東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(2/7) 平生湾~灸川河口

2014年03月23日 | 歴史探訪他ウォーキング

 いったん平生町に入り平生湾に出ました。今は何もない殺風景な湾になってしまいましたが、私が子供の頃はこの湾でいろいろな海産物が取れました。八海に海苔を作っている家があり、確か湾内に海苔を養殖する網のような物がたくさんあったように思います。

                 平生湾~灸川河口のコースと史跡


 また平生湾では、あさりがたくさん取れました。地元で砂エビと呼んでいたエビも取ったことがあります。海産物ではないのですが、カブトガニもたくさん住んでいました。ところが三新化学の工場ができた頃から、一気に何も取れなくなったように記憶しています。

                    昔はたくさんの海産物が取れた平生湾


 三新化学の工場を回りこむようにして平生湾を回り、田布施川の河口に出ました。そして、初代八海橋跡を経由して、今の3代目八海橋の袂を通りました。その橋の平生側にはたくさんの花を植えてありました。もう少し暖かくなれば、その花は満開になると思います。
 八海橋から300m位上流に荒砂神社があります。私が子供の頃、この神社でよくお祭りがあったことを覚えています。旅回りの芝居などがよく開催されていました。

     八海橋袂に植えられた花               久しぶりに来た荒砂神社
 

 私の祖父祖母は平生町の人島に住んでいました。人島は田布施川に沿った地区ですので、祖父祖母に会うためによく麻郷から人島に遊びに来ていました。その時、麻郷と人島を結んでいた人島橋を渡って、祖父祖母の元に通っていました。今その橋はありません。思い出に中だけに残っています。

             平生町の人島から田布施川の上流を見て、正面は石城山


 平生町の人島地区を過ぎると、灸川の河口に着きます。この灸川河口には、江戸時代の灸川の流れの痕跡が今でも残っています。今は川幅10m程度の小さな灸川ですが、当時は今の川幅の3倍はあったのではいかと思います。
 ところで、江戸時代の田布施川の本流は瀬戸地区から流れる薬師川でした。その薬師川が熊毛南高校の少し北で灸川でに合流していました。つまり江戸時代の灸川は、今の田布施川と同じ程度の広い川幅だったのです。その灸川が田布施川に流れ込んでいる近くに、名も知れぬお地蔵様があります。風化してもう文字は読めませんでした。

     矢印は昔の灸川の川幅            文字が風化した名も知れぬお地蔵様
 


 八海をスタートして田布施川左岸の堤防を上流に向かって歩き、新開橋から引き返して右岸の堤防を歩いて八海へ戻りました。途中、田布施川沿いの史跡や神社仏閣を訪ねました。歩いたコースを7ヶ所に分けました。それぞれをクリックしてください。

 (1/7)八海天神社~こくぼ橋   (2/7)平生湾~灸川河口
 (3/7)川添橋~旧関戸橋          (4/7)あいさつ橋~新定位堰
 (5/7)水戸橋~詩情公園        (6/7)田布施町庁舎~旧関戸橋
 (7/7)川添橋~八海公会堂 

             田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングコースの概略

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