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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

引っ越しました

2025-07-02 | Weblog
はてなブログに引っ越しました。
画像データの移行は3日くらいかかったかな。無事できたようです。

とりあえず過去ログを残せたので何か検索する時には助かるけど
あまりに色々詰め込んだ個人丸ごとブログだったので
内容を分けた方が、興味のある人が見にきてくれやすいのかなと
今後のことを考え中です。

新しいブログも同じ
「sigh of relief」でこちらです。

20年も書いてるとすっかりここが自分のホームになっていたので
やっぱり寂しいし感慨があるけど、まあ仕方ない。
なくならないものは、ないのねぇ。

ほぼ日本人だから

2025-06-14 | Weblog
人生で100回くらい言われて、毎回微妙な気分になることを、
今日もまた言われて、また微妙な気分に。
「(あなたはもう)ほとんど日本人だから」
在日の人を慰めるつもりで?悪意のない人に言われるとがっくりくる。
スルーできなかったわたしも大人気ないのだろうけど。

美味しい食事をして、美味しかったね美味しかったねと言い合っている時に、
「日本人でよかったー!」と言われて、普段スルーするんだけど今日はなんとなく、
わたし日本人じゃないけど美味しかったねー、と言ってしまった。
わたしが在日なのをその人は知ってるけど、まあ普段うっかり忘れるのは仕方ない。

あ、そうか、でも日本にいて一緒に食べて美味しくて良かったよねーと、その友達は言い、
そうだねと終わる話のつもりでいたら、横にいた別の友達に
「大丈夫、もうほぼ日本人だからね」と言われて、いやいやいやいや、うーん。
ここでもなぜかその日はスルーできず「違うのよ」と言ってしまった。
にっこり笑ってその話は打ち切ったけど。

過去に植民地支配して国籍も言葉も名前も取り上げたことがある国の相手に
「あなたはもう日本人だから」と言うのって、
ロンドンに住んでるインド人に「君はもうイギリス人だから大丈夫だよ」というようなものでは?
祖父母の代に侵略し、無理やり「日本人」にした相手の国の人に対して
「ほぼ日本人だから大丈夫」なんて全く悪気なくむしろ親切のつもりで言っちゃうのって
近代史を知らないのでしょうねぇ。
自分の祖父母の世代の日本が他国を侵略し植民地支配した側だという
意識をきちんと持っている人はあまりいないのだろうな。

確かに個人的には、自分のメンタルは圧倒的に日本人に近いと思ってる。
日本で生まれ育ったし、韓国の人たちの方がもう気持ち的にずっと遠い。
それでも日本人に「日本人とほぼ同じだから大丈夫」と言われるのは、
ちょっと別のことなんだけど、まあわからなくても仕方ないのか・・・

本当はいちいち説明するのが正しいのはわかってる。
言わなきゃわからないなら言ってあげるべきよね。
でも他の人たちも大勢いたのでこれ以上楽しい時間に水を刺すのも良くないかなと思ったり
なんかもう疲れちゃって、それ以上話さなかった。
とはいえそれで傷ついたりはしてないし、楽しい日だったのだけどね。

サービス終了・・・

2025-04-16 | Weblog
下書きのものなどたくさんあるけど
サービス終了はショックでもう書く気にならない・・・
そりゃいつかは終わりが来ると思ってたけど
2005年から20年間、6000エントリー以上書いてきた身としてはショックで。

ブログの引越しサービスがあると言っても
6000エントリー以上も一度で引っ越せるのかな?
かといって、さすがに手作業でブログを保存していくのも無理よね・・・

「気持ち悪い」動き

2025-04-08 | Weblog
2年くらい前だったか、宮崎駿がAIの作った「気持ち悪い」動きを見せられて、
不快だと言ってる場面を見た。
見せた方は、こんな面白い気持ち悪い動きができたと得意そうに見せたんだけど
宮崎駿は本当に不快そうで怒ってた。
これに対して、宮崎駿がAIの作った「気持ち悪い」動きから身体障害者を連想したのはよくない、
そういう連想をする彼自身に差別心があるのだ、とか言う人をいくつも見たけど、
わたしはまさにこのままのこういう動きをする障害者の方を舞台や映画で見たことがある。
人として十分ありうる動きなのに、これを「気持ち悪くて面白い」とか思う人に対しては、
宮崎駿の「きわめて不愉快」と同じ気持ちを持つ。

