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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

ペンティ・サマラッティ展

2024-06-27 | 写真
2年前にフィンランドの写真家ペンティ・サマラッティの写真展を京都の何必館で見た。
友達が褒めてたので雨の中、急遽京都まで遠征して見てきたけど、見てよかった。
久しぶりにプリントを買いたくなりましたが、図録買って帰り道のバーでうっとりと眺めてる。


友達のレビューを踏まえて見たので2倍楽しめたけど、こういう写真は好きだなぁ。
構図や内容はついあざとくなってもいいくらいだと思う決まりすぎ写真もあるのに
実際に見るとあざとくないのよね。

それは彼の言葉にも表れていて「写真は撮るものではない、受け取るもの」
「理想的な写真家とは、誰にも気づかれず、何にも影響を与えず、ただ観察している人のことだろう」
日本画をする時に最初に叩き込まれた、描くよりもまずよく見ることがほとんどだ、というのを
描かなくなってからも信じているので、これはストンと腑に落ちました。

また、この1年ずっと読んでるハンナ・アレントの「人間の条件」の中の「観照」のことも
思い浮かべ、サマラッティのいう「観察」と似たところについて考えました。
ソクラテスは、突然、ある想念に打たれて、周りのことに気が付かず、忘我の状態に放り込まれ、何時間も完全に身動きしないことがあった。この衝撃的な驚きが本質的に言語を欠くものであって、(略)少なくとも、「驚き」を哲学の始まりと考えていたプラトンとアリストテレスが、多くの点でこれほど決定的に意見を異にしながら、言論を欠くある状態、観照という本質的に言論を欠く状態が哲学の目的であることに同意した理由を説明するだろう。実際、「観照」というのは「驚き」の別の表現にすぎない。哲学者が最終的に到達する真理の観照は、彼が最初に抱いた、哲学的に洗練された言葉のない驚きだからである。
ハンナは、「観照者」は製作をしない、ただ「あるがままにものを残して、滅びることのない永遠なるものと隣り合わせになっている」と言います。
ただこれらは「観照」が「工作人」の製作の活動力とのヒエラルキーの順序に
転倒があったという文脈で書かれているのでここだけ抜き出してもよくわからないかもしれませんが。

製作者(工作人)ではなくまず観照者であれ、作るのではなくただ受け取ればいいのだ、
個人のささいな個性や工夫より世界の方が遥かに多彩で驚きに満ちて素晴らしいと
写真家としてサマラッティは言っているのだろうし、わたしもそう思っています。

「Windows」

2024-05-13 | 写真
KYOTOGRAPHIEのフォトブックフェアフェアで買ったもう一冊は奥山由之さんの。
奥山さんの写真集は昔から見かけると手に取るし、買おうか迷うんだけど買ったのは初めてでした。
表紙で目につく「東京」の赤い文字に、ああそういうのはもういいわーとスルーしかけたら
ブースの人にすりガラスなんですよって声をかけられて、え?と。
すりガラス(を通した家の中)を撮った分厚い写真集で、
タイトルも東京ではなく「Windows」だった。
すりガラス(とその向こう)の景色が好きで、わたしも見かけると写真に撮ってるけど、
これもまたお弁当や裁縫箱的な「小さい世界に物が配置されてる様子」が
好きでたまらないわたしのツボなんですよね。
奥山さんは欧米と日本の家の窓というものの意味合いについてよく調べて書かれているし、
あと堀江敏幸さんの解説もあって、重くても買わずにいられなかった。笑

上田義彦さんのインドを撮った写真集を持ってるんだけど、
それはインドなのに全ての輪郭がぼけて抽象味を増した美しい写真で、
すりガラスにはそれと似た効果がありますね。
生活感も汚れもすりガラスの中にあると整った一枚の絵画のようになってしまう。
物事をなんでも美しく見えるようにしてしまうというのは世界を捉える方法としては
良くないかもしれないけど、世界の見方の一つとして楽しむのは構わないと思います。
いや、もう、ツボ。



「お裁縫箱」

2024-05-12 | 写真
何かがシンデレラフィット、という状態になる気持ちよさは誰でもわかってくれると思うけど、
もう少しごちゃごちゃしてるのも好きで、お弁当とかキャンピングカーとか
小さいところにこまごまと物がうまく嵌め込まれて収まっている様子が好きなんですよね、
すごくすごく。
きれいに詰められたお弁当を見ると、食いしん坊以外のところで非常に満たされる。

