錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『任俠清水港』(その11)

2016-06-27 22:29:54 | 森の石松・若き日の次郎長
 その9日後の11月20日、午後から石松の最期の場面が撮影されることになった。20日は奇しくも錦之助の24歳の誕生日であった。たまたまスケジュールの都合でそうなったのだが、誕生日と石松役の自分が殺される日が同じ日に当たってしまったのだ。
 これもなにかの因縁であるし、役者冥利に尽きることなのかもしれない。そう思うと錦之助は、石松は壮絶に死ぬが、自分は役者として生まれ変われるような気もした。
 この日は午前中に『七つの誓い』のロケ撮影が予定されていた。
 この一ヶ月、錦之助は2本掛け持ちをずっと続けていた。途中で風邪を引き、熱を出してダウンしそうにもなった。喉が腫れて、声がかすれ、セリフがうまく言えない時もあった。それでも錦之助は持ち前の気力で、なんとか乗り越えてきた。しかし、疲労はピークに達していた。昨日は珍しく撮影が定時の5時に終ったのだが、ぐったりして、自分の身体でないように感じ、寒気もした。錦之助はすぐに東山の自宅へ帰り、軽い夕食を済ますと、布団にもぐり込んだ。すぐに眠ったので、たっぷり睡眠をとることができた。
 錦之助は、午前6時に起床し朝食を済ますと、庭へ出て、空の様子を見た。朝ぼらけの東の空に雲はあるが、雨にはなりそうにない天気模様である。ロケ撮影は大丈夫だろう。錦之助は庭に祀った狸谷の不動様に、今日一日の無事を祈願した。
 迎えの車で7時に撮影所に着くと、俳優会館の自室に入り、すぐに『七つの誓い』の五郎のメークアップにかかった。カツラをつけ衣裳を着るまでの仕度に約1時間。午前8時、ロケバスに乗って、近場の梅の宮(京都市右京区)へ向かった。
 午前中に数カット撮って終了するはずであったが、あいにくの曇天で1カットしか撮れず、昼休みにいったん撮影所に帰り、午後再びロケ地へ行き、撮影を続行。撮り残したカットを終えると、錦之助はまた撮影所へ戻った。
 いよいよ午後3時から『任侠清水港』の閻魔堂前での石松殺しの場のセット撮影である。
 錦之助は自室の鏡の前で五郎から石松へ早変わりした。メークアップをし直し、髷の崩れたカツラをかぶり、左目をつぶし、そして、傷を負った左の肩口と右足にちぎった晒(さらし)を巻き、血に染まった市松模様の単衣(ひとえ)を着た。最後に腰に長ドスを差すと、杖にしている竹の棒を持ち、第11ステージのセットへ入った。
 第11ステージは10月末に完成したばかりの500坪に及ぶ最も大きなステージであるが、灌木が雑然と立ち並ぶ林道が作られ、中央にはぽつんと閻魔堂が建てられてあった。セットでは午前中から都鳥の兄弟と久六の子分たちが石松を捜し歩くカットが撮り続けられ、さきほど、閻魔堂の前で都鳥の常吉(月形哲之介)、兼吉(富田仲次郎)、金次(清川荘司)が石松の悪口を言うバストショットを済ませ、同じシーンで石松の登場しないカットはすべて撮り終えていた。
 錦之助が「おはようございます」と挨拶して中へ入ると、監督の松田定次をはじめスタッフも役者も錦之助が来るのを待ち構えているところだった。みんな今日が錦之助の誕生日であることを知っていたので、口々に「おめでとう」と言って祝福した。
 錦之助は松田監督のいる中央の閻魔堂の前まで来ると、
「監督、そしてみなさん、ありがとう! きょうはホントに死ぬ気でがんばりますのでよろしく!」と言った。
 それを受けて松田監督が周りに集まったスタッフに向かって、
「じゃ、早速始めましょう。石松が向こうから閻魔堂の前へやって来て、追手の気配を感じ、お堂へ身を隠そうとするところから行きます」と言い、撮影が始まった。



『任俠清水港』(その10)

2016-06-13 17:19:33 | 森の石松・若き日の次郎長
 午前中のセット撮影が早めに終わった時、松田は錦之助に声をかけた。石松の最期の場面では無残に殺されるところを撮らない方が良いのではないかと提案したのだ。
 それに対し、錦之助は憤然として言った。
「あそこはいちばんのヤマ場じゃないですか。ぼくは何度斬られてもいいですから、リアルに撮ってください。ホンをもらった時からずっと、見せどころは石松の死に場だと思って、楽しみにしてきたんですよ」
「そやけど、錦ちゃんがズタズタに斬られて、ファンが承知するやろか」
「喜ばないファンもたくさんいるでしょうね。でも、石松をやる以上、メッタ斬りにされて殺されるところも見せなくちゃ、いっぱしの役者とは言えないですよ。この映画では役者として一皮むけたぼくをみんなに見てもらいたいんです」
 松田は、錦之助の気持ちも分からないわけではなかった。しかしそれでも、石松が殺される場面をリアルに撮ることは避けようと考えていた。

 そんな松田が考えを改め、錦之助に思う存分やらせてみようと決心を固めたのは、石松が都鳥兄弟らにだまし討ちにされる場面、すなわち一度目の斬り合いの場面を撮影した時であった。
 11月11日の日曜、東映京都撮影所の第11ステージに組まれた竹藪の茂った野原の道のセットでのことである。午前9時開始。錦之助のほかに、俳優では都鳥の吉兵衛役の山形勲、その弟二人、常吉役の月形哲之介、梅吉役の津村礼司、保下田の久六の子分で金次役の清川荘司、兼吉役の富田仲次郎、ほかに東映剣会の面々が集まった。
 午前中に場面の冒頭、夜道を酔っ払った石松が都鳥の兄弟に連れられて歩いていくカット、竹藪にひそむ保下田の久六の子分たちのカット、そして、石松が都鳥の吉兵衛に後ろから斬られるカットを撮り終え、午後からこの場面のメインである立ち回りの撮影に入った。
 テストの前に殺陣(たて)師の足立伶二郎が石松になって、からみの役者たちと立ち回りをやってみせた。足立が石松役の錦之助のために練り上げてきた殺陣は、いかにもやくざらしい無手勝流で、これまで錦之助がやったことのない、型破りで荒