こんな「気持ち悪い」動きする人間はいないから面白がって良いのだ、みたいなこと言う人、
知らないだけなんだろうけど、まさに知らないことが暴力たり得る例だな。

誰もが思う自然な人間の動きを、自分はしていて自分の周りもみんなしていても、
それができない人もいるという想像力がない時点で、そういう人はこんなふうにAIを使うべきでない。
差別したり傷つけたりする可能性に思い至れない人はね。

技術としては使えるかもしれないし、技術自体を否定はしないけど、
作る人間のリテラシーによってはこのように釘をささなくてはいけないのがAIだと思います。

差し迫った悩みがない平穏な今

2025-02-13 | Weblog
だいぶ、飲んだけど記憶は無くさず酔っぱらいすぎず帰宅した。
みんないろいろあって複雑だなぁと思いながら帰った。
わたしはもうなんの冒険もせず賢くもならずだけど、まあしあわせなんだろうねぇと。

元夫の抑圧や脅しやいろいろの後の病気と感染不安、その後の生活不安、実家の問題、
離婚にまつわる(主に元夫のせいの)困難、その後に付き合った人のお金の問題などなど
差し迫った困難が、なんとなんと今はどれもないんだもの。
それより昔だって抑圧や支配、お金の心配、ストーカー、など常にいろいろあったけど
大体が結局自分で何年も何十年もかけてのろのろと解決していって
(時間や状況が解決してくれたものもあったけど)
気づいたら今還暦前になってやっと、差し迫った不安や恐怖や問題が特にないではないか!と。
こんなこと人生で何十年もなかった。
過去の自分が見たらびっくりすると思う。
20代、30代、40代の自分が今のわたしを見たら、どんなに安心して羨むことだろうと思う。
いや若い頃のわたしなら、つまらないと思っちゃうかな?
でも若さを失っていても、健康にガタが来ていても、
差し迫った困難、解決が無理なように思う難問が特になくて
逃げたい死にたいつらいということのない、という平穏で落ち着いた生活のありがたさ。
なんだか申し訳ないような気持ちになるけど
逃げたい死にたいつらい時期をなん10年も生きてきたのだから
もう自分の平穏という幸せを受け入れて存分に味わってもいいでしょうか。

投資

2025-01-10 | Weblog
投機だけでなく投資も、お金でお金を増やすことにどうもモヤモヤしてしまう。
だってお金でお金を増やすというのは現場でものを作ったり動かしたりしている人たちが置いてけぼり。
誰かが食べるものや着るものを作らなかったら世界は回らないのに。
なんでみんな投資をしないんだ、真面目に働いててもお金なんか貯まらない、
投資をして豊かになろう、なんていうのを聞くと、
もしみんなが仕事を辞めて投資をしたら、誰がお米や小麦や野菜を作ってくれるの?
誰がゴミを集めてくれるの?誰がものを作って売ってくれるの?と思う。
生きて行くのに必要なものやことを作ったり回したりしてくれる人がいないと困るから
そういう仕事をしてくれる人が一番偉い。
何も作ってない人がお金を増やして、投資をしないのは馬鹿だと言い、
現場で働いて汗かいてる人の方がお給料少ないのは、どう考えても納得いかないのです…
そういう自分も別に現場で世の中のために働いてる人ではないけど、だからこそ
食べ物を買ったりゴミを出したり電気をつけたり乗り物に乗ったり、
生活のインフラに関わることをするたびに、
それを支えてくれる人たちに感謝してもしきれない思いがある。

投資や不労所得でますます富む人々と、現場で働く人との格差が広がるのは間違ってるし
でも現実にはどんどん開いていってる。
政治を変えないといけないのかな。
労働者にはデモという手段があると思うんだけど、日本ではあんまり見ないしなぁ。
海外で、デモで交通止まってすごい困ったとか、ゴミ収集止まって
街がとんでもないことになったとか聞くけど、
お金ではなく誰か生きてい人間が、自分たちの生活を維持させてくれてるんだということを
思い出させる手段よね。

