この映画について錦之助はこんなことを語っている。
「半年ほど前からぜひやらせてもらいたいと念願していた作品です。大阪で、この芝居を新国劇の方々がやっていらっしゃった時にも、(中村)時十郎といっしょに見に行き、いろいろと役の工夫も致しておりました。映画化に際しては相当話もアレンジされていましたが、とにもかくにもこの映画は、僕の好きなものでした。ファンの方からは、大人ぶってたといわれますが、僕としてはそんな気持ではこの役をやっていないつもりです」(錦之助著「あげ羽の蝶」)
錦ちゃんの言葉は、いつもあっさりとしていて、裏の事情や本音を語らない傾向がある。そこで、私もいろいろ調べて、実はこうだったのではないかと想像したり、推論を立てたりするわけだ。上記の錦ちゃんの言葉を解説しておこう。
まず、長谷川伸と錦之助のつながりについて。
長谷川伸が歌舞伎界から映画デビューしたばかりの頃の錦之助に関心を持っていたことは確かである。昭和29年春、錦之助がデビューした時に、父の時蔵が歌舞伎界に関わりのある政治家、実業家、文化人たちを訪問し、錦之助をよろしくと挨拶回りしているが、その中に時代劇や時代小説の作家たちもいた。長谷川伸、子母澤寛、北条秀司、村上元三たちである。こうした作家たちの原作をいつか錦之助主演で映画化することがあるのを見越したうえでの時蔵の根回しだった。「息子になにか向いた役がありましたら、ぜひ賜りたく、なにとぞよろしく」と頭を下げて回ったのだろう。これに最初に反応したのが子母澤寛で、小説「投げ節弥之」が錦ちゃんに向いているのでは、ということになって、映画化したのが『唄ごよみ いろは若衆』(昭和29年8月封切)であった。長谷川伸も時蔵によろしくと言われて、錦之助のことが頭の片隅にひっかかり、気になっていたようだ。
長谷川伸が愛弟子の村上元三とともに、東映京都撮影所を訪れたのは昭和29年5月のことだった。千恵蔵主演『一本刀土俵入』(佐々木康監督、同年6月封切)の撮影中で、長谷川伸とは馴染みの深い千恵蔵を陣中見舞いしたのだろう。あるいは千恵蔵が演技上の助言を得るため、原作者の長谷川伸を招いたのかもしれない。そのとき、『笛吹童子』で一躍脚光を浴びた錦之助の話題が出て、千恵蔵が長谷川伸と村上元三を、ちょうど撮影中だった『里見八犬伝』のセットに案内し、二人に錦之助を紹介したのだ。錦之助もびっくりしたようだ。時代劇の大家と時代小説の売れっ子作家(村上元三は戦後、大ヒット作「佐々木小次郎」「次郎長三国志」を書き、当時「源義経」を新聞に連載中だった)が畏れ多くもわざわざ自分を会いに来たのだ。錦之助の著書「あげ羽の蝶」には、ただ「このセットを長谷川伸先生、村上元三先生、片岡千恵蔵先生が見にこられ……」としか書いていない。撮影中で錦之助も忙しかっただろうし、挨拶程度の簡単な会話で終わったと思うが、この時、長谷川伸は錦之助に対しどんな印象を受けたのだろう。「なかなかさっぱりした好青年じゃないか」と、あとで千恵蔵に話したのではなかろうか。
錦之助が長谷川伸作「越後獅子祭」の主役片貝の半四郎を演じてみたいと思ったのは、昭和29年6月、東京の明治座で新国劇が辰巳柳太郎主演で「越後獅子祭」を舞台にかけ、劇評でその評判の良さを知ったことだと思われる。錦之助は、多分その夏だと思うが、新国劇の大阪公演を観に行った。参謀の中村時十郎も同行した。新国劇の芝居をこれまで錦之助は見たことがあったのだろうか。多分なかったと思う。芝居を見て、錦之助は感動した。この役なら自分に向いていると思ったにちがいない。芝居のあと、物知り博士の時十郎からいろいろ教わり、「よし!」と錦之助は決断した。
思い立ったら一直線に突っ走るのが錦之助である。8月20日、『八百屋お七 ふり袖月夜』がクランクアップとすると、翌日東京三河台の実家へ帰り、翌22日の夕方に、芝白金にある長谷川伸の邸宅を訪れたのである。その目的は、もちろん、「越後獅子祭」を東映で映画化して、自分が主役を演じて良いかどうか、原作者に承諾を得るためであった。長谷川伸は、錦之助が直接訪ねてきたことを喜び、「いいですよ、ぜひやってごらん」と快諾したにちがいない。長谷川伸の家には30分くらしか居なかったようだ。錦之助の日記を見ると、なにしろこの日のスケジュールがすごかった。午前中、駒沢球場で野球。昼から5時まで、ニッポン放送でラジオドラマ「明玉夕玉」の収録。そのあと、長谷川宅を訪ね、辞去すると、車を飛ばして、6時半すぎに上野精養軒へ。後援会「錦」の発会式があり、女の子のファンがわんさと押しかけ、停電騒ぎもあって大変なことになったが、9時ごろ閉会。そのあと記念写真撮影会を行って、帰宅、という長い一日であった。
