃんのバッテン印の鼻とお口が正しいのよ。
/(・x・)\


美容院で、主婦雑誌を読んでたけど、節約とか貯蓄とかの特集で、
そういう貧乏臭い記事が嫌いじゃないことに気づいた。
節約というか、ものを持たない暮らしは憧れがあるからなぁ。
リフォーム見積もり予算増えてるし、ちんまりと清く貧しく真面目に生きよう。


ヘアカラー。めちゃ混んでたけど、わたしのあと新しいお客さん来ない。
いつも一番混んでるタイミングに行っちゃうんだよ。
列があると短くても長くても速くても遅くても、
だいたいわたしの並んだ列が一番遅くなる。
悲しいくらい日常のくじ運がない人生。
その分そのうちまとまっていいことあるはず。


トマトとモッツァレラのカプレーゼ、
葉っぱ野菜に焼いた薄揚げと刻んだウィンナトッピングしたサラダ、
セロリにタルタルソースかけたサラダ、の3種類が今、冷蔵庫にある。
あと湯豆腐とウスイエンドウの煮浸しがこんやの献立。
食べ過ぎか。糖質はそんなにないはず。ワイングラス1杯と。

うちのカプレーゼは、モッツァレラは小さく切って
汁気少しとオリーブオイルをよく混ぜてちょっと乳化させるようにしてる。



差別に鈍感で、差別してることに気づかない人も多いけど、
されてることに気づかない人もかなり多いのかもって、今思った。。。


ブログ、のりのりで書いてると、
なんか人といっぱいしゃべったような充足感があるのはおかしい?


写真の整理って、作品じゃなく日常の写真だと、アルバムの整理と同じで、
つい見入ってしまって時間がかかるよねぇ・・・。
三分の一くらい削除する。
多すぎると見にくくなって意味ないのは、ものもデータも同じよね。
自分の管理できる分以外は出来るだけ捨てよう。


揶揄や嘲笑というのは、自分の気がすむ、相手の気分を悪くする、
という以上のことはあまりないし、
喧嘩したいだけでないなら使いたくないものだな。


大人の顔をしているオトコの人たちの、
負けず嫌いでケンカっ早い、小学生男子的なとこを見て、
まあ、かわいいっちゃ、かわいい。


寒々しくて、困り果てたひとりぼっちの自由の時。
これが結局一番大事なものなのかもなぁ。


こういう限界にさえ、人は慣れるものだなと思う。
壊れるのに疲れ果てると、あとはいろんなドアをしっかり閉じて
死んだように生きることになる。


90年代には結婚して出産して地震にあってそのあと海外にずっと住んでたので、
オザケンとかって知らない文化のまま。


韓国のチナムル?という葉っぱのナムルが、おいしかった。
春菊にちょっと似た味で、葉っぱは楕円形で柔らかい。
田舎の手作り味噌を混ぜたナムル。春っぽいおいしさ。

あと、缶入りマッコリ。マッコリは食事と飲むには甘くて、おいしいけど
あんまり好みじゃないんだけど、これはさらさらと軽く飲みやすい。
氷入れてグイグイ飲みたい。でも、マッコリも糖質よね・・・?


いかなる糖質制限も2月のウスインドウには勝てぬ!というわけで豆ご飯。
久しぶりに米炊いた。もち米を少し混ぜたのでもっちり。
軽く1膳食べてあとは小分け冷凍のつもりが、おかわり、、、


リフォームが終わったら、生活を変えるし変わると思ってたけど、
もうスタート入っちゃって、なんか多分別の人間になると思ってるんだけど、
人に言うと笑われる。
今までも普通に地味な生活のつもりだったけど人からは派手に見えてて、
もっと地味にと言っても誰も信じてくれない。


家をなんとかしたいのは10年前から思ってたことだし、
まだ残ってる家族の問題ももう10年のことだし、両方片付けて、
十何年ぶりに健康診断も受けて、8年ぶりくらいに人に雇われるということをして、
やらなきゃと思ってたことを全部してしまったら、
それからどうしていいかわからなくなりそう。

もしかしたらこの10年でなくした生きる意欲みたいなものが出てきて
元気な人間になるかもしれないし、
もしかしたらぽかんと空っぽになるかもしれないし、
そのときになってみないとわかんないけど。
今はぽかんと空っぽな感じがはじまったばかり。