そんなわたしのツボをついた写真集を先日の
KYOTOGRAPHIEのフォトブックフェアで買いました。
(そういえば今年のKYOTOGRAPHIEに出てた潮田さんの冷蔵庫の写真も
お弁当と同様の理由でもちろん好きです。写真集も持ってます笑)

今、絶賛、本減らし中で古い写真集などどんどん売ってしまおうとしてるところなので、
もう本を増やさないようにしてるんだけど、
この裁縫箱の写真集は中々手の込んだ製本に所有欲をくすぐられました。
でもこの糸は猫が噛んで食べるので内側に隠さなくては。笑

やや厚手の紙に優しい印刷。薄い本だけど少し高いのは仕方ないか。
しかし裁縫箱もお弁当以上に持ち主のことを語りますねぇ。


いろんな人のお裁縫箱ですが、写真家の川内倫子さんのがありました。
他の人たちもそれぞれ名前が載ってるけど有名な人たちなのかな?

「流れる」を見ている

2024-05-06 | 写真
毎年やってるグループ写真展は、銀塩の写真かGRの黒白写真を出すことが多いんだけど
一度だけiPhoneの写真を出したことがある。
プロの人でもiPhoneで撮ってることがあるから、それはそれでありで、
写真らしい美しさを訴えるタイプの作品じゃないので、いいのです。

5年前でしたが、その時のタイトルは
「なかすながめるながれる」
川の中の小さな島。雨で浸水するくらい小さいと
人間が住むには適さないけど植物は平気で繁る。
葦や灌木の植生。川の流れ。空と雲。
バスの窓越しの広島の芦田川。











中州というものが元々好きで、中州のある大きな川を見るといつもその景色にうっとりする。

何年か前に大阪の街を歩きながら空を流れる雲の動きが速くて面白くて結構長い間見てたのですが、
その時にこれは雲ではなく風でも空でもなく「流れる」を見ているのだなぁ、
と思ったのに似た気持ちで、旅先の走るバスの中から窓越しに撮った中州の写真7枚組。

写真をやってる友達に、スティーグリッツのequivalent的だねと言われたんだけど
実は自分でこっそり思い出していたのは、グルスキーの(3億円超えのあれ)川の写真でした。
変態な丁寧さで精密に作り込んだ巨匠の写真とiPhoneで撮りっぱなしのとは、
方向性が正反対すぎて笑えるし、さすがに人には言えなかったけど。
そして写真の方向としては確かにスティーグリッツのequivalentの方に近いかもしれません。
写真を始める前は、絵を描いていたので、スティーグリッツより先にジョージアオキーフが好きで
ジョージアオキーフの写真を撮ってた人、くらいにしか思ってなかったのですが。

これ全部横に並べて見るとつながってるのがわかるけど、どれも雲はほとんど同じ形なんです。
走るバスの窓から撮ってるので岸辺の景色はどんどん変わるけど、
遠くの雲はほぼ同じ位置に同じ形でいて、そこが面白くて気に入ったところでもあるかな。

今年も写真展はあるので、そろそろ作品作りをしなくては。

川内倫子:M/E 展

2023-03-18 | 写真
川内倫子さんの写真はよく見かけるけどまとまった個展を見るのは初めてで、
展示タイトルのM/Eは「Mother」と「Earth」でもあり 「Me」でもあるということですが
なんて読めばいいのかわからないタイトルは苦手。笑

でも展示の見せ方がやっぱり上手いなあと感心して飽きずに何度も行ったり来たりして見ました。

写真集は持っていないけどいろんなところで結構見てきたし、
確か10年以上前に彼女のドキュメンタリー番組を見た覚えがあります。
初めてのパリでの個展だったか、それまでの様子を描いたものでした。

今回の滋賀県立美術館での個展も写真集同様、特別に変わったことしてるわけではないけど
流れの作り方がうまいし、いろいろな仕掛けがその流れを堰き止めず
良くも悪くも過剰や欠落や悪趣味のない、気持ちのいい展示でした。