その後の話であるが、「越後獅子祭」が実際に映画化されるまでには、かなりの紆余曲折があったようだが、それについては次回に書きたい。
ここで、長谷川伸と錦之助について補足しておくと、この映画のあと、錦之助は舞台で「瞼の母」の番場の忠太郎を演じることになるのだが、長谷川伸から再び承諾を得ている。が、舞台といっても、昭和31年7月に時蔵一座を編成して、東北から北海道を巡業した時のことで、演目の一つに「瞼の母」を加えたのだった。父の時蔵が水熊のおはまをやった。
続いて、昭和33年の錦ちゃん祭りで、「瞼の母」を上演している。2月23日は京都祇園の弥生会館で、8月24日・25日は東京・大手町の産経ホールで催されたが、脚色・演出は村上元三であった。京都の時は、おはまを誰がやったのか不明であるが、東京では時蔵であった。
東京での錦ちゃん祭り(第四回)のパンフレットが手元にあるが、そこに長谷川伸の寄稿文が掲載されている。長谷川伸がいかに錦之助に期待していたがわかるので、引用しておこう。
「中村錦之助君のこと」長谷川伸
「中村錦之助後援会の発会式があった日、わたくしのところへ錦之助君があらわれた。その時以来ずうッと会っていないが、錦之助映画をちょいちょい見ているので、その頃とその後とをくらべると、何度かに区切ったようになって、ウマサと面白さが一つになって出たり、片ッ方づつが出たり出なかったりで、進境のあらわれが実に愉いものである。今も現にこれは、絶えることなく続いている。ウマサと面白さ、などと面倒くさいらしい事をいったが、これは錦之助君がよく勉強している結果が出たのである。しかし、それもあるが、勉強とかに関係なく、錦之助君の演技とカラダと顔とには、持って生まれたモノがあるのである。そのときどきの勉強の結実と、天成のモノと、これを併せて一ト口にいえば、錦之助君は映画劇の名優として、大成する方向に進みつつある、とこう判断して、ジッくり見詰めているのである。近ごろの錦之助君は役の範囲がひろくなって来た、もっと多分ひろくなるに違いない、このことも又、愉みの一つとして、いつか銀幕の上で見られるだろうことを期待する。といってもそれは、汚ないもの退屈なもの、若いものらしぬもの、等は見せてもらいたくない。中村錦之助は絢爛でなくてはならない、そして絢爛なのだからである」(昭和33年8月、錦之助祭りパンフレット)
「半年ほど前からぜひやらせてもらいたいと念願していた作品です。大阪で、この芝居を新国劇の方々がやっていらっしゃった時にも、(中村)時十郎といっしょに見に行き、いろいろと役の工夫も致しておりました。映画化に際しては相当話もアレンジされていましたが、とにもかくにもこの映画は、僕の好きなものでした。ファンの方からは、大人ぶってたといわれますが、僕としてはそんな気持ではこの役をやっていないつもりです」(錦之助著「あげ羽の蝶」)
錦ちゃんの言葉は、いつもあっさりとしていて、裏の事情や本音を語らない傾向がある。そこで、私もいろいろ調べて、実はこうだったのではないかと想像したり、推論を立てたりするわけだ。上記の錦ちゃんの言葉を解説しておこう。
まず、長谷川伸と錦之助のつながりについて。
長谷川伸が歌舞伎界から映画デビューしたばかりの頃の錦之助に関心を持っていたことは確かである。昭和29年春、錦之助がデビューした時に、父の時蔵が歌舞伎界に関わりのある政治家、実業家、文化人たちを訪問し、錦之助をよろしくと挨拶回りしているが、その中に時代劇や時代小説の作家たちもいた。長谷川伸、子母澤寛、北条秀司、村上元三たちである。こうした作家たちの原作をいつか錦之助主演で映画化することがあるのを見越したうえでの時蔵の根回しだった。「息子になにか向いた役がありましたら、ぜひ賜りたく、なにとぞよろしく」と頭を下げて回ったのだろう。これに最初に反応したのが子母澤寛で、小説「投げ節弥之」が錦ちゃんに向いているのでは、ということになって、映画化したのが『唄ごよみ いろは若衆』(昭和29年8月封切)であった。長谷川伸も時蔵によろしくと言われて、錦之助のことが頭の片隅にひっかかり、気になっていたようだ。
