錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『任侠清水港』(最終回)

2016-07-11 18:39:44 | 森の石松・若き日の次郎長
 『任侠清水港』で錦之助の石松を見た観客は、錦之助の変身ぶりに最初は驚いた。が、見ているうちに、錦之助が石松役にぴったりはまっているように感じ始め、その魅力に惹きつけられていった。お人よしで愛嬌のある錦之助の石松に共感を覚え、映画の途中からは、石松とともに喜び、がっかりし、悔しがって、観客はすっかり石松に感情移入していた。
 錦之助ファンの反応も同じだった。最愛の錦ちゃんが森の石松をやると聞いて、熱心な女性ファンたちは皆、期待より不安を募らせていたが、映画を見て、そんな不安は吹き飛んでしまった。彼女たちは、錦之助の役に賭ける意欲も努力も知っていた。それだけに、石松に成りきっている錦之助を目の当たりにし、胸を熱くした。そして、映画館で一般の客が錦之助を感心して見ている様子を感じて、身内が褒められている時のように喜んだ。
 錦之助の後援会「錦」は、昭和32年初めには会員数1万8千人を超え、そのほとんどが10代から20代初めの女子であった。会誌「錦」の第三十二号に、錦之助の石松について何人かの感想が載っているので、その一部を紹介しておこう。
――森の石松は錦ちゃんにピッタリでした。演技の昇進も目に見えてはっきりわかりました。自然、本当に自然でした。片目で、ともすれば、くずれがちな顔にも錦ちゃんの熱意のこもったメーキャップで、とても無邪気な、けがれのなさが出ておりました。
――錦之助さんは、二枚目のイメージを惜しげもなく捨てて、とぼけた味と人の良さと、いかにも胸のすく喧嘩早い石松になりきっての力演。人であふれる場内に笑いが絶えない。けれど、その三枚目ぶりのかげにつつまれている思い切った役柄にぶつかっていられる錦之助さんの峻烈な意気が、人知らずしのばれて、笑いながら泣いてしまいました。
――石松が、善意と明るさに満ちあふれた一途な情熱の人として描かれ、また錦之助さんもその石松を何のケレン味も嫌味もなく、サバッとやってのけた意欲の凄まじさを、私はこの身に痛いほどシミジミと感じます。
――今こうしてペンをとっていても、あの都鳥に闇討ちにされる場面が目にうかんできます。「親分……」といって倒れたあの石松の最期。とめどもなく流れる涙をどうすることもできませんでした。
 
 新聞や雑誌の映画評も好意的だった、石松を意欲的に演じた錦之助に注目し、演技の成長と役柄の幅を広げた成果を評価した。
――二枚目スターの金看板に気がねせず、堂々、片眼で三枚目という森の石松をやってのけた心根は見事。演技また上出来。これで錦之助の芸域はグッと広くなった。(「近代映画」昭和32年3月号「今月の映画評」『任侠清水港』より)

 映画評論家の南部僑一郎は、早くから錦之助に期待をかけ、応援してきた人だが、錦之助の石松に対し、惜しみない賛辞を送った。「近代映画」(昭和32年3月号)に連載中の「ぼくのスター評」に、南部は「美事な蝉脱―錦之助の石松を賞讃する―」と題して、こんな文章を書いている。
――今度の森の石松の役は、はじめから彼がぜひやりたいと大いに希望していたものだと聞いた。まことに美事な脱皮ぶりで、すっと胸のすく思いがしたものだ。錦之助の美男ぶりを賞する人々は、この善良だがみっともない、人にふられる役を好まないかも知れぬ。だが、いつも同じ美男よりも、こうした役が演技修業の役に立つことだし、第一、この次に美しくなれば、その美男ぶりが、もっと冴えてみえようというものである。彼がこの石松役をえらび、忠実に石松を演技したことにこの上ない大きな悦びを感じるのは、ぼく一人ではあるまい。少なくとも、昭和三十二年度初頭の錦之助は、新しい道に一歩を踏み出したと云えるだろう。


