錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

「錦之助映画祭りイン京都」への道のり(その3)

2009-05-01 22:29:45 | 錦之助映画祭り
 初めは、祇園会館で土曜と日曜の2日催そうと思っていたが、中島監督曰く、「京都での興行は難しいぞ。祇園会館は器が大きいから、土曜日一日だけにしたほうがいいんじゃないか。」京都映画祭でも、集客には大変苦労しているそうなのだ。そこで祇園会館では「錦之助映画祭りイン京都」のオープニングとして4月11日の土曜1日だけにして、山田支配人に予約をお願いする。その後引き続いて6月に京都シネマで一週間か二週間、錦之助祭りを行うよう神谷さんと打ち合わせ、3月になってからプログラムを決めることで合意。
 10月半ばに「マキノ映画誕生100年~徹底特集」と銘打って第6回京都映画祭が催された。早速、錦之助映画ファンの会の会報を制作し、祇園会館へ1000部送り、配布してもらうことにする。錦之助映画祭りの開催と日程を今のうちに映画ファンに知らせておこうと思って、作戦を開始したわけだ。
 10月13日土曜にはマキノ雅弘監督、錦之助主演の映画『おしどり駕篭』と『清水港の名物男 遠州森の石松』の2本が上映され、トークゲストに丘さとみさんがいらっしゃるというので、私は再度京都・祇園会館を訪ねた。ファンの会のみんなも10名以上詰め掛けた。この日は錦ちゃんの映画2本と大川橋蔵主演の『いれずみ半太郎』を観て、丘さんのトークショーを楽しみ、日帰りで東京へ帰ってきた。それにしても、これほど豪華なラインアップなのに、観客が半分も入っていないことには驚く。250名に満たなかったと思う。中島監督の言う通り、京都ではお客さんの入りが悪い。これは大変だ!「錦之助映画祭り」も安閑はとしていられないと気を引き締める。
 東京に帰って、急きょ有馬稲子さんのゲスト招聘の方策を考える。京都映画祭の実情を目の当たりにし、京都でお客さんを集めるには、有馬さんくらいのスターを招かないとダメだと痛感したからだった。有馬さんには、8月に錦ちゃん祭りへの協力を要請して快諾を得てはいたが、横浜にお住まいの有馬さんを京都までお呼びするにはそれなりの準備がいる。まず、上映作品に『浪花の恋の物語』を加えることが必須条件になる。『浪花の恋の物語』は東映に上映用フィルムがなく、この映画を上映するとなれば、フィルムセンター所蔵のフィルムを借りるか、ファンの会がお金を出して東映にニュープリントを制作してもらうしかない。10月の時点では、フィルムセンターからフィルムを借りることは困難な状況だったので、東映営業部に連絡をとる。前に注文した5本に加え、『浪花の恋の物語』もニュープリントにしてもらいたいと依頼。この映画、内田吐夢監督、錦之助、有馬稲子の傑作であるもかかわらず、東映に上映用フィルムがないこと自体おかしいと思うが、今更文句も言っても始まらない。次に、中島監督に連絡を取り、お伺いをたてる。監督は、有馬さんとは懇意だそうで、トークショーの聞き手をお願いすると、喜んで引き受けてくださる。「有馬さんを呼ぶなら、出演料に新幹線のグリーン車代と一流ホテルの宿泊費をプラスしなくてはいかんな」と一言。有馬さんは現役の女優さんである。いくら差し上げれば良いのだろう。でも、お客さんを集めるためには、背に腹はかえられない。
 有馬さんの事務所へ連絡して事情を説明し、私からの手紙を有馬さんへ渡してほしいとお願いする。8月にも有馬さんへはお手紙を書いて協力をお願いしたのだが、これで二度目である。錦之助映画祭りを企画してから、ずいぶんたくさんの方々に手紙を書いてきたが、ファックスではなく封書で長文の手紙を3通も送ったのは有馬さんだけだ。(実は12月にもう1通送った。)さらに言えば、3通も手紙を送って、ご本人から1通もお返事をいただかず、事務所のマネージャーから電話で伝言をいただいたのも有馬さんだけだった。それはともかく、手紙を出して一週間後に、有馬さんから間接的にオーケーをもらい、一安心する。きっと私の誠意が通じたにちがいない。(つづく)