長谷川伸が愛弟子の村上元三とともに、東映京都撮影所を訪れたのは昭和29年5月のことだった。千恵蔵主演『一本刀土俵入』(佐々木康監督、同年6月封切)の撮影中で、長谷川伸とは馴染みの深い千恵蔵を陣中見舞いしたのだろう。あるいは千恵蔵が演技上の助言を得るため、原作者の長谷川伸を招いたのかもしれない。そのとき、『笛吹童子』で一躍脚光を浴びた錦之助の話題が出て、千恵蔵が長谷川伸と村上元三を、ちょうど撮影中だった『里見八犬伝』のセットに案内し、二人に錦之助を紹介したのだ。錦之助もびっくりしたようだ。時代劇の大家と時代小説の売れっ子作家(村上元三は戦後、大ヒット作「佐々木小次郎」「次郎長三国志」を書き、当時「源義経」を新聞に連載中だった)が畏れ多くもわざわざ自分を会いに来たのだ。錦之助の著書「あげ羽の蝶」には、ただ「このセットを長谷川伸先生、村上元三先生、片岡千恵蔵先生が見にこられ……」としか書いていない。撮影中で錦之助も忙しかっただろうし、挨拶程度の簡単な会話で終わったと思うが、この時、長谷川伸は錦之助に対しどんな印象を受けたのだろう。「なかなかさっぱりした好青年じゃないか」と、あとで千恵蔵に話したのではなかろうか。
錦之助が長谷川伸作「越後獅子祭」の主役片貝の半四郎を演じてみたいと思ったのは、昭和29年6月、東京の明治座で新国劇が辰巳柳太郎主演で「越後獅子祭」を舞台にかけ、劇評でその評判の良さを知ったことだと思われる。錦之助は、多分その夏だと思うが、新国劇の大阪公演を観に行った。参謀の中村時十郎も同行した。新国劇の芝居をこれまで錦之助は見たことがあったのだろうか。多分なかったと思う。芝居を見て、錦之助は感動した。この役なら自分に向いていると思ったにちがいない。芝居のあと、物知り博士の時十郎からいろいろ教わり、「よし!」と錦之助は決断した。
思い立ったら一直線に突っ走るのが錦之助である。8月20日、『八百屋お七 ふり袖月夜』がクランクアップとすると、翌日東京三河台の実家へ帰り、翌22日の夕方に、芝白金にある長谷川伸の邸宅を訪れたのである。その目的は、もちろん、「越後獅子祭」を東映で映画化して、自分が主役を演じて良いかどうか、原作者に承諾を得るためであった。長谷川伸は、錦之助が直接訪ねてきたことを喜び、「いいですよ、ぜひやってごらん」と快諾したにちがいない。長谷川伸の家には30分くらしか居なかったようだ。錦之助の日記を見ると、なにしろこの日のスケジュールがすごかった。午前中、駒沢球場で野球。昼から5時まで、ニッポン放送でラジオドラマ「明玉夕玉」の収録。そのあと、長谷川宅を訪ね、辞去すると、車を飛ばして、6時半すぎに上野精養軒へ。後援会「錦」の発会式があり、女の子のファンがわんさと押しかけ、停電騒ぎもあって大変なことになったが、9時ごろ閉会。そのあと記念写真撮影会を行って、帰宅、という長い一日であった。
その後の話であるが、「越後獅子祭」が実際に映画化されるまでには、かなりの紆余曲折があったようだが、それについては次回に書きたい。
ここで、長谷川伸と錦之助について補足しておくと、この映画のあと、錦之助は舞台で「瞼の母」の番場の忠太郎を演じることになるのだが、長谷川伸から再び承諾を得ている。が、舞台といっても、昭和31年7月に時蔵一座を編成して、東北から北海道を巡業した時のことで、演目の一つに「瞼の母」を加えたのだった。父の時蔵が水熊のおはまをやった。
続いて、昭和33年の錦ちゃん祭りで、「瞼の母」を上演している。2月23日は京都祇園の弥生会館で、8月24日・25日は東京・大手町の産経ホールで催されたが、脚色・演出は村上元三であった。京都の時は、おはまを誰がやったのか不明であるが、東京では時蔵であった。
東京での錦ちゃん祭り(第四回)のパンフレットが手元にあるが、そこに長谷川伸の寄稿文が掲載されている。長谷川伸がいかに錦之助に期待していたがわかるので、引用しておこう。
「中村錦之助君のこと」長谷川伸
「中村錦之助後援会の発会式があった日、わたくしのところへ錦之助君があらわれた。その時以来ずうッと会っていないが、錦之助映画をちょいちょい見ているので、その頃とその後とをくらべると、何度かに区切ったようになって、ウマサと面白さが一つになって出たり、片ッ方づつが出たり出なかったりで、進境のあらわれが実に愉いものである。今も現にこれは、絶えることなく続いている。ウマサと面白さ、などと面倒くさいらしい事をいったが、これは錦之助君がよく勉強している結果が出たのである。しかし、それもあるが、勉強とかに関係なく、錦之助君の演技とカラダと顔とには、持って生まれたモノがあるのである。そのときどきの勉強の結実と、天成のモノと、これを併せて一ト口にいえば、錦之助君は映画劇の名優として、大成する方向に進みつつある、とこう判断して、ジッくり見詰めているのである。近ごろの錦之助君は役の範囲がひろくなって来た、もっと多分ひろくなるに違いない、このことも又、愉みの一つとして、いつか銀幕の上で見られるだろうことを期待する。といってもそれは、汚ないもの退屈なもの、若いものらしぬもの、等は見せてもらいたくない。中村錦之助は絢爛でなくてはならない、そして絢爛なのだからである」(昭和33年8月、錦之助祭りパンフレット)