『任俠清水港』(その15)

2016-07-11 16:39:48 | 森の石松・若き日の次郎長
 『任侠清水港』を撮り終わった後、監督の松田定次は、錦之助について、「近代映画」誌のインタビューにこう語った。(「近代映画」昭和32年2月号所載「ごひいきスター読本 中村錦之助」)
――やっていることが実にしっかりとしていて、ものおじしない割り切った演技です。充分に自分を出しきれないで芝居をしている人がいますが、彼の場合、良かれ悪しかれ、自分の持っているものを充分に出し切って芝居していますね。この点に惹かれるんじゃないでしょうか。いわゆる体当り的演技にね。それと、熱心さと負けん気が目立ちますね。とことんまでやりぬく熱意と誰にも負けんぞーというガンバリの精神が……。若手のスターの中でもずばぬけた存在で将来の大スターとして太鼓判を押していいと思います。
 
 年が明けて、昭和32年の正月。3日からオールスター映画『任侠清水港』は全国の東映系映画館で封切られた。併映は娯楽版中篇の『新諸国物語 七つの誓い(第二部)奴隷船の巻』であった。邦画界初のカラー映画の新作二本立てで、しかも、日本人が好む次郎長物と、子供たちに人気のある「新諸国物語」シリーズの一篇である。
 初日の3日は朝から東映の映画館へ客が詰めかけ、満員御礼となった。
 浅草東映は昨年10月半ばに新築完成し、開館してわずか2か月余りの東映直営館であったが、1800名入る館内が一回目の上映から満席となり、立ち見客でドアが閉まらないほどの大入りになった。この二本立て上映は8日までだったが、連日満員が続き、浅草東映の6日間の観客総動員数は47,249名に上り、収容率は200パーセントに達した。同館では、休日にあふれた客を何回か地下の東映パラス劇場(定員900名)へ移し、同じ映画を上映して急場をしのいだ。収容率というのは、入場者数を定員×上映回数で割った百分率であるが、200パーセントという数字は、データにその観客数を加え、地下の劇場の定員数を無視して、計算したのであろう。
 新宿東映(旧館で定員1430名)も記録的な大入りだった。同期間の観客動員数は38,780名、収容率はなんと222パーセントであった。ここでも、浅草東映同様、あふれた客を地下劇場へ回したのであろう。
 東京の東映直営館はほかに渋谷、銀座、五反田にあったが、正月の6日間に東京だけで15万以上の人たちが『任侠清水港』を見たことになった。
 大阪東映の同期間の観客動員数は、36,289名、福岡東映が29,334名であった。

 東映の資料によると、昭和31年末の東映直営館は32館だった。東京、大阪、福岡以外に、札幌、弘前、盛岡、仙台、新潟、富山、横浜、小田原、名古屋、京都大宮、伊賀上野、広島にあった。直営館ではないが、東映作品だけを上映する専門館が全国に673館あり、こうした東映系列の配給網が東映という映画会社を支えていた。ほかに契約館(東映作品だけでなく他社の映画も上映する映画館)が2000館近くあり、東映作品はまさに全国津々浦々で上映されるようになっていた。
 昭和29年2月(『笛吹童子』が製作される前)には、直営館5館(東京に4館、横浜に1館)、専門館95館、契約館1536館であったことを見れば、昭和29年下半期から31年までの2年半に東映がいかに驚異的な成長を遂げたかが分かるであろう。

 昭和32年の正月は、『任侠清水港』の大当たりによって東映も東映傘下の映画館も大きな収益を上げ、幸先の良いスタートであった。『任侠清水港』の総配給収入は2億円を超えた。前年のオールスター映画『赤穂浪士』の2億6千976万円の記録を破るまでにはいかなかったが、爆発的な大ヒットであった。