錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~世代交替(その1)

2012-09-13 23:53:20 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 戦後しばらく、東京の歌舞伎界は、菊五郎と吉右衛門を中心に回っていた。この二人を座頭とする本流二派に、猿之助一座を加えて、三派と言ってもよいかもしれないが、猿之助一座は傍流であった。
 大御所七代目幸四郎も舞台に出た。が、すでに老齢の域に達していた。また、宗十郎が晩年の活躍を見せ、いわゆる宗十郎歌舞伎を確立するのも戦後のこの時期であった。ベテランの坂東三津五郎は健在だった。
 昭和二十二年、菊五郎と吉右衛門、そして幸四郎の三人は、芸術院会員になるが、菊五郎は六十二歳、吉右衛門は六十一歳、幸四郎はすでに七十七歳だった。
 歌舞伎界に暗い出来事も起った。
 戦後間もない食糧難の頃、昭和二十一年三月十六日、十二代目片岡仁左衛門(六十三歳)が殺される事件が起った。食べ物の恨みから、住み込みの門弟に薪割り用の斧で、夫人、三男、女中二人とともに殺されたのだった。
 関西歌舞伎では昭和二十三年、女形の名優中村梅玉(七十三歳)が亡くなった。
 
 東京の歌舞伎界が大きな痛手を受けるのは、昭和二十四年だった。三人の大看板が次々と亡くなったのである。
 一月二十六日、七代目幸四郎が死去(七十八歳)。
 三月二日、七代目宗十郎が死去(七十三歳)。
 七月十日、六代目菊五郎が死去(六十三歳)。

 六代目菊五郎は四月東劇で「加賀鳶」の道玄を勤めている最中に眼底出血で倒れ、療養中だった。その菊五郎が七月十日死去した。

 これで、歌舞伎界の勢力図が変った。
 吉右衛門がトップに立ったのだが、吉右衛門はライバル菊五郎の死後衰えを見せ、また病気がちだった。後進に道を譲って出番を減らし、また守役になることも多くなった。そこで、当時伸び盛りだった若手たちが歌舞伎界を背負っていくことになる。
 菊五郎劇団は、菊五郎の死後、男女蔵、海老蔵、松緑、梅幸が中心となって結束を固めた。彼らはみな実力をつけ人気役者になっていく。
 吉右衛門一座は、染五郎、もしほ、芝翫が次々と名跡を襲名し、八代目幸四郎(昭和二十四年八月襲名)、十七代目勘三郎(昭和二十五年一月襲名)、六代目歌右衛門(昭和二十六年四月襲名)となって看板を張り始める。
 歌舞伎界に世代交替の時期が始まった。

 こうした状況下で、立女形の時蔵は、微妙な立場に置かれていく。
 大正期から戦後間もない頃まで四十年以上にわたり、時蔵は兄の吉右衛門と行動を共にして来た。これは舞台の上での話だが、吉右衛門と時蔵は、ずっと恋人同士あるいは夫婦の関係であった。
 時蔵は、大正から昭和初期の二大女形と言われる五代目歌右衛門と六代目梅幸から学んだ女形だった。時代物の品格ある奥方や遊女、例えば、淀君、常盤御前、「先代萩」の政岡、「子別れ」の重の井、「助六」の揚巻、世話物では良妻型の子持ちの女房を得意役とした。が、時蔵は、古風で地味な役者であり、華やかさで観客を魅了する役者ではなかった。名優ではあっても、一枚看板で客を呼べる人気役者ではなかった。次第に芝翫(のちの歌右衛門)が頭角を現していくにしたがい、吉右衛門が芝翫を相手役に登用し始め、時蔵は脇に回り、年齢相応の役が多くなっていった。
 吉右衛門は、五代目歌右衛門の子で、早世した天才女形五代目福助の弟とも遺児とも言われる芝翫を特別に可愛がった。そして、戦後、吉右衛門が主役を張らない時は、主役は娘婿の染五郎、または弟のもしほがやり、相手役は芝翫が勤めることが多くなった。時蔵の出る幕がだんだん少なくなった。
 そうした不満もあったのだろう、時蔵は昭和二十一年暮に吉右衛門一座を離れた。そして、昭和二十四年からは三越劇場を本拠に、自らが座頭となって新たな道を模索していく。
 三越劇場では、同年の初夏から三ヶ月にわたって時蔵中心の出し物を組むが、小規模だがユニークな企画であった。主な出し物は、五月が「先代萩」「小猿七之助」、六月が「吃又」「切られお富」、七月が「怪談累物語」「女団七」。
 そこに、錦之助も加わり、「先代萩」「吃又」以外に出演した。が、すべて女役だった。兄の種太郎は男役、賀津雄は子役である。梅枝は吉右衛門一座に残り、獅童は役者を廃業していた。
 ここで、錦之助の兄三人について触れておこう。
 長兄種太郎(本名貴智雄)は、戦中から六代目菊五郎の教えを受けていたこともあり、戦後は二年ほど菊五郎一座にいたが、この頃は時蔵の側近にいた。種五郎は吉右衛門のライバルの菊五郎に師事したため、吉右衛門一座へは戻れず、父の時蔵の庇護下にいるほかはなかった。種太郎は、一番苦労したのではないかと思う。彼は幼い頃小児麻痺を患ったため、成人してからも身体が不自由で、しかも時蔵の長男として期待されていた重圧もあり、それに負けじと修業に励んだのだが、思うようにいかなかった。体型も顔立ちも女形向きではなかったので、立役を目指していたが、身体的にも才能的にも限界があった。種太郎は、昭和二十四年十一月、二十四歳で結婚した。長男進一(米吉から現・歌六)が生まれるのは、昭和二十五年十月である。
 次兄梅枝(本名茂雄)は、中学時代には大病したこともあり舞台に出ることはなかったが、戦後は吉右衛門一座で順調に成長を遂げていく。種太郎と違い、女形に向いていたことも幸いした。時蔵と同じ女形を目指したので、時蔵から学ぶことも多く、また吉右衛門劇団の女形ナンバーワン芝翫(のちの歌右衛門)に可愛がられたことも大きかった。梅枝は、時蔵と芝翫という吉右衛門の新旧二人の女房から女の手ほどきを受けたのである。それにまた女形としては無類の美しさだったので、将来を嘱望されていた。
 三兄獅童(本名三喜雄)は、終戦後一時期は若衆役などで出演していたが、ある事件を起こし、歌舞伎界からきっぱり身を引いてしまう。
 その事件とは、六代目菊五郎の「喜撰」にお迎え坊主の役で出ていた時、先輩の尾上松緑にからかわれ気味に「まずいな」と言われて憤慨、いくらなだめすかされても、翌日から舞台に立たなかった、というのである。獅童は、自分のことならともかく、身内のこともけなされて激怒したというのが真相だったようだ。身内とは誰だか分からないが、種太郎のことだったのではあるまいか。
 この事件は、昭和二十一年六月、東劇でのことだったと思われる。獅童は、もともと役者が好きではなく、将来に不安を抱えていたこともあり、自分の意志を通したのだろう。役者を廃業した彼は、その後、サラリーマンに転身、小川三喜雄という普通の人になってしまう。勤め先は外資系の銀行だったという。後年(昭和二十九年)、錦之助が東映に入ると、彼も東映企画部に入社し、錦之助映画のプロデュースを担当することになるのは周知の通りである。途中から小川貴也という名前に変えている。