錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『冷飯とおさんとちゃん』(その1)

2006-04-30 21:47:23 | 冷飯とおさんとちゃん


 江戸時代のありふれた市井の人々の喜びと悲しみのドラマ。チャンバラのない時代劇だが、見ていて、心が洗われ、しみじみとした気分になる。『冷飯とおさんとちゃん』(昭和40年4月中旬公開)は、そんな映画だ。私はこの映画が好きで、ビデオでも映画館でも、もう何度も観ている。山本周五郎が書いた短編を三つ選び、鈴木尚之が脚本を書き、田坂具隆が監督したオムニバス映画で、3時間の大作である。主人公はそれぞれ、武家の四男坊(柴山大四郎)、若妻を慕う大工(参太)、貧しい火鉢職人(重吉)で、そのすべてを錦之助が演じ分けている。
 軽快なユーモアとほのぼのとした人間愛を感じる第一話『冷飯』、夫婦の性愛と離別の悲劇を内省的に描いた第二話『おさん』、貧乏暮らしの職人の意地と心暖まる家族愛をテーマにした第三話『ちゃん』。どれもが粒揃い名作に仕上がっている。「田坂監督の映画はいいなあ」とつくづく感じる。彼の映画はまさに底光りする職人芸である。もちろん、「錦之助って名優だなあ」といつもながらに感心する。主役がいいと、共演者も生きてくる。この映画は女優陣の競艶でもある。木暮実千代、入江若葉、三田佳子、新珠三千代、森光子、渡辺美佐子、みんな良い。

 山本周五郎の原作は、すべて新潮文庫に入っている。「おさん」は、短編集のタイトルにもなっていて、「ひやめし物語」と「ちゃん」は、「大炊之介始末(おおいのすけしまつ)」という短編集に収録されている。もともと私は、原作と映画を比べることにあまり関心がなく、原作は原作として、映画は映画として鑑賞する主義なのだが、『冷飯とおさんとちゃん』は原作と比べてみようという気になった。映画が素晴らしかったからだ。原作を読みながら、ところどころで映画のシーンを思い浮かべた。セリフや情景を忠実に再現しているところもあれば、映画にはあったが、原作には書かれていない部分も多々ある。そして、比べているうちに面白くなってきた。半日かけて三作とも読み終えたが、細かいところで、腑に落ちない点があり、そこでまたビデオで映画を見直してみた。結局、二日がかりで、多分15時間以上、この作品を研究(?)することになってしまった。

 第一話の『冷飯』。映画では場所の設定がなかった。江戸ではないどこか地方の城下町だと思っていたが、原作を読むと、「百万石」と「香林坊」が出てくるので、金沢だと判明。この映画はすべてセット撮影でもあり、土地柄はあまり重視していなかったのだろう。
 私の興味は、映画で印象的だった部分が、原作にあるのかないのか、またどう書いてあるのか、ということにあった。たとえば、肌襦袢の襟元に縫いこんだ一両小判の扱い。映画では重要なモチーフとして生かされているが、原作では軽く触れてあるに過ぎない。映画の初めの方で、主人公の大四郎が着替える襦袢に母親(木暮実千代)が小判を入れ替える場面があり、次に、兄三人が大四郎に一両ずつ小遣いをやるところでは次男が襟元から小判を出す場面がある。そして、大四郎が料理屋で拾った財布を中老の中川八郎兵衛(千秋実)の家へ届けに行って、金が足りないと中川に難癖をつけられ、やむなく大四郎がなけなしの小判を出すことになる。原作ではここで初めて「肌付の金一枚」が出てくる。映画ではこの一連の描写が大変面白いのだが、これらはすべて創意工夫だった。原作には兄三人が小遣いを出し合う場面もなく、これは細かいことだが、中川が足りないと言う金額も違っていた(原作では一両二分一朱、映画では三両一分で、ちゃんと金額の辻褄を合わせていた)。また、大四郎が通りで出会い、一目惚れした娘(入江若葉)を桔梗の花にたとえるところがあるが、これは原作にもある。ただ、映画では中川八郎兵衛の娘の名前が菊乃で、どちらの娘と結婚しようかと大四郎が一瞬迷うところで、桔梗の花と菊の花のフラッシュ・バックがあって、ここがラスト・シーンへなだれ込むつなぎのカットとしてものすごく効果的で、いかにも映画的な手法なのだが、もちろん原作にはなかった。その上、中川の娘の名前は、原作では八重で、菊乃ではない。さらに、気がついたのは、映画の初めに大四郎が紙屑屋とぶつかって、古書を買う場面があり、その古書の題名が「秋草庵日記」になっていたが、これも完全に映画上のアイデアで(多分こんな本は実際にはないのだろう)、桔梗と菊という秋の草花を後で登場させる布石になっているのが分かった。『冷飯』は、ストーリーは原作に忠実だが、映画の中にはかなり手の込んだ仕掛けが施してあり、それを知って私は納得し、「うまいもんだなあ」と感心したのだった。