「錦之助映画祭りイン京都」への道のり(その2)

2009-05-01 20:58:27 | 錦之助映画祭り
 9月に私は京都を訪れ、あちこちを回って打ち合わせをした。
 祇園会館の山田支配人、京都シネマ館主の神谷さんとは電話では話していたが、お会いするのは初めてだった。京都シネマではマネージャーの横地さんともお会いした。みんな、私の熱気に当てられ、辟易したと思う。
 ついでにと言ってはなんだが、映写状態を確かめるため、祇園会館と京都シネマでそれぞれ上映中の映画を観た。祇園会館ではアメリカ映画を(近年公開されたアクション映画だったが、題名は忘れた)、京都シネマでは小泉今日子主演の『グーグーだって猫である』を観る。どちらも新作で退屈はしなかったが、昔の映画を今観たほうが数段面白く感じる。
 祇園会館は、昔ながらの劇場形の映画館である。こういう巨大な一戸建ての映画館はほとんど姿を消してしまった。今は、文字通りの意味での「映画館」はなく、大きなビルのフロアーにある「映画ホール」ばかり。こういう映画館が京都に今も残っていること自体、不思議に思うし、懐かしさを覚える。祇園会館はイスの座り心地は悪いが、スクリーンの大きさと音響は申し分なし。ただ、あまりにも大きすぎる。500人収容で、今の時代に映画を上映してこうした場所を満員にするのは至難なことのように思えてくる。その日も客の入りもパラパラで、100人にも満たなかった。
 一方、京都シネマは、立地条件が良く、四条烏丸の交差点のすぐそばのビルの三階にある。が、難は小さくて狭すぎることだった。大・中・小のホールが三室あり、小規模なシネコン(シネマ・コンプレックス=映画複合施設)といった感じだが、大ホールと言ってもわずか104人しか入らない。中ホールが89人、小ホールが61人収容。私が映画を観たのは大ホールであったが、学校の教室で映画を観ているような感じだった。スクリーンが小さく、黒板程度。それと、座席の前列と後列の段差があまりないため、前の客の頭が気になる。京都シネマが入っているビルは、古いビルを改装して、ファッショナブルな仕様に変えたものだが、もともと映画館用に設計されていないので、天井が低い。したがって、スクリーンも座席もこうした配置になるのは、仕方がないのだろう。映画を観はじめた時はこうした点が気になったが、途中で気にならなくなる。小泉今日子の映画がテレビドラマのようだったので、スクリーンの大きさなど問題なかったのかもしれない。立ち回りのある東映時代劇をこのスクリーンで観たら、迫力不足を感じるかもしれない。が、京都シネマで催すことを決めた以上、そんなことは言っていられない。
 京都文化博物館へも足を運んだ。映像ホールの責任者の森脇さんには3年前くらいから世話になっている。京都文博は、毎年7月に『祇園祭』を上映していることもあり、ほかにも錦之助映画を度々上映しているので、錦ちゃんファンとっては馴染みの場所だからである。私もここへは三度ほど来て映画を観ている。ファンの会(錦友会)の会報もこれまで何度もホール入り口のラックに置いて配布してもらってきた。森脇さんは、京都文博随一の映画研究者で、伊藤大輔監督に関する研究論文ほかいろいろ書いている方だが、映像ホールでの各種催しもこれまでずっと企画運営している功労者でもある。森脇さんに錦之助映画祭りの話を持ちかけると、大乗り気で、協賛してもよいという嬉しい返事。京都シネマの後に、京都文博も錦之助特集を組み、所蔵している作品を何本か上映するということに。これで、京都での錦ちゃん祭りの概要がほぼ固まる。
 京都には2泊3日いた。最終日に中島監督の自宅近くの喫茶店で監督にお目にかかり、報告を済ませた。錦之助さんとのエピソードなど1時間ほど歓談し、別れ際に励ましの言葉をいただく。
「あなたの情熱には参ったよ。まあ、しっかりやりたまえ。」(つづく)