盛りだくさんに予定詰めてたのに、まあ今日でなくていいかーと先延ばしにして
結局どれも行けなくなるというのを何百回やってきても学ばない。
100万回くらいやったら学ぶんだろうか。


>”ぼくは、人種差別はやっぱりなくなるだろうと思っている。
>いま世界を覆い尽くす勢いに見える人種差別の潮流は、あとで振り返ってみると
>世界の、本質的には不可逆的な進歩についていけなくなった人間たちの
>最後の抵抗ということになるのではないかしら。”
・・・そうだといいなぁ・・・


そういえば昨夜、ネイティブアメリカンの油田持ちが出てくる
サローヤンの小説を読んだけど、それはとてもいい話だった。
ロバに乗ってふらっとどこからか現れたインディアン。
みんなは頭がおかしい浮浪者だと思ってたけど・・・という話。


好きな作家が「イベント」という言葉は好きじゃないけど他に言いようがないので、
こういうイベントに行ってきた、みたいなことを書いてて、
ああ、わたしも「イベント」という言葉はなんだか好きじゃないんだと気付いた。
ライブとかトークとか何かに分類できるものはできるだけその呼び方で呼びたい。

わたしの場合は「イベント」という言葉の何が悪いということじゃなく、
音的にも意味的にも使い方的にも、
おそらく単に個人的なセンスと好みの問題なんだけど。
でも「会」という言葉は好きなので、言いにくいできるだけ
〜〜の会とか、そういう風に言いたい。


東京弁でも普通、格助詞は全部は言わないし書かないけど、
口語的な関西弁を書くときには、東京弁よりはるかにたくさんの格助詞が抜けて、
その方が自然なことについて考えているなう。


久しぶりによそでうさぎを見て、そっと撫でてみた。
うさぎたちをみてる時は泣きそうな気分だったけど、
撫でてみたら、そのふわふわした感触はうちのうさぎとは少し違って、
ふぅん、と思っただけ。
でもふわふわは素敵。すごくでかいうさぎ、かわいかった。

動物はみな、尊い。と思うしかわいいやつも多いけど、
植物の方がうまがあう。今のところ。
動物がたくさんの場所で花や葉っぱばかり見ていた。


さっきのインタビューのトランプ支持者たちもそうだけど、
こういった被害者意識は攻撃性につながり先手必勝と動き出す。
自分たちが攻撃する強く大きい側にあっても被害者妄想は無くならず、
攻めてくるから守っているだけだと言い張る。


落語の、寿限無とか動物園とってか、
初心者向けだなーと思ってだるい気持ちで聴くことが多いのに、
今日の動物園は、すごく初心に帰って聴けて楽しかったなー。


うっかり何処かへ留学する夢。知らない大きな街。
荷物もお金もなく、そこで一学期過ごすらしい。
一応英語の国だけど英語覚えてないよーと焦りつつ、
街も巨大で歩いていいのか車の道なのかもわからずオロオロ。
スーパーもなくてどこで買い物すればいいの?
あ、痩せるかも、とか考えてた夢。


実はアカデミー賞にあまり興味がない。
友達が色々話すのを聞いてるのは好きだけど、
家にテレビがあった頃もちゃんと見たことってなかったなぁ。
アカデミー賞自体はわざわざは見ないんだけど、
ツイッターでいろんな人がいろんなことを言ってるのを見るのも好き。


今日はだめな気分だったけど、なんとか手を動かしてたら
これ以上沈まないでいられそう。波に飲み込まれるのが一番怖い。
飲み込まれて動けなくなって何日もお風呂に入れなくなるのが怖い。


恋人いないと死ぬ病気の人に、つらいつらいと延々訴えられてるんですけど、
わたしその病気じゃないから、別に他の楽しいことしたらいいやんとしか言えないし、
それ通じないし、困ったもんです。
「どうせ自分なんか」と常に言い続けてる人の相談に乗ってはいけない。。。


朝、着る服が決まってると1日がスムーズにいくことが多い。
でも前の晩決めてた服と、その日の気分が合わないと、あれこれ迷って疲れて、
もう着替えるのも1日生きるのもいやになる。

気分というものは厄介なものですな。いやそれに振り回されてる自分がいけないのか。



もっと貪欲になってもいいと思っても、貪欲というのがもう自分の中にないんだよ。
食欲以外・・・w


電車の中で、かぎ針編みの指の動きの軌跡がぼんやりと頭の中に浮かんできて、
何かに似てると思ったら、あ!ト音記号?の、
くるーりすーっくるっすーっちょん、やん!と気がつく。


寄り道しよと思ったのにお金待ってなかった。
朝、新聞の集金来たんやった。


10年ぶりくらいに人並みの長さに爪が伸びてる。爪はものすごく弱くて
指より1ミリでも長いと折れたり割れたり、
ちょっとのことで途中からひっくり返ったりするので、いつも短く切ってた。
楽器やカフェやってたし。
今人並み程度の長さになってみると、昔よりは強くなってる気がする。
肉食べてるから?