連帯感

2025-01-06 | Weblog
イラストレーターの友達のグループ展を見た帰り、
初めてのタイ料理屋さんでランチをしてたら、隣のテーブルの女性が、
日本におけるピルや人工中絶に関しての時代錯誤な現状への怒りを低い声の早口で滔々と述べており、
わたしはビールを飲みながら。うんうん、そやね、ほんまに!と共感して聞き入ってた。
先進国でこんなん日本だけや!と。女性の体のことなんかなんも考えてへん。
ピルの承認に何十年もかかったのに、バイアグラはスピード承認。
望まない妊娠での中絶は時代遅れの掻爬方で傷つくのは女性だけ…など延々と述べてらして、
(わたし個人はバイアグラとピルの承認はそれぞれ別問題と考えるべきと思ってるけど)
聞こえてくる話に共感を持ちながらおいしく食事を終え、お勘定を済ませて店の外に出ると
自転車に乗ろうとしているその女性がいたので、つい話しかけてしまった。
すみません、お話聞こえてしまって、もうずっと共感の気持ちで聞かせてもらいました!と。
「あーすみません、食事中にあんな話をずっと。でも中々変わらないこの国への怒りを
ああして夫に(夫さんだったようです)たまにぶつけちゃうんですよねぇ」
いえいえ、同じ気持ちの人がいると思うと心強くなります。
ありがとうございます、とわたし。 

世の中、意味わからないことや話の通じないことが多くて
特に政治を見てると本当に理解できない人が多すぎて不安になる。
でも、話の通じる人が知らない人の中にも他にもきっとたくさんいるんだと思ってほっとする。
その人にも、ひとりじゃないと伝えたくて声をかけたけど、話せて良かった。

散歩

2025-01-03 | Weblog
久しぶりにのんびりした三が日だった。
1日も2日も1時間くらいの散歩をした。
家から焚き火をする川まで行き、神社の大きなクスノキに挨拶したのと、
家からバス停3つ分くらいの場所のお寺の横にある古墳まで行き(上の写真)
その横の遊歩道をあるいてきたのと、
3日の今日は映画館の帰りに遠回りして新しい公園を少し歩いた。

歩いてるうちに日が傾いて木立の中の夕方の光がきれいだった。


夏より冬の方が暑がりのわたしにとって歩くにはいいけど
日没が早くて夕暮れの散歩は瞬く間に日が暮れて冷え込んでしまう。
でも冬至が過ぎたら少しずつ日が長くなるので、これから夕方の散歩が楽しい時期。うれしい。

「この人はね、映画をたくさん見てね、お弁当や美味しいものを作って、あと、散歩をする人」
と人に言われた紹介の言葉が気に入って散歩を意識してるのかも。
人にどう思われても関係ないないとは思える人はかっこいいしあこがれるけど
友達や好きな人たちには、自分の好きなイメージに思われる方がうれしいよね。

今年は身近な散歩を楽しもう、30分でもできるだけ毎日歩こう。
山や自転車輪行は、日帰りでもちょっと旅行の気分で準備もいるし、その分楽しいけど
もっと日常の散歩をしよう。
近所はかなり歩き尽くしたんだけど、電車で沿線の駅を降りて歩き回るのもいいし
日常の散歩を楽しみたいたいです。

あと今年は美味しいものしか食べない、ということをもっとちゃんとしたい。
食いしん坊だから毎食食べるもののことは考えてるけど、それでもイイカゲンになることも多いし
ダイエットや健康のためにと、その時食べたいわけじゃないものを食べることもある。
でもそうじゃなく、自分にとって美味しいものだけ適量食べる人になりたい。
ということで、今から大根とイカを炊こう。(好物)

