sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「詩と散策」

2024-03-22 | 本とか
散歩をしながら思索にふける本というのは、5年前くらいに読んだ新潮クレストブックスの
「オープン・シティ」というのがあった。
クレストブックスは信頼してるし、表紙の美しさに惹かれて買ってゆっくり読んだ。
ナイジェリア系の作家がマンハッタンを歩きながらあれこれ考える知的な思索の本で、
精緻な文章で読むのに時間がかかったな、と思って5年遅れで昨日感想を書いたのだけど、
それはそもそも今回の「詩と散策」のことを書こうと思って思い出したのだった。
そして、よく思い出すとこの2冊の本にはあまり共通点はないのだった。
「オープン・シティ」はより系統立てて古典に造詣が深く、詩的というよりは哲学的で
彼のマンハッタン徘徊は過去の多くの哲学者の散歩の後を継ぐものに近い。
一方「詩と散策」の方は、詩人である。学者は過去からのつながりの中に生きているけど
詩人は案外ポツンと、今、ここ、にひとりで生きている人が多いかもねと思う。

本の帯に「散歩を愛し、猫と一緒に暮らす詩人」のエッセイと書いてある薄い本なので
ゆるふわな感じかなとぱらりとめくると、オクタビオ・パスの詩がまずあって、それがよかった。
ぼくに見えるものと言うことの間に、
ぼくが言うことと黙っておくことの間に、
ぼくが黙っておくことと夢みることの間に、
ぼくが夢見ることと忘れることの間に
詩。       /オクタビオ・パス「ぼくに見えるものと言うことの間に」



中に引用されている詩も平易な言葉でつづられる淡々としたエッセイも心地よく
同時に味わい深く考えさせられるので、見た目よりは読むのに時間がかかった。
薄くて軽めの本なので旅先に持って行って電車の中などで読みました。

>冬に凍った川を馬に乗って渡った人たちが、翌年の春、氷が解けたそこで馬の蹄の音を聞いたそうだ。川が凍るときにともに封印された音が、氷が解けるにつれよみがえったのだ。馬も人もとっくに去ってしまったのに、彼らがいたことを証明する音が残っている。
遠くの遠くの星の光が何百年も経って地球に届いていることを思い出す美しいエピソード。

プライベートな主観で地図を作った人に関して、
>ある人が言ったように「取るに足らぬものなどなに一つない、と思う心が詩」なら彼の作った地図は詩と言えるのではないか。
いいねー。ほんとにそう。

>私の目で見たものが、私の内面を作っている。私の体、足どり、眼差しを形作っている(外面など、実は実在しないのではないか。
これはごく最近わたしも全く同じことをSNSで呟いてた。
見るものが人を作る。なにを見たかが、その人だ。
なにを聞いたか、なにに触れて、なにを感じて、なにを考えたかがその人だ。
でもその中で「見る」ことってわりと簡単に考えられちゃってるなぁと思うのです。
先日、福田平八郎展見たときに改めて思ったけど、こういう日本画の先生の言う「見る」は
ありのままのものを見えないものが見えそうなほどちゃんと見る、
見て、そして気づくということで、ただ見るのと違ってそれは人に変化を引き起こす。
ぼーっと生きてるとなにも見なくても困りはしないし変化も不要かもしれないけど、
その変化の連続というものがその人を作っていくとこの頃よくわたしは思う。
もっとよく見よう、世界の小さな良いものに気づこう、と思ってます。
>だから散歩から帰ってくるたびに、私は前と違う人になっている。賢くなるとか善良になるという意味ではない。「違う人」とは、詩のある行に次の行が重なるのと似ている。

>手に入れられないものが多く、毀されてばかりの人生でも、歌を歌おうと心に決めたらその胸には歌が生きる。
ああそうか、わたしも歌を歌おう。

>私はまだ老いてないのに老いたと思うときがある。なにも失いたくないから、なにも受け入れない人間になったと。長く使うと体の関節が擦り減るように、心も擦り減る。だから”人生100年”というのは残酷だと思う。人間には百年も使える心はない。
この前半はとても理解できる。わたしは50歳くらいでもう降りた、という気分で
隠居の心持ちで生きている、それはこういうことか。
でも後半には同意できない。わたしの心は擦り減って100年の半分ですっかり重く
くたびれてしまったけど、不屈の心を持った人はいる。擦り減らない強い人もいると思うよ。

テオ・アンゲロプロスの「永遠と一日」という映画の老詩人アレキサンドロスのこと、
>死を前にして虚無に浸っていたアレキサンドロスも、幻想の中で三つの1日に出会って、「永遠」を自覚するようになったのではないだろうか。最後に、明日をも知れぬ余命わずかの彼がこんなことを言う。「明日のために計画を立てよう」
わたしが憂鬱で気分が沈んでドロドロになったときにつぶやく言葉があって
それは「計画がわたしを生かす」。
とにかく何か、遠い目的ではなく、明日か明後日か具体的な計画を何か持つことが、
それが具体的になっていくことが今の自分をなんとか生きさせてるなとよく思うのです。

>シェイクスピアは、人間は夢と同じ材料でできていると言ったらしいが、同時に、幽霊の寂しさとも同じ材料でできていることは知っていただろうか。
大人になって幽霊が怖くないなってから、幽霊の寂しさに思いを馳せる余裕もできた。

愛読しているリルケの詩集について
>「変化」という言葉には、訳者の注釈がついている。「目に見えるものを見えないものに移し替えること」と。まさに夕暮れのなすこと、夕暮れ時に起こることだ。

最近心の距離が野山に近づいたわたしはここを読むと、さあMacBookを閉じて散歩に行こうと思う。
>部屋の中にいるときに世界はわたしの理解を超えている。しかし歩くときの世界は、いくつかの丘と、一点の雲でできているのだということがわかる。   /ウォレス・スティーブンズ「事物の表見について」

それだけだ。いくつかの丘と一点の雲。その中の無限、そして無。
日々、誠実な散歩者として生きているが、私はまだ全ての丘と雲を見たわけではない。

誠実な散歩者の散歩に行ってきますー!



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