「錦之助映画祭りイン京都」への道のり(その1)

2009-05-01 20:53:46 | 錦之助映画祭り
 錦ちゃん祭りを京都でもやろうと決めたのは昨年の5月ごろだった。それからずっと、ほとんど私一人で企画から設営まで準備してきた。京都でやるとなれば、錦之助さんにゆかりのある祇園会館でぜひとも催したいと思い、まず中島貞夫監督に相談した。中島監督は、ご存知のように現在、京都映画界のドンで、隔年に催している京都映画祭のジェネラル・プロデューサーだから、京都の映画関係者たちの間に信望もあり、祇園会館にも顔がきく。
 中島監督に初めてお目にかかったのは、昨年1月、東映京都撮影所で開かれた「佐々木康監督生誕100年祭」のパーティ会場だった。
 今思うと、主催者の円尾敏郎さんに頼まれ、佐々木康監督の映画特集のお手伝いをさせてもらったことが大変有意義で、後々の思わぬ展開につながったと言える。京都撮影所でオールスター映画『血斗水滸伝 怒涛の対決』のニュープリントが試写室で上映されるというので、私はファンの会のMさんから借りたポスターを4枚(『七つの誓い』も含め)東京から持って行き、会場に飾る役目を言いつかったのだった。もちろん、電車賃、宿泊費など、すべて自前である。ポスターを飾るだけでお役目終わりではわざわざ京都まで来た甲斐がないと思い、撮影所の入り口で案内係をやったり、錦之助ファンの会の会報を配ったりもした。会場には東映の関係者が数多くいらしたので、錦之助ファンの会の存在と、幹事をやっている私の顔を、あまり良い言葉ではないが、「売り込もう」と思ったのだ。佐々木監督のご長男夫妻や親族の方たちとも知り合いになった。
 上映会の後、東映太秦村のレストランで行われたパーティでは、出席された映画人の方々に自己紹介しながら挨拶して回った。錦之助さんと仕事をされた方々には、図々しくも、ファンの会の活動に協力していただくようお願いした。皆さん、非常に好意的な応接をしてくださり、錦之助さんの遺徳は並々ならぬと感じたのだった。
 お目にかかった方々の名前を挙げると、女優は、千原しのぶさん、雪代敬子さん、円山榮子さん、三島ゆり子さん、西崎みち子さん、男優は、品川隆二さん、遠藤辰雄さん、嶋田景一郎さん、スタントマンの高岡正昭さん、プロデューサーの日下部五朗さんほか。パーティのテーブルでは私の前が三島ゆり子さんで、隣が嶋田景一郎さんだった。お二人とは結構話した。パーティには東映の岡田祐介社長も出席されていたが、スピーチした後、間もなく帰られたので、挨拶する間がなかった。中島貞夫監督とはパーティがお開きになる間際に、二言三言言葉を交わした。
「錦兄イとは昔よく一緒に飲んだんだ。映画のことよりプライベートな話のほうがいろいろあるんだよ。」その時の監督の口ぶりは、いかにも錦之助さんが大好きな様子で、何かあったら協力するとおっしゃっていた。この時は、京都で錦之助映画祭りを催す予定もなく、会報に寄稿でもお願いしようかな、というくらいのことしか考えていなかった。
 それが半年後、急きょ中島監督の自宅へ電話して錦之助映画祭りを支援してほしいと頼むことになるのだから、分からないものだ。「協力はできる限りするから、かんばれ!」とのお返事だったので、早速、企画書を送った。その後監督とは何度か連絡をとって相談しながら、準備を進めた。中島監督の口利きがなければ、京都での錦之助映画祭りは実現しなかったと思う。監督には心から感謝している。おかげで、祇園会館との交渉もスムーズに運んだ。京都シネマでの開催も監督の忠告によるところが大きい。(つづく)