どちらも日常の生活に関することで、こじんまりした人間だからこじんまりした目標だ。

2種類の贅沢

2024-12-10 | Weblog
わたしの贅沢には2種類ある。
「生活に組み込まれた贅沢」と「外側の贅沢」だ。

結婚末期の生活は余裕がなくてどこまで生活費を抑えられるか考えながら生活してて、
家計簿はずっとつけていたので自分が節約した時の生活にかかる費用は大体つかんでいた。
今はその頃に比べるとぐんと余裕ができて、ずいぶん楽になって、贅沢もするようになった。
その贅沢のうち、日々の生活に組み込まれた贅沢はゆったりした日常に必要なものなので
できれば続けていけるといいなと思う。
夏のエアコンは我慢せずにつけるとか、文庫本化を待たずに読みたい本を買うとか
食材は少額の違いなら、状態のいいものの方を買うとか、
60円節約するために遠い方の駅から電車に乗るのをやめるとか、
アレルギー性鼻炎に必須のティッシュは鼻セレブを買って気楽に使うとか、
毎日の生活に少しのゆとりを与えて底上げしてQOLを高めてくれるもの。
そういうことを節約して我慢してた時期が結構長かったからねぇ。

もう一つの贅沢は日々の生活の「外側の贅沢」で余裕がなくなったらやめちゃえばいいタイプ。
良い店での食事や、ワイン会、高いワインやシャンパン、高い化粧品とか。
こういうのは、あるとうれしいけど、もしなくなっても
生活が貧しくなるわけじゃないから自分の「外側の贅沢」と思ってる。
豪華なフルコースじゃなくても家で炊き立てご飯を食べていれば幸せだし、
シャンパンがなければお茶を丁寧に入れて飲んでも同じようにいい気分になれる。
だからなくてもすごく困るわけじゃない無駄な贅沢かなと思うけど、
無駄なことって楽しいから、余裕がある時はやりたい、そういうタイプの贅沢。
 
よく一度上げた生活レベルは落とせないっていうけど、
日々の生活に「組み込まれた贅沢」はさほどお金がかかるわけじゃなく、
気をつけたいのは「外側の贅沢」を当たり前のことにしてしまわないことだと思う。
人によってはもっといい家、いい車、宝石やブランドという高価な「外側の贅沢」に慣れちゃって
それがその人の生活に組み込まれてしまうと、
生活のレベルが下げられないということになるのだろう。
わたしはそういうタイプの「外側の贅沢」が欲しくなくてよかった。
(高いシャンパンも家や車に比べたらなんでもない…?笑)

「外側の贅沢」がいつなくなっても大丈夫なように、
普段の日常の生活を内側の贅沢で満ち足りたものにしたいと思っています。
猫とソファに寝転んで快適な部屋で好きな本を読んでいるだけで
この上なく幸せなのだということを忘れないようにしたい。

自分の朝の時間

2024-12-07 | Weblog
自分の朝の時間に満足している。
早い時間に目が覚めて、時間に追われずもう一度うとうとする。
うとうとが浅くなった時に、枕元のKindleを手にとって短い話を一つ読む。
そこに書かれていた、誰かに幸せな時間を上げられたと思うと大金持ちになった気がする、
というセリフに、ほんとそうだなと思う。
それから体のあちこちを伸ばして、のそっと起きる。
最近は枕元でなくリビングの椅子が気に入ってそこで寝ている猫を撫でて、おはようと挨拶。
猫はムニャとだけ答えて、まだ寝続けている。
少しの洗濯物を洗濯機で、水量が一番少ないコースで大丈夫かな?と思いながら回し、
途中で見たらちょうどいい感じで満足する。

昼休みにジムに行く日なので、卵かけご飯とお漬物でタンパク質と糖質を少々摂取して、
コーヒーを淹れる。淹れながら食器を洗ってきれいですっきりしたシンクと、
飾ってある小さなお花を気持ちよく見る。
できたコーヒーを啜りながら顔を洗って整え、服を着替え、
コーヒーの残りを持ってパソコンの前に座る。
SNSを少しチェックしながら、また眠る猫を見て、冷めたコーヒーを少しずつ飲む。
30分ほどダラダラとネットを漂ったら、上着を着て鞄を持って出勤、9:45くらい。

あ、出かける前に洗濯物も干しますね。
この毎日の繰り返し、なんとなく映画の「パーフェクトデイ」を見るように
自分の普通の朝のルーティンを見てみると、
ああ、わたしはゆったりしたなんでもない自分の朝に満足しているなぁと、
今朝は改めて思ったのだった。
自分なりの調和があると思う。
昨日見た呉美保監督の映画のせいかもしれない。
この監督もごく日常的な時間をそれは優しく丁寧に映しとる人だ。
そんな目で自分の朝を、今朝はなんとなく見直して、満足している。