肉と言えばスタミナ。でもそういえば、スタミナって何語だろうとググったら、
英語だけど、ラテン語の縦糸stamenの複数形staminaらしい。
運命の女神が紡ぐ「人間の寿命の糸」の意とか、
「生命体が持つ根元的な要素」とかそのへんから来たらしい。


わたしが今サロンパス臭いのは、湿布を貼ってるからではなく、
湿布の匂いのクナイプのバスソルトのお風呂に入ったからです。
この匂いだけで肩こりが治る気がするわ。。。w


天邪鬼なのではなく、経済的及び本棚的問題より基本的に本は文庫で買うので、
今読んでいる村上春樹は短編集の「女のいない男たち」です。
しかし新刊の方は友達が貸してくれた。


行ったことはあるけど行き慣れてない場所に行く時、行きはやっぱり迷う。
なぜか迷った末に反対方向に歩き出してしまう。今日もそれやった。
でも、帰る時は、あんまりよくわかってなくてもなんとなく帰れることが多い。
迷うこともあるけどね。
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2月のつぶやき:前半

2017-03-23 | つぶやき
友達が急に増えたり減ったりするわけじゃないのに、友達がすごく少ない気分のとき
といっぱいいすぎる気分のときがあるんだけど、なんで?


使い捨てカイロを、去年も大量に安く仕入れて余ってるのに今年も仕入れてしまって、
もううんと贅沢に使っていいことにしたんだけど、なかなかなくならない。
すごく贅沢に使っても1日2つくらいだもんな。
1日4つくらい使い捨てられるくらいの豪快でセレブな人になりたい。


チャチャチャ楽しい。年配の方が多いので、スタイルのいい人ばかりではないけど、
ダンスはやっぱりすらっとしてる方がきれいに見える。痩せねば。
あと、特にラテンは照れてたらむしろカッコ悪い。
シャルウィダンスの竹中直人に負けないぐらいになりきった方が勝ち。
誰も笑わないから。


わたしはとても温厚なので、ひとに馬鹿とか言う時は、
本当に呆れ果てて、そして多分怒ってるときです。
差別や偏見をデマで広げる害悪医者を鵜呑みにして長々と擁護するようなひとに、
怒っている。


一昨年くらいに編んだシャーリーズセロンになれる三角ストールが、
この前買ったセーターとすごく同じ色なのに今気づいた。
でも、シャーリーズセロンになってないなぜ?


ちりちりと飲んで酔っ払わない人になれそうなきがするこのごろ(気のせい?


そういえば、枝雀とお風呂に入って、君は桂貧弱と名乗りなさいと言われた、
というおじいさまがいた、飲んでたカウンターの横に。確かに似てた。
女性の気楽な飲み友達が欲しいんですよと何度も言われたけど、
いつも割り勘なのに、相手に気を使ってしまうわたしは、
いらんおじいさまの友達は増やさない方がいい。


お腹に貼ってたはずの、貼るホッカイロが知らないうちになくなってて、
どこで落としたんだろうというか、なんだか恥ずかしゅうございますです
(どこでも脱いでません)。でも燃えるゴミなので許して。


来年はうちで、恵方巻くパーティをする。具は持ち寄り。
各自で好きなサイズに巻いて、全員で恵方向いて腰に手を当てて食べる。
わたしの好きな具は干し椎茸と卵焼きですけど、
みなさん鰻やいくらやトロを存分に持ってきてください。笑

豆まきはお掃除が嫌なので、子供が小さい時もしなかった。
自分で掃除できるようになったら好きにしていいよ、と。
のびのびと自由な子育て、の反対でした。


トランプの4年間は、もうなにも取り戻せないところまで行っちゃうんじゃないか。
ほんの数年間の歴史の混乱と汚点、では済まずに。
戻れないところまで。そして日本は?