窓を作ってそこから向こうの展示を見せるのもくどくならない絶妙な加減だし、
レースの布で覆われた空間の作り方もシンプルながら大きな効果がありますね。



この屋外展示を室内から見る部屋も良かった。設置場所も文句なしで良いですね。

動画作品も良かった。
滋賀に行く快速電車の中で読んだ旅の本に、作家の岡山の祖父の死について書かれたのがあって、
(この作家を全然知らずになんとなく軽い旅の本が読みたくて買ったものだけど
アイドルとか俳優とかやってる人なのね。)
展示上映されていた『Cui Cui』のスライド動画とその話が頭の中でするりとリンクして、
とてもよい読書体験になりました。
遠くに行く時や何かを見に行く時の移動中に読む本は大事ですね。
何か呼び合うものがあると読書も旅も少し特別な自分だけのものになりますからね。

滋賀県立美術館は、前は滋賀県立近代美術館という名でしたが、
滋賀出身の日本画家小倉遊亀さんの作品をたくさん所蔵していてここでよく見ました。

大きな公園の中に美術館図書館や広場やお茶室などがあり気持ちのいい場所です。

2005年にアンデルセンの展示、2004年オノヨーコの展示を見たのが今も印象に残っています。





今回はこの展示に合わせた和菓子があったのでそれをいただき、
お茶室でまた小さなお菓子(練り切りではなくこなしという関西の製法で
今はもう京都と滋賀くらいしかないですと、そこの方に伺いました)をいただき、

さらに駅まで戻ってコーヒーを飲もうと入った自転車修理屋さんの中のコーヒー屋さんで
ドーナツまで食べて、甘いもの食べすぎました。

この日は軽めのお弁当持参で、1日で14000歩歩いたとはいえ、食べ過ぎ…

川内倫子の作品は疲れる作品ではないので、
駅からバスに乗らず往復5キロほど?歩きましたが、この日は暑くて日差しも強くて、
琵琶湖の向こうに見える比叡の山も、冬のキリリとした風景ではなく、
もやもやぼんやりとしか見えませんでした。冬の山の風景が少し恋しかったな。
(写真は動画作品以外は撮影OKでした)

真四角写真

2023-02-18 | 写真
去年の今頃、SNSでは共通のお友達も多い赤城耕一さんの写真展を大阪に見に行ったのだけど
真四角写真だけでなくそもそもカラーネガの展示が初めてとのことだった。
そして、もう10年以上前と思うけど、自分がInstagramを始めて
真四角写真を撮るようになった頃のことを思い出したりしました。
次元は違うけどなんかわかる感じはするのよ(おこがましくてすみません(^_^;)

真四角写真は余白(ヌケ?)がなくてちょっと狭い。ひいて撮っても、真四角は狭い。
写真は余白があってのものと思ってるけど、最初はその余白の少なさ自体が面白いし、
余白の少なさで写真がシンプルに、そして少し強くなるのが楽しかった。
ずっと写真といえば長方形だったので、少々の違和感があるのも楽しかったのよね。
最近はまたヌケがほしくてインスタでも真四角にしないことが増えてきたけど、
真四角写真展を見て、またいろいろ考えました。

RICOHのGR3というデジカメを今も使ってるけど
10年ほど前に当時のGRを使い始めた時に正方形モードがあったので
黒白の真四角写真をたくさん撮りました。
その頃の写真は今も好きです。
ここの写真はつい最近撮ったものですが。

あと、真四角写真はユーモアと相性がいいと思う。
余白の少なさ、微妙な窮屈さがユーモアを含み易いのかなぁ。

恭仁京跡で写真とお茶

2021-04-19 | 写真
友達の成田直子さんがここ数年取り組んでいる大きな作品は
人の目に映ったもの、土地や建物や城跡やなにかを写した写真で
最初は古の都と現代の対比のような作品を作ってらして、
それは京都まで見に行ったこともある良い作品です。
その後、人の記憶に関連したものを、その人の瞳で撮るようになって
わたしもモデルになったことがりました。
わたしが毎日必ず立ち止まって見てしまう場所、時々写真に撮る定点観測の
うちの近くの桜の木の場所を選んで、わたしの瞳に映る桜の木を撮影されたのは
ちょうど一年ほど前のことでした。
その直子さんが京都の端の恭仁京跡で展示をしてると聞いて
3月のお天気の良い日に行ってきました。

広くて風のよく通るところに展示がありました。
直子さんの写真作品以外にもいくつもの現代アートが展示されていて興味深かった。

そのあと、成田夫妻が(夫婦ともに写真家です)作業所に使わせてもらってる
古いお茶農家のやぎやさんに連れてってもらって、半日のんびり。

白いのと黒いの、ヤギがいます。
直子さんの作業所は古い蔵?倉庫?

