東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 商店街周辺の史跡を訪ねてウォーキングの下見(2/3)

2015年01月25日 | 歴史探訪他ウォーキング

 円満寺に来たのは、行者山に登った時以来です。円満寺は城南にも同じ名前のお寺があります。城南の円満寺の方に聞いたことがありますが、長合の円満寺とは関係がなく、たまたま同じ名前とのことでした。円満寺で少し過ごした後、国木田独歩の波野英語塾跡に行きました。その石碑は、通りに面したアパート前にポツンとあります。

         通りに面したアパート前にある国木田独歩波野英語塾跡の石碑



 国木田独歩がこの塾を開いた理由は、彼が明治24年8月に富永有隣に逢って吉田松陰の松下村塾のことを聞いたからだそうです。吉田松陰のような塾を開きたい、と思ったのがきっかけのようです。しかし、明治24年8月に開設した塾は、次年の3月に閉鎖されました。その理由は、当時の田布施にはまだ英語教育は早すぎたからのようです。また、国木田独歩がクリスチャンであり、日清戦争に記者として従軍したように、一つの場所に腰を据えることができなかったことも理由のようです。一方、吉田菊之進は同じ頃、田布施にじっくり腰をすえて吉田裁縫所を設立(明治22年6月)しました。当時は裁縫など実際に役に立つ教育の方が受け入れられました。吉田裁縫所は、今の熊毛南高校に引き継がれています。

田布施高等洋裁学院の跡    御嶽教田布施稲荷協会      祇園宮の石階段
  

 続いて、祇園宮(八坂神社)に向かいました。途中、旧田布施高等洋裁学院の建物がありました。A君のお母さんはこの学校に通っていたそうです。そして、習った技術を使って田布施町内の洋装店に服を卸していたそうです。
 当時、女性がお嫁に行く時に洋裁か和裁の技術を持っていることは躾の一つだったようです。私の母親も、ミシンなど裁縫道具一式を持ってきました。ところが、そのミシンはだいぶ昔に廃棄してしまいました。今、服は作るものではなく、買うものになってしまいました。時代は変わるものです。今の娘さんが嫁入りするのための躾はなんでしょうか。

            昼食休憩した祇園宮(八坂神社)にて、下見参加者7名


 田布施高等洋裁学院跡の建物を過ぎると、祇園宮(八坂神社)へ登りました。途中、地元で「お稲荷さん」と呼んでいる御嶽教田布施稲荷教会の横を通りました。祇園宮はそのすぐ上です。祇園宮からは、田布施町の商店街をよく見下ろすことができます。ここで昼食休憩を取りました。みなさんと談笑しながらの楽しいお昼時でした。

   広々とした大内公園       伏木観音堂にお詣り     祇園観音堂にお詣り
  

 次に大内公園に行きました。この周辺の地域では招魂場といっているそうですが、その慰霊碑はないようです。広々とした公園広場の北側に巨大な忠魂碑が立っています。戦時中、この広場からたくさんの若者が出征したのでしょう。大内公園を過ぎると、伏木観音堂にお詣りし、続いて祇園観音にお詣りしました。

  商店街通りのお地蔵様    長岡商店の古い建屋         波野市の祠
  

 祇園観音から旧田布施町商店街に入りました。この道を歩いていると、昔の賑やかだった頃を少し思い出します。今回参加した方々も歩きながら、キョロキョロと左右を懐かしそうに見ていました。お地蔵様,長岡商店の趣のある古い建屋,そして江戸時代から明治にかけて盛んだった波野市(市場)の名残りの祠を見ました。この祠の前で市場が開かれていたそうです。

                    大恩寺の「飢民の碑」を見学


 波野市の祠を過ぎると、大恩寺に向かいました。そして、入口に入ってすぐ左手にある「飢民の碑」を見学しました。この時の飢饉は悲惨なものがあったそうです。東北では、娘を売るほどに困窮したそうです。田布施ではどうだったのでしょうか。娘を売ったとの話は伝わっていないので、それはなかったようです。
 食べる物が無くなれば、体の抵抗力も無くなり病気も蔓延します。当時の1/3位の方が亡くなったそうです。特に子供が多く亡くなったのではないでしょうか。当時は、多く生んで少なく育ったようです。子供が七歳まで育つのは難しく、だからこそ七五三のお祝いは切実だったのです。

             下見で歩いた田布施町商店街周辺の史跡コース

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