東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 埋蔵文化財の発掘調査報告会に参加

2014年03月14日 | ふるさと

 3月8日午後西田布施公民館で、田布施町の西山,木地地区で発掘された埋蔵物の発掘調査報告会がありました。この日時間が空いていたので参加することにしました。木地地区は行者山の西側にある地区です。この秋に行者山付近を散策していた時、田んぼの圃場整備のために掘り返されていました。その場所でたくさんの人が発掘作業をしている姿をみかけました。それらの発掘結果の報告会でした。

   報告会があった西田布施公民館              発掘の様子などの掲示物
 

 報告会場の西田布施公民館に遅れて着きましたが、発表が始まる直前でぎりぎり間に合いました。最初山口県の埋蔵文化財センターの方々から調査報告がありました。多く出てきたのは土器のようでした。土器は何百年経っても腐ったり変形することがありません。どの時代でも比較的よく発掘される遺物です。私は埋蔵物を掘ったことはありませんが、出てきたこれらの遺物に興味があります。

       埋蔵文化財センターや田布施の担当の方々による埋蔵物発掘調査報告

 報告があった場所の一つは、西山地区の上石田遺跡です。火葬墓が発掘されました。二つ目は木地地区の西河内,堀川,平井,三反地,水奥で遺跡です。このうち平井遺跡は弥生~古墳時代の遺物が発見され、9棟の竪穴式住居跡も発見したとのこと。さらに縄文時代初期に作られた石槍も見つかり、木地地区には1万年以上前から人が住んでいたそうです。これらのことから、田布施には1万年以上前から人が住んでいたことが分かります。
 なお6000年前の縄文時代、縄文海進と言って海抜が今より3~5m位高かったそうです。したがって、木地地区は海岸近くだったかも知れません。それを考えると、城南は当然として、三輪や塩田付近も海岸が迫っていたかも知れません。石城山は海に突き出た半島だったのでしょうか。
 ※数万年前の氷河期、海抜が今より約100m低く朝鮮半島と日本は陸続きでした。氷河期が終わるとどんどん海が上昇しました。そして6000年前の縄文時代が最も海抜が高くなりました。その後多少の上下はありましたが、ゆっくりと今の海抜になったようです。

    説明中の埋蔵文化財センターの方    説明中の田布施教育委員会の担当の方
 

 スクリーンでの報告の後、実際に発掘された遺物の説明がありました。最初埋蔵文化財センターの方が、次に田布施町教育委員会の担当のから説明がありました。私が一番興味を持ったのは、穴開けの形跡があった石包丁です。硬い石に小さな穴を開けるのはとても大変だったようです。穴を開けるのを途中で諦めて、使い方を変えていることが分かる珍しい石器です。
 発掘作業をしている姿を見かけた西河内遺跡が、発掘後どうなったか見に行きました。すると、すっかり土で埋められていました。この遺跡、この春から整備された田んぼとして生まれ変わり稲が作られるのでしょう。

 ところで、深夜2時頃に震度5の地震がありました。山口県でもこれほどの地震があるんですねえ。山口県に住んでいた高校生の頃、震度2程度の地震があったと記憶しています。その時、「これが地震か」と妙に感心したことがあります。
 今回の地震がおさまった時、東京で経験した東日本大震災を思い出しました。その時ビルにいましたが、「ビルが倒壊したらおだぶつだなあ」と一瞬思いました。私は運良く自宅に帰ることができましたが、家内も含めて何万人もの人が帰ることができませんでした。その後数日間、計画停電で街の明かりや道路の信号灯が一斉に消えたこと,ガソリンが無くて困ったこと,エレベータが使えずバケツリレーの要領で上階に荷物を運んだことなどを思い出しました。

          圃場整備され綺麗に土で埋められた木地地区の西河内遺跡付近

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