外には達磨ストーブがあって、ピザやお餅を焼いていただきました。

古い茶箱



建物は週末には公開されて、「えんがわ文庫」に本を読んだり



のんびりとお茶を飲んだりできます。ポカポカの縁側も素敵だった。

台所もすごくいい感じ。気持ちの良い家だなぁ。

お茶を重い臼でごりごりと挽きました。

挽きたてのお抹茶をそれぞれ点てていただきました。


なんとも気持ちの良い風通しの良い場所で、車がないと行きにくいんだけど
気持ちがほどけてすっかりリラックスして、素晴らしい半日だった。
また遊びに行きたいな。
都会のギャラリーではなく、これくらいのスケールの広々とした野外で
現代アートに触れるというのもいいものですね。

2020年の写真展

2020-12-30 | 写真
11月に、うちの写真の会で毎年やってる写真展を今年もしたのですが
搬入の前日にまだ写真の組み方が決まってなかったし、
夜中に少し酔っ払ったままやってしまった。
いつもは銀塩ネガカラーの日常や植物で、特に2年前のは自分でも本当に好きなんだけど
今回はGR黒白スクエアです。プリントがややコントラスト抑えすぎなのは気になるけど、
まあ展示してみました。
父と韓国と納骨、がテーマなので、そういうのちょっとずるいよねこれ。
でもまあ使えるものは使うのです。

展示の最中に止めてた写真がパラパラ落ちて、
在廊当番の友達にピンで止め直してもらったと言うハプニングはあったけど
年に一度のグループ展は、やると楽しいです。
お祭りっぽさもあるし、最近写真撮ってないし関わってなくても
ちょっとだけどしゃきっとするし。

例年ゴールデンウィークのあたりにしてたんだけど、
今年は新型コロナの影響で11月に。
毎年の秋の合宿旅行も中止になったけど
時期が延びても写真展できてよかったです。

来年はまた、もう少し写真撮りたいな。


古谷誠一の妻

2020-08-25 | 写真
小説の話をしていて、自己模倣という言葉が出てきたので、
(村上春樹の新しい短編集の話を聞いていました。)
厳密にいうと全然自己模倣ではないけど古谷誠一のことを久しぶりに思い出した。
自殺した妻の写真を編み直しては写真集を作ってきた写真家。
なんだか近寄りたくなくて、ちゃんと向き合ったことのない写真家だったけど、
改めて思い出すと引きずり込まれる。

精神に異常をきたしとうとう亡くなった妻のクリスティーナの残した
手紙などの断片を少し見て
写真家ではなくクリスティーナの方に引きずり込まれる。
この写真家の行為も作品も、わからないもどかしさは自分にはないのに、
今はクリスティーナが入り込んでじわりじわりと怖くなる。
自殺はしたくないと、重い気分で思って、
それはいつも死にたかった自分が、
その頃よりもっとそれに近づいてしまっているということだと気づいて、憂鬱になる。
近い。

目の前にあるときだけ

2020-05-23 | 写真
写真の展示をしていた友達が今回はいつもと違うスナップなので不安だったけど、
自分の写真はどれも好きだというのを聞いて、改めて自分自身のことを考えると、
わたしもいつも自分の写真をセレクトして並べた段階では、
いいなー、好きだなー、と自分で思うのだけど、目の前にない時はいつも自信がないのだった。
情けないほど自信がない。
だから自信がないのがデフォルトだけど、何かの展示の時にセレクトして組んだものを
実際に目の前にしてる時だけ、すごくいい!すごく好き!と思うのです。
どうしようもない自信のなさを目の前の実物だけがその瞬間だけ封じ込めてくれるから、
もっとずっと触れてないといけないんだろうなと思う。
でも根本的なエネルギー不足問題があって、心はすっかり隠居してるんだけど。
これも呪いが解けたら解決するのかな。