 第二話の『おさん』。これは原作そのものが映画的で、たとえば、二つの話を同時進行させることや、回想場面の挿入の仕方がそうである。もちろん、映画はこうした原作の描写を踏襲している。とくに旅の宿での主人公参太と女中おふさ(新珠三千代)との会話はほとんど同じだった。実は若妻おさん(三田佳子)との場面より私はこちらの方が好きなのである。おさんとの関係については、この作品を映画で観たとき、どうも不自然に感じたところがあった。それは参太が、なぜ美しい若妻のおさんと離別までして、二年間に及ぶ上方への長い旅に出たのかということである。たとえ、おさんが夜の床で恍惚とし、参太の知らない男の名前を叫ぶとしても、それが離別する理由にはならないと思ったのだ。そして、風の噂に、江戸に残したおさんが次から次へと男に身をゆだねていると聞いた参太がそれでも妻への想いを捨てきれず、妻の元に帰ろうとする気持ちも分からなかった。帰途の旅で出会ったおふさとの成り行きは自然なのだが、参太があくまでも女房持ちであることにこだわって、離縁同然にした妻の、自分への変わらぬ愛を信じて疑わない。その単純さが、理解できなかった。原作を読んでも、これは同じで、どうも男女の心理描写に無理がある作品だなと思った。映画では、大磯の宿で、おふさが拾い集めた貝殻を参太に見せるシーンが印象的なのだが、これは原作にはない。おさんを昼顔に喩えるところは原作にもあるが、貝殻の場面では、原作はおふさを朝顔の花になぞらえていた。昼顔と朝顔ではコントラストが際立たないので、映画では貝殻に変えたのだろう。『おさん』は、心理描写も原作に忠実で、参太のモノローグに近い言葉(辰造=佐藤慶との会話)などは原作の記述をそのままシナリオ化していた。原作の観念的に偏りすぎた欠陥が、映画にも見られたことは、残念だが仕方がないことだったのかもしれない。この作品は、全体的に暗くて身につまされる話だが、ラスト・シーンがせめてもの救いだった。参太が墓参りをして、昼顔を活け、死んだ妻おさんと語り合う。映画では、おさんの幽霊が出てくるが、原作にはなかった。原作では、参太が心の中で、妻ならこう答えるだろうと、自問自答していた。言うまでもなく、幽霊の方が映画的で、観る者の瞼に焼き付くように思えた。(つづく)




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1 コメント

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冷や飯 (香林坊)
2016-02-08 12:42:34
はじめまして。 偶然、中村錦之助のこの映画をみてびっくり 山本周五郎原作とは  なるほど 実はこの作品はNHKの単発ドラマで1980頃にあったようでNHK博物館で見ました 金沢が舞台で兼六園で撮影しています 私のお気に入りのドラマで  題名は 折り鶴 でした 配役も脚本のよかったです ぜひ NHKで鑑賞してみてください。
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