金継ぎじゃなくグルー継ぎ

2024-11-28 | Weblog
日常的な器で欠けたやつやひびの入ったやつで、愛着があって捨てられないものがいくつかあって、
金継ぎをずっと習ってる友達にお皿を一枚金継ぎしてもらったことがあるんだけど、
時間もかかるし、友達はお礼を受け取ってくれず、かえって申し訳なかったので、
いい方法を探してた。
でも安い器の値段の何倍ものお金を払うのもなんだかなぁと思ってたら、
2ヶ月くらい前の仕事の帰り道で、いつも通り抜ける百貨店の1階で、
「グルー継ぎ」の体験コーナーというのが出ていて、もう体験は終了してたんだけど
そこにいた人に色々話を聞いて、それをやってみることにした。
その人は少し年配と思うけどとてもおしゃれで朗らかな人だったし、話を聞くと
本金継ぎと比べてもよくないようなところが一つもないグルー継ぎに興味を持ったのだった。
予約して行ったら、北浜のいい会社ばっかりありそうなビジネス街のビルの中で
テーブルにわたしを入れて受講者は三人、講師の先生が一人で丁寧に教えてくれた。

欠けよりヒビの方が難しくてヒビを2つ、欠けを2つ持って行ったわたしはだいぶ苦戦して、
でも最初は簡単なかけから始めてヒビはもっと慣れてからやってもよかったな。
でも先生がだいぶ助けてくれてなんとかなりました。

これ実際は金継ぎではなく金は使ってないのです。
でも粘着力はすごく強くて、もちろん洗えるし漂白しても大丈夫だし食洗機もレンジも使えると、
本金継ぎと比べて機能的に勝ってる上に作業の簡単さ、手軽さ、すぐできるところはもっと勝ってる。
ただ経年劣化のくすんだ色が好きな人や何百年もたせたい人や、
天然、自然、本物志向の人は本金継ぎがいいと思う。あと伝統の良さを学びたい人も。
愛着ある日常の器をずっと大事に使いたいだけのわたしには、このグルー継ぎが合ってるけど。
久しぶりに細かいて仕事やってめっちゃ疲れたけど一気に4つも好きな器が復活してよかった。

トップの写真はガラスの細長いリーデルのシャンパン用グラス。
ステムがなくてカジュアルで値段も高くないけど
これに金継ぎしてあったら可愛いだろうと思ってほんの少し欠けたのを持ってった。

ガラスの小さいのは一番難しかったヒビのもので、
ミティークという千円台のフランスワインのおまけのグラス。

大きさも形もすごく気に入ってたのにヒビが入って、
ネットを探しまくって同じ厚み同じ形同じ大きさのグラスを買ったんやけど(執念w)、
ミティークのグラスについてるフクロウの絵が可愛くて捨てれんかった。

赤ワインを入れると白が浮き上がってかわいいのよ〜。


お茶碗は気がつかないくらいの浅いヒビが入ってただけなので、
そのまま毎日使ってたんだけどやっぱり気になってたのよね。

お茶碗いくつか持ってる中でこれが一番好きなのでうれしい。






瓢箪っぽい形のお皿は、縁が少し茶色くなってるので金継ぎが似合う。







初コインランドリー

2024-11-27 | Weblog
生まれて初めてコインランドリーに来た。
今まで家の洗濯機で洗えない大きなものはクリーニングに出してたけど、
コインランドリーの方が早いなぁと今更ながら気がついて、
とことこ15分くらい歩いてきました。
コインランドリーは駐車場の奥にあって、ぼーっと向かってたら
ドアの前にある車止めにつまづいて危うく転びかけた。
なんとか転ばず体勢を立て直せたけど、あ、痛っ、と腰をやられた気がする。
立つのと歩くのは大丈夫っぽいけど、動作によるとイタータタタッ!と声が出る。
変な筋肉も使っただろうから明日は筋肉痛も出るかも?
とりあえず痛くない姿勢でなんとか座って持ってきた本を読みます。
コインランドリーといえばルシア・ベルリン「掃除婦のための手引き書」の短編を思い出す。
その中に出てくる酔っ払いのネイティブアメリカンが時々卒倒するコインランドリーより
なんのドラマも起こりそうにないごく普通の規格通りのコインランドリーですが。