フィルム

2020-04-22 | 写真
毎年春にやるグループ写真展もこのご時世で延期になったんだけど、
写真展に出すのは銀塩カメラで撮ったものが多いです。

何でフィルムで撮るのかということを自分でもよくわからなくて、
何度か考えて書いて来たけど、めんどくさがりだからでしょうね。
めんどくさいというのを、何かをしない理由にしたりする理由にしたりするのって、
普通かなりダメなことのように考えられてるし、実際そうだと思うんだけど、
わたしみたいに何もかもめんどくさくて、
それで、先のばしにする、見なかったことにする、忘れたことにする、
なんとかごまかす、など様々な手を使って逃げ続けている人間にしたら、
それはそれで一つのやり方ではないかとも開き直って思ってみたり・・・

デジカメで撮ると、きれいに撮ろうとするし、そのためにたくさん撮ってしまうし、
たくさん撮るとあとの整理やレタッチが大変になってめんどくさいので、
フィルムにしてる、という側面が大きいと思う。
フィルムの方がめんどくさいやん、とよく言われるけど、
フィルムは時々まとめて買っておくし、フィルムだとたくさんは撮らないので
巻き戻したり装填したりするのも句読点のようなもので悪くないし、
いくつものカメラに違うフィルムやレンズを付けて
パシャパシャ撮るようなことはしないので、ISO400で撮れないときは諦めるし、
レンズも2つしか持ってないのでそれで撮れないものは諦めるし、
現像して(自分ではやらない)CDに焼いてもらうのはちょびっとめんどくさいけど
フィルムが数本貯まってからでたまのことだし、
総合的にはデジカメで大量に撮るよりめんどくさくない、とわたしは思うのです。
ピントをマニュアルであわせるのはAFより時間はかかるし、
しょっちゅうピンぼけしてるけど、まあいいやというおおらかな?性格なので
まあいいやだしね。

鬼海弘雄 PERSONA 最終章

2019-11-16 | 写真
「どういう人を撮りたいと思うのかは、なかなか説明しにくいんですよね。
人間とは何かっていうことの、うっすらとした手がかりになるような人です」

鬼海さんの浅草で撮る非常に印象的なポートレートは、2012年に伊丹市美術館で見た。
作品点数も多く、ポートレイト以外の写真もあって非常に充実した素晴らしい展示だった。
その時の感想→「PERSONA」
その後、別の方の写真展トークにこられた鬼海さんの話を聞きに行ったのは一年前かな。
そのときの鬼海さんのお話は、ものすごくまともな普通の話で、
ちょっと年寄りの説教じみたところのあるような、実に普通すぎる話ばかりだったのだけど
本を読んでも写真を見ても、そして彼の歩んできた人生を見ても
ありきたりな説教の人などではないのです。この日は多分普段着の話をされたんだろうな。

奈良であったこの展示は、伊丹に比べるととてもとても小さい規模でしたが
PERSONAのシリーズで伊丹後に撮られたものもあって、それを見に行きました。
一部屋だけの展示で、すいててほとんど人がいなくて、静かに見られて行ってよかった。

「誰にでも写せる写真が、滅多に表現にならないことに徐々に気づかされた。
振り返れば、その時から写真家になったような気がしている。」
「写真が威厳と尊厳性の芸術だとしたら、観てくれる人との対話なしでは成立しない。
それは、あなた自身の発見でもあるからだ。
私は、写真表現のその不器用さを信じている。」

わたしも、不器用さというものを信じているし、もしかしたら愛していると思うので
これを読んで心の中で何度も頷いた。

行きはバスで行ったけど次の予定まで時間があったので帰りは歩きました。
小雨降る曇り空、方向音痴なのに4キロ弱をとことこと。奈良は歩くのにいいな。







セイタカアワダチソウ。憎まれてるけどわたしは好き。

途中で休憩。ここでこの秋初めてのモンブランをいただく。

写真家トーク雑感

2019-08-29 | 写真
写真家のトークを聞きながら、作りたい写真のシリーズのことを考えてて、
でも手間がかかるものなので中々手をつけられない。
うまくできるかどうかもよくわからないし。でも絵ならすぐ描けるなぁと思う。
長い間描いてないし老化で目も手も勘もダメになってると思うけど、
そう言う状態でも描ける絵を考える。
いくつかのアイデアはずっとあって、その中で一番古いテーマを、
今の体力気力と下手になってるはずの画力でも描ける形にできるか考えてた。
でもやっぱり今の猫がいると無理。じりじりしながら猫がもう少し大人になるのを待つ。

