横浜のほほん

横浜のはずれで、のほほんと暮らす男の見聞、考察、感想をつれづれに記す

慕古の旅 ふりかえってー2

2009-09-04 07:56:55 | イベント

27日、大原の宿を出て寂光院の近くを通って途中峠を歩く。
今回の旅は旧道を通ることも多く車道を下に見て草木の中を進む。
途中峠を越せば滋賀県に入る。



途中峠を越えても上り坂はまだまだ続く。
この花折峠、30日の木の芽峠、永平寺を目前にしての越坂峠では、
急坂なのと車がほとんど通行しないので隊列を崩して各自のペースで歩く。
友人は御頂相を背負っても一番で上り切った。
私は木の芽峠で御頂相を担当した。



花折峠を越すと鯖街道は葛川とともに下っていく。葛川は安曇川となって琵琶湖にそそぐ。
この街道沿いには、このような造りの家が多い。なんという様式だろうか。
段々畑に作物がないのがさびしい。



夕方になって朽木(くつき)の 興聖寺に着き献香を済ませた。



このお寺には足利義晴、足利義輝両将軍が落ちのびていたことがあり、
この庭園の石に座って月を眺めたこともあるらしく足利庭園と呼ばれている。



関西花の寺のひとつでもあるそうだが時期的に見るものはなかった。
ただ足利庭園でクワイの大きな葉を見られたのはよかった。



翌日、鯖街道を進む。昔は細い道で木々がうっそうとしていたのだろう。
前を歩く人は77歳。



保坂のあたり。これから水坂峠(みさか とうげ)を越えて福井県・熊川宿に向かう。



若狭の熊川宿は近江に接する国境の宿場町として大いに繁栄していた。

詳細はこちらのサイト 熊川宿 で。


道の駅で昼食のあと、しばらく自由散策で熊川宿の街並みを見る。




ここは復元された熊川番所。道標には小浜へ4里と書いてある。



両側の家々には人が住み商店もあるが、見学者以外に歩く人の姿は少ない。



宿場のはずれに孝子與七の碑があった。
江戸時代、貧しい暮しの与七とその妻は自分達は貧しいものを食べても、
父母にはご馳走を食べさせて孝行のかぎりを尽くし藩主に行いをほめられたそうだ。



三方・若狭町の円成寺は、福井県指定天然記念物の「みかえりの松」でも有名だ。
樹齢250年、樹高12m、幹周り4m、枝張りは全方向に半径15mを広げている。

この日は三方、翌日は敦賀で泊まる。
敦賀の宿は風呂が狭かったので、近所の銭湯を利用してのびのびした。



今回の旅の最大の難所、木の芽峠。
木の芽峠登山口から標高628mの頂上まで細い山道が続いた。
転んで御頂相を壊さないよう気を遣った。

この木の芽峠は平安初期に開かれて以来、多くの旅人に利用された北陸道であった。
親鸞、木曽義仲、源義経、新田義貞、蓮如など多くの歴史上の人物が越えた峠でもある。
茶屋風のこの建物は番所としての役割を果たしてきたそうで、
慶長年間から平氏を祖とする前川家が管理してこられ、現当主は46代目だそうだ。
豊臣秀吉、明治天皇も滞在された部屋がある。



道元禅師は永平寺を開山の10年後、病気療養のため京へ向かうときにこの峠を越えられた。
前川家の向かい側に道元禅師など三師の顕彰碑がある。
道元禅師をはさんで向かって左が同行の孤雲禅師、右が後を託されて永平寺に残った徹通禅師の碑だ。



31日は朝5時に出発し福井市までの46kmを歩き、御誕生寺、龍泉寺、宗生寺などで献香した。





御誕生顕彰碑
曹洞宗では道元禅師を高祖、4世瑩山禅師を太祖と呼んでいる。
瑩山禅師は武生の豪族の子として、この顕彰碑の近くで生まれた。
出家して徹通禅師のもとで修行ののち道元禅師の教えを各地で広めることにつとめ、
54歳のとき能登に総持寺を建立された。

総持寺は永平寺と並び曹洞宗の両大本山の一つであるが、
明治に入って火災にあったため横浜・鶴見に移転した。



曹洞宗管長でもあった板橋興宗師が2002年この地に小堂を建設して御誕生寺を開かれ、
今年に入って本堂も完成した。
全国から集まった十数名の僧俗が坐禅と托鉢そして作務の毎日を送っておられる。
外国人の方も見かけた。



長々とした記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。