出かけてにぎやかに遊ぶのと、休むのと、静かに一人で家で遊んでるのと、
1:2:3くらいの割合がいい。
現状は3:1:1くらいかな。なんかこの頃しんどい。
静かに読んだり考えたり作ったりしたいです。
出かけるのは楽しいんだけど、もうそろそろペースダウンしたい。
だんだん空っぽになって来た気分。


ずっと絵を描いててすごく上手い人と、ずっと描いてるけどうまくない人がいる。
でもずっと描いてることが一番偉い。


手袋は編み上がったし晴れてるし。


数と質という話をしてて、考えない反復練習にはいいこともあるけど、
考えすぎて動けないのは困るし、どっちも大事だよなと思う。
そして今年に入ってブログも毎日書いてる。というか基本、
年に360個くらい書き続けて14年目くらいですが、別に賢くなってないし、
いいことも特にない。


誰に強制されるわけでないお祭り騒ぎはいいんじゃないかと思う。
バレンタインは世界のチョコが並ぶし、恵方巻きの巻き寿司は好物だし、
ハロウィンにはおいしいカボチャのタルトやプリンが出回ってうれしい。
でも、残り物を強制的に買わされるコンビニバイトの話はひどい。


手ぬぐいに、マイお猪口とマイお箸をくるんで、出かける利き酒の会よ。
いつも可愛いお猪口持って行ってたけど、
今日は真面目に利き酒する気満々なので白い基本のお猪口。


プライベートでも、要件を言わずに気軽にこのひあいてる?ってよく聞かれるけど、
要件を同時に言ってほしい。
わたしは、相手が気が向かなかったら断りやすいように、
必ず要件を同時に伝えるようにしてるけど。
相手が無理しないように断りやすいようにって、考えない人が案外多くて疲れる。


大好きで信頼してる年配の方に2、3年ぶりに手相を見てもらったら、
今年はあまり自分から動かずじっとしてていいですよと。じっとしてていいんだ。
血液型も相手にしない占い不信者ですけど、この人に診てもらう手相は好き。

パートナーというか恋愛運は・・・何もなさそうとのことでした。あーああああ
清く正しく地味に生きますよ。


八百屋はほんまにあかん。
きれいな野菜見ると買わずにいられないし、
野菜は新鮮に食べたいからあわててで料理することになる。
大きくてきれいなパプリカとセロリがあったので、
半分はミョウガと紫玉ねぎとピクルスに。ピクルス液は非常にテキトーな配合。

残りのパプリカとセロリはキーマカレーに。
玉ねぎと人参、椎茸みじん切りにしてひき肉と。
糖質制限中なのでご飯でなく、スナップエンドウ茹でて、それにかけて食べます。


追悼文にはまりつつあるわたしですが、
本のあとがきが素晴らしい追悼文になってることもありますよねぇ。
さっきお風呂で読み終わった「塩一トンの読書」のあとがきがそうで、
しみじみしてしまった。やっぱり追悼文はいいなぁ。


ファッション読書家って、わかりやすい使いやすそうな言葉だな。使おう。


地球上のあらゆる場所が誰かのものである必要はないと思うんだけど。
誰のものでもないどの国の領土でもない場所があってもいいのに。
そうはいかないのねぇ。


わたしが今するべきなのは、逃避ではなく掃除!


炭水化物じゃないからって、豚バラ肉400グラムの塊を
一回で食べてしまっていいんだろうか。
薄く切って油落としながらカリッと焼いたのを、
ごま油と塩コショウつけて、チシャと大葉に包んでパクパクと・・・


誰も話を聞いてくれないような気がする時に(といっても話を聞いて欲しいような
気分なだけで、実際に聞いて欲しい話があるわけじゃないけど)、
ツイッターの自分の好きなリストをぼーっと眺めるか、
自分のブログの古いのを読むかすると、とりあえず気がすむことは多いな。


とても綺麗な人がたまたま何かの投稿で自撮りをあげてたけど、
誰もその人の容姿についてコメントせず普通にその投稿内容に関しての会話してて、
一方で頻繁に自撮りをあげる人が実際はさほどの美人ではないけど、
コメント欄はきれい〜すてき〜と容姿に関する褒め言葉ばかり、
というのを見て考えてる。
多分、前者の人と友達になりたいと思うなぁ。


室内履きの手編みの靴下にまた穴が。
穴は毎年開いて、毎年ツギ当てをするので、だんだん芸術作品になってきている。
めちゃかわいくて大好きなわたしの室内履き靴下。


仲のいいカップルを見るのは嫌いじゃないけど、
ぎゅうぎゅうの満員電車の中で彼氏の顔をベタベタ触りまくって
しまいに彼氏のニキビ潰しに熱中する女子は、いやだなー。
人のニキビ潰すのも自分のを消毒してない爪で潰されるのもいやだ。
家の中で勝手にやるのはいいけど、電車でそれ見せないでくれる?


欲しいものを作れるというのは自由を一つ余分に持ってるようなもので、
食べたいものを作れたり着たいものをものを作れたり
すみたい家を作れたりするのは素晴らしい。
わたしは料理と編み物した出来ないけど、なんでも作れる人羨ましい。


お天気いいのに、気持ちが重い。自分を大事にしてないし、
自分に嘘もついているかもしれない。


すごく疲れてて、1日冬眠のような日曜日を過ごした。
詮索されたり疑われたり責めらたりするのは本当に疲れて
回復に何日もかかる。無駄だし徒労。いやになる。

自分を損ねていくような寂しさは、
居たくない場所や相手と一緒にいるときの寂しさで、
本当に一人でいるときの寂しさは寒々しくても清潔だし、
注意深くじっくり味わえば休まることもある。
わがままかもしれませんが、後者しかいらない。


豆乳入りホイップクリームを見つけて、
生クリームも糖質的にはそんなに悪くないんだけどまあ試してみようかと、
キッシュ焼いてみたら全然問題ない。
キッシュは皮のない中身だけのやつなので、糖質的にはオーケーです。
皮がないと西洋焼き茶碗蒸しみたいだけど。
具は炒め玉ねぎと菜の花とウィンナー。
皮のないキッシュは、卵と生クリームと野菜と肉か魚だけなので、
糖質制限には良い食べ物ですね。次はツナで作ろう。


食べ物は、味が大事だけど、見た目のかわいさきれいさに、かなり弱い。
食べ物なのにかわいいなんて素敵。
レストランも味が大事だけどセンスのいいインテリアの居心地のいい店には弱い。
見た目に弱い人間だなわたし。
殿方に関しては外見重視ではないつもりだけど、どうだろう。

でも確かに好みのルックスの人と付き合ってた時は、
あかんわこの人と思ってもつい許してしまうことが多かったような。。。
ちょっとした仕草に見とれたりして。

好みのルックスの人を好きになったことはほとんどないけど



機嫌の悪さで人をコントロールしたくないから、
無理して機嫌の悪さを隠してものすごく疲れる。問題は向こうにあるのになぁ。


派手なストッキングをはいたった。ピンクと青と水色と黄色と白の幾何学模様。


酔っ払いというものはかわいいものであるなぁ、と思う。
人間の原型であるけど単純化されるので、大体許せるし、まあ、そういうもん。


立ち飲みで、隣の隣あたりの女性の声がアニメ声でよく通って、
とくいわざはぺろぺろですとかいうので焦ったけど、ペットの話でした。
コーギーわんこ。


ミネストローネを作るときいつも、
トマト味にする前のスープの味がしみじみと優しい野菜味で、
つい、トマト味にしないでそのままにしちゃうことが多いけど、
今日は、えいっとトマト味にしました。
ニンニク、玉ねぎ、セロリ、人参、アスパラガス、キャベツ、しめじ、トマト。
豆類も少し入れた。
いつも作りすぎるけど、今日は残りもの野菜だけなので、普通の量。
食べるときとろけるチーズとトリュフ塩かけて、
バターを分厚く塗った薄切りのバゲットと一緒に。
明日の朝はそうしてスープ食べて夜は湯豆腐食べる。



ぽかん、とした。しばらく、ぽかんとしている。

強く楽しく生きていくぞ。

うそ、楽しくはできるけど、強くはなれない多分。

どんどん自分の世界が薄暗く狭くなっていって、
空っぽなのに窮屈で居心地が悪い。



世界を少しでもよくしたいというような凡庸な良心が自分にも少々はあって、
そのせいでしんどくなることが多いし、
それを捨てて軽やかに生きたいと半分以上は本気で思ってるけど、
絶対それを捨てない人たちを見ているとなかなか難しい。

でも自分はあまりに些細でちっこい生き物なので、
何をしてもしなくても許されると思ってる。


ワルツの三拍目のタイミングとアップダウンと、今頃わかってきた。
すいてる駅のホームで待つときはいつも、こそこそとステップの復習をしている。


右でも左でもない普通の日本人、という言い方を揶揄的に使ってしまうけど、
そういう自分も、右でも左でもない普通のただの人間、と思ってる。
ただの在日ですが、そこあんまり関係ないからなぁ。


グランフロントのあたりで、たまたまいつもと違う道を歩いてたら
アジア系の男性にエクスキューズミーと声かけられ、
チラシのようなものを持ってたのでネパールレストランのランチチラシか何かかな
(多いのよ)と思いつつも、一応立ち止まったら
ここへ行きたいんですけどと道を尋ねられたのだった。
それは、なぜかいつも外国人観光客でいっぱいのスカイビル。
あそこって日本人観光客はあんまり行かないと思うんだけど、
海外からの旅行者に人気よね。
外国向けのプロモーションを頑張ってるのかしらん。
わたしはそこに映画を観に行くところだったので、そこまで一緒に行きました。
小さな男の子を抱いてて、かわいい奥さんも横にいて、他にもう数人。
どこから来たのか聞くとマレーシアからで、
わたしも以前8年ほど住んでたのよと話が弾んだ。
久しぶりのマレーシア訛りの英語も懐かしくてうれしかった。
日本で彼らの会う人たちがみんな親切で、良い旅行になりますように。
コメント

アウティング

2017-03-22 | Weblog
半年前に話題になった事件だけど、書きかけだったのをアップしとこかな。
その後どうなったんだろうなぁ、事件自体は2015年の夏に起こってます。
ちょっとぐぐったけど新しい情報は見つけられなかった。(検索力ない・・・)

一橋大学ロースクールに通っていた25歳の男子学生(当時25)が、
ゲイであることを同級生にばらされ、苦悩の末に校舎から転落死。
その後遺族は、秘密をバラした(アウティングした)同級生や大学を提訴。
事件に関する記事のリンクはいつまであるかわからないけど一応ここに→*

学校の対応の間違いや問題も重大だけど、その前にアウティングについて。
亡くなった学生は以前から好きだった友達に告白をするけど振られます。
でも友達同士でいようという感じになって、それまで通りに普通にしてたのだけど
あるときその友達が、他の友達もいるグループLINEで彼がゲイであることを
いきなり勝手にバラし、その後起こった事件でした。
アウティングした方の学生は、
「恋愛感情をうち明けられて困惑した側として、
アウティングするしか逃れる方法はなく正当な行為だった」と主張しています。
・・・ってそこ、わたしには意味がよくわからない。
いったい何から逃れる方法?
自分の、同性愛に対する差別と偏見と勝手な困惑から逃れる方法???
意味わかんない。

加害者のこの言葉だけだと彼なりにどう対応したらいいのか悩んだようにも読めるけど、
個人的な葛藤や悩みを信頼できる人に打ち明けることと、複数の前で晒すのとは別だし、
すでに3人に話した後にさらに8人いるLINEグループで、
本人に断りなく、本人の目の前で暴露する意図は、わからないでしょ。
普通に考えて、なんらかの悪意があるように思えてしまう。
しかも元々同性愛を生理的に受け付けないと公言する友達もいるらしい環境の中で。
これ晒しの意図は全くなかったって言うの、通用しないと思います・・・。
なんの自覚もなくやったのかもしれないけど、通用しないと思う。
アウティングした子だけを責める問題でないのはわかってるけど。
少ない情報で勝手な判断や推測でよく知らない人を責めるべきでないのもわかってるけど
亡くなったこのことを思うとやりきれなくてつい。すみません。
でも、悪気がなかったにしろ、軽い気持ち、というものが、
時にどんなに人を傷つけるものか、忘れずにいたいと思うし、
ましてや、ほんの少しでも悪意や晒しの気持ちがあったなら、
それは相手が差別される側のマイノリティだとわかってる状況では
やはり差別に関わる問題になると思う。

事実関係を一つか二つのニュースからしか知らない状態で、
誰かを責めるようなことは言いたくないんだけど、
アウティングした男子が、彼なりに悩んだ末の行為だったとしてもやっぱり
差別心がどこかにある加害者なのは変わらないし、
もしもこのゲイの子のことをあざ笑うようなことがほんの少しでもあったなら、
絶対に絶対許せないと思ってしまう。
どれだけのことをしたか自覚ないんだろうな。よく調べて欲しい。
情報不足の他人のわたしには今は何もジャッジできないけど。

その後、ツイッターでゲイを不快に思うのは自然と言い張る人と不毛なやり取り。
同性からの告白は「速攻で強烈な不快感に直結する」って言われた。
同性愛者から好かれると「やっぱり不快」「物凄い不快感」って、何度も繰り返す。
そういう人も世の中にはいるかもしれないけど、
なんで「不快」に思うのが普通だと言い切る?
100歩譲ってゲイを不快に思う人がいるとしても、
それを当然だなんて言い切るのは間違いです。そんなことは絶対ないですから。
そもそも、わたし自身は一滴も不快じゃないけど、
もしも心のどこかで不快に思うんだったとしても、
そういう自分を恥じて黙るしかないと思う。
自分の差別心を恥ずかしいとも思わず「不快なのが当然」とか言えるのって
いったいどういう理屈なんだろう。

この事件のアウティングした人についてツイッター上で
自分の推測だけで無責任にたくさんつぶやいてしまったことは、
自分でもちょっとどうかなと思うんだけど、
結局わたしが反論したいのは、この当事者たちの誰か個人というより、
同性愛者を傷つけることに無頓著なこういう人たちに対してなんだろうなと思う。

自分は在日で、それを秘密にしたことは一度もなくて、
不当な差別なんかに負けないしなんともないと思ってきたので、
若い頃はそれのできない人を見下すようなところがありました。
それを隠す人たちに対して、差別を助長するのかと非難する気持ちがあった。
わたし若かったし馬鹿だったし優しくなかった。
今は違います。少し大人になりました。
戦うのは立派かもしれないけど、戦えない人を責めるのはおかしい。
だってそもそも間違ってるのは差別する側なんだもん。
差別される側にどこまで負担を強いるんだよって話で、
だから亡くなった男の子を迂闊だの男女間ではよくある話だのと責めるのは
お門違いと思う。

アウティングした学生が、言葉通りに困惑の末相手を傷つける自覚なくしたことなのか、
なんらかの悪意なり嘲笑なりがあったのかは、訴訟にもなってることだし、
その後のLINE内外でのやりとりや周りに学生への聞き取りなどで
はっきりすることでしょうから、わたしがあれこれ決めつける立場じゃないですね。
だからわたしがぶつぶつ反論してるのは、このアウティングした子に対してではなく
それを擁護する人たちに対してなのだと思います。
その擁護の中のいつくか、納得のいかないものに対して。
(中には納得いくものもあります)

自分のしたことが人の命を奪ってしまうことにつながる自覚は、
悪意のあるなしに関わりなく、この加害者にはなかったろう。
だから、どこまで罪を問うのかは、司法の問題で、
外野のわたしたちが糾弾したりリンチしたりすることではない。
でもわたしは、この加害者のしたことを許せない気持ちだし、
そういうちょっとした無自覚がどれほど、
社会で被差別者として生きているマイノリティを傷つけるかということは、
もっとみんな学んだ方がいいと思う。

以下は差別について時々話し合う友達の冷静なつぶやき。
>そうか。差別が一度ある程度まで固定化されると、それを無くそうとした時にマジョリティ側の人がそれまでやってきたツケの一部を支払う事になるのか。それでもマイノリティ側からするとまだまだ全然対等ではないけど、マジョリティ側からすれば、こんな事今までしなくて済んだのにとなるのか。
>差別がある事でマイノリティが一方的に押し付けられてきた損害のツケを、差別をなくすためにマジョリティも一部支払う必要が生じたというだけなんだけどねえ。それでも、全体として(その属性という側面だけ見れば)マイノリティが不利な状況はまだ覆せていないんだけども。
>なんにせよ「差別」っていうのは、わかりやすく誰かが誰かを虐待してるという話というのではなく、当事者が強い恐怖や怒りを感じるようなあれこれが、多数派によって常に「そんな大げさな」「大した問題ではないでしょ」とされてしまう、その絶望と向き合わされる状況のことなのだなと思う。
>「ちょっと大げさじゃない?」「被害者意識強すぎない?」が積み重なって人が死ぬ。その時人々は、彼/彼女の苦痛が死に至るほどのものだったという事実を急激につきつけられ、罪悪感にうろたえる。そこで懺悔が始まるならまだいいが、現実を直視できず被害者の「弱さ」や「落ち度」を探しだすことも多い。
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