子供が小さい時は、私にも今よりもっとエネルギーがあったのに、
育児は猫よりもっと大変で、焦りで苦しいくらいの気持ちだったけど、
今は隠居だから、何も作れなくても昔のように苦しくない。
あと1年待てば、猫ももっと普通の猫のように落ち着くだろうか。
そうしたらまた何か作るだろうか。
それまでは、猫の目を盗めるだけの短い時間で、少しの写生と水彩で練習くらいはしておこう。
本番は岩絵の具で描きます。やや抽象。そう言うことを考えながら写真家の話を聞いていました。

写真家は、第一回木村伊兵衛賞受賞作家の北井一夫さん。話すとふんわりした人。
でも中身はふんわりではないんだろうな。



あと、このフィルムは何十年もつ、この時期のこれだと100年もってる、
ああすれば、こうすればどれ位もつと言う話を写真について、
それからあらゆるデータについて話すのをきいて、
わたしの日本画の先生はいつも、それだと300年もちませんよと言い、
そう言う意識で実際に描くことを求める人だったな。
でも、なんだかふと、もたないものはもたなくていいのでは?というようなことを思いました。
あまりにも膨大なデータ。自然に消えるものは消えていいのでは。
寂しかったり困ったりするかもしれないけど、
何も困らず寂しくもない世界なんかないしね、と

ソフィ・カルとミランダ・ジュライ

2019-05-20 | 写真
ソフィ・カルは現代アートの文脈の上にきっちりいるけど(写真家としてもそこにいる)
もっとカジュアルでポップで気難しくない感じが、ミランダ・ジュライだと思う。

ソフィ・カルは人を利用して自分の作品を作る。人を使って自分を見せる。
ミランダは自分を利用して人のコミュニケーションの限界を広げ、
相手の視野や世界を広げる。自分を使って人を見せる。

写真家と小説家(脚本家、映画監督でもあるけど)の違いでもあるかな。
そう思うと写真家やその作品に対してたまにうんざりするのに納得がいく。

KYOTOGRAPHIE 2019

2019-04-22 | 写真
始まったばかりの日だったか、写真友達と行ってきました。
今年は第7回で、KYOTOGRAPHIE行くのは5回目かな。
ランチで集合して、息子オススメのパン屋があったのでパンも買って



今回は、友達何人かと一緒だったので、ゆるゆると動いて数カ所しか見てないけど
写真や評論をやっている知り合いの方が書いてた
”「場の体験それ自体が作品という構成」に、より大きくシフトした感じ”
まさにそれ、思いました。
それがいい方に出るか悪い方に出るかというより、
全体的にはどっちも混在する感じだと思います。
あまり「写真」を見た気分にならずに帰ってきたのは、
たまたまそういう感じのものをいくつか見たからというだけで、
もっと写真をじっくり見る感じのものも多いと思いますが。







写真というものをじっくり鑑賞する展示というのは
白い壁に整然と並んだ写真、という意味ではなく、
展示の形が自由なアート作品やインスタレーションとなっても
やっぱり写真作品を見たという気になるもののことで、
単に写真が素材、材料として使われてた作品とはまた違うように思うのです。
今回の春画のやつは、自分が日本画卒業生で、
ここ5、6年春画をよく見てきたせいもあるけど興味深く、
こういう作品における主従ということについて考えました。
春画浮世絵の書き込みの多さ、褪せていながらもカラフルで多様な色彩と
繊細な描写、薄い支持体、そして作品自体の小ささに比べて、
コラボしていた写真作品はグラフィック感の強い、
抽象デザイン的な黒白の大きな作品で、
その対比は案外面白く、いい展示だったと思います。
二つの、外側も中身もボリュームも濃度も充実度も何もかも
水と油くらい違うものが、同じ場で相互に面白く作用してた気がする。
元日本画学生としては浮世絵のほうについ目が向いてしまうけど、
浮世絵やましてや春画など初めてで慣れていない人にも
面白みのある展示だったんじゃないかな。

こういう意外な組み合わせの作品が増えると、
効果がよく顕れる作品も、逆に写真の力を弱める作品もあるかもしれませんが
一つの会場の展示ではなく多くの展示を同時に見ることで、
最終的には、全体を通して「写真」を見た感は残るので、
案外ハメを外して写真自体より「場の体験」を強く出しても大丈夫なのかもな。
とはいえ、
まだまだ見てない作品が多いので、もう一回くらい行けるといいな。

おまけ。
これは先月買ったばかりのGR3で、べつのGRで写真を撮る友達を撮ったもの。