「結婚生活の中身」ファイル

2024-11-19 | Weblog
少し前にLINEが、keep機能をなくすからバックアップ取れというので、それをしながら、
Macの中の古い書類ファイルをなんとなく見てたら「結婚生活の中身」というのがあって、
開くと元夫にされたことがいろいろ書いてあった。
こんなことあったなぁというより、具体的なことをすっかり忘れてたことに驚いた。
いろいろあまりにひどくてびっくりするけど、それを泣きながら記録したのに、
すぎてしまうと忘れてしまうのはわたしの呑気さ?

4歳の息子が遊び半分でテーブルを拭いてると、男がセコセコするな!と激怒し出したこととか
すっかり忘れてた。男でも女でもきれいにするのはいいことでしょと言うと、
俺はやなんだよ!俺の好き嫌いで悪いか、とキレてそのあと3日口を聞かなくなった。
そんなことが毎月のようにあったので、息子もわたしもビクビクしてたな。
でも、元夫は自分はリベラルで優しく理解のある男のつもりでいたから、意味わかんないよね。

何かをしてくれた時に、それがいらないものでも困ることでも、無条件に感謝しないと激怒された。
元夫が持ってきた誰かからの貰い物のチョコレートを、これあんまり美味しくないねと
子供と私が笑いながら話してたら怒り出して、まずくても全部食べろ!とキレて食べさせられた。
これも子供が幼稚園くらいの頃だったか。

友達家族といる時にはにこにこしてたのに、別れた途端に別人になって怒鳴り出すこともあったなぁ。
さっきまでにこにこしてたのにと、まだ小さい息子も怯えていた。
人前では本当に優しい温和な人で通ってたけど。

そういえば離婚を頼んでいた最中に、元夫はうちの親へ変な儲け話の出資を頼んだりしてた。
以前も同様のことをしてうちの親に多額の損をさせたのに、また!
しかもそれはわたしが離婚してくれと言ってる最中だった。
離婚など家の恥と考える親が怖くて、わたしが親に離婚の話を打ち明けられなかったのをいいことに
離婚話などおくびにも出さずに、またお金を引き出そうとしていたのだった。
そんなことさえ、このファイルを見るまで忘れていたわ。

その一方でわたしには生活費を何ヶ月も一銭もくれなかったこともあった。
出産育児のタイミングも海外駐在も彼の都合の従ったため、専業主婦をするしかなかった中、
経済力もキャリアもない何もできない奴と罵りながら、
生活費を渡さないでわたしが困るのを見るのは楽しかったのだろうか。
(その後その分はもらいましたが)
その頃は経済DVという言葉もなかった。というかDVとかモラハラという言葉も、
今ほど一般的ではなかったな。20年くらい前。

まあこういうことが何十個も書いてあったのだけど、
若い頃から日記などに、なんでも記録する癖があったので、
離婚の時に手書きのそれらを集めて陳述書などを書くのに助かったのだった。
なんでも書いててよかった、嫌なことすぐ忘れちゃうから。
あれだけ常識がない、何もできない、馬鹿、と罵しられ続けたのに、忘れちゃうのよねわたし。

初めて離婚を打診した時は、何でもする、変わる、償わせてくれと初めて謝った元夫だけど、
そのあとに、お前の経済力で何ができる、息子はうちの家の子だからお前には渡さない、
そんな常識もないのかと、脅すようになって、わたしは何もできないバカと罵られるようになった。

無能で何もできない人間と言われるのは、結婚前に父からも繰り返し刷り込まれてきていたので、
結局わたしにそう言い続ける人間たちに人生の4、50年を続けて支配されてたことになる。
そんなことも忘れてた。 
支配から逃れて50歳をすぎて、一つ一つのことを忘れてしまっても、
人に怒られず平穏に暮らせることに今度は罪悪感のようなものを感じるようになっていた。
つらいのがデフォルトになっていると自由でで幸せでいることに罪悪感を持っちゃうのね。

でも、いやもう残りの人生は平穏に、誰にも怒られず馬鹿にされず脅されず呑気に
わがままに暮らしてもいいよねぇ。猫と静かに幸せに暮らしてもいいはず。
頭ではわかっているのになんとなく付きまとってきた罪悪感をそろそろ手放して
心の底から穏やかな気分で生きたい。

映画を見ると言う時

2024-11-15 | Weblog
映画を映画館以外の配信とかで見るのも全然いいんだけど「映画を見る」とただ言うときに、
「映画を見る」すなわち「家で配信で見る」こと、となってるのはとても嫌だなぁ。
それも一つの見方である、というのはいいんだけど、そっちが普通になるのはなんだかなぁ。
とあるPodcastを聴いてて、二人の人が映画ってどうやって見る?という話で、
それぞれ当たり前のように、「休みの日の夜かなー、くつろいで飲み物用意して部屋暗くして」
「うちはプロジェクターあるからさ」とか、完全に「映画を見る」=「家で見る」って前提になってて、
映画館で見る選択肢はほとんどゼロなわけ? 

映画ってどれくらい見る?って話で年に〜本くらい、ってお互い言ってるときに、
どちらも100本くらい見てて、土日はハシゴすることもあると言うと、
え?映画館で?いやー、自分は映画館では年に数本も見るかなぁと言われたりすることもある。

但し書きなしで「映画を見る」と言うとき、わたしにとっては映画館で見ることで、
配信で見る時は配信でと必ず言うけど、今はもう逆なのかもねぇ。
ただ、「映画を見る」というと家で見ることで、
映画館で見ることはわざわざ「映画館で」と付け足さないといけなくなってきてるのかも。
映画館と映画は切っても切れないものだと思うけどなぁ。
映画館が廃れると映画も廃れるのでは。
大予算のテレビ映画は作られるかもしれないけど…

話すことを持っている人

2024-11-04 | Weblog
生まれた時から離婚するまでの何十年か、父と夫から植え付けられた、
お前には何もできないできるわけがないという呪いにあまりに深くかかっていて、
自由になった今も結局何もできずにただ消費するだけの人生を生きておりますが、
少しでもその虚しさを忘れるために、学びたいという気持ちになるのだろう。
少しでも良くなりたい。

作るということと学ぶということは逆のようでいて似ているところがあると思う。
どちらがどちらの目的や手段になるという意味ではなくて(それもあるだろうけど)、
勉強する、知る、学ぶってことは自分の中に何かを入れることで、
未知のものが入ってくると自分は少し変わるでしょう?
逆に何かを創造すること自体が勉強となることもあるし、
インプットもアウトプットもどちらも自分が(多くは豊かな方に)変わる過程なのは同じ。
わたしの親しい人たちは大体そうやって何かを作ったり学んだりして
いつも変わっていく人たちで、何かを知ったり学んだり作ったりする話が一番面白い。

別に難しいことや大袈裟なことじゃなくて、何かに凝ってるとか、
そういうことでいいんだけど、前のめりになって話せることを持ってる人は面白い。
先日久しぶりに一緒に飲んだ人は食べることに情熱があって、
例えば安いお寿司屋さんに行っても2時間くらいずっとお寿司の話をしていられる。
年に数度飲んで、いつも何かの食べ物の話を広く深く話せて楽しい。
たとえばお寿司の話なら、その友達は仕事帰りに高い鮨屋に修行に通った何ヶ月かの話をし、
お米の浸水時間に10秒単位でうるさかったことや、シャリの冷まし方のコツ、
寿司屋の舞台裏、美味しい店の話などをし、
わたしはお寿司屋が舞台の面白かった小説の話をし、家で作るお寿司の話をし、旅先の寿司屋の話をし、
それから一緒に新しい寿司屋のアイデアを話す。(別に寿司屋をする予定はないけど)
それぞれの知識があまり重ならず、でもお互いにとって興味深く縦横無尽に広がる話ができるのは楽しい。
話の面白い人、というのではなく、自分の言葉と経験により話すことを持っている人、が面白いのだ。
それは結局、自分の少しでも良くなりたいという気持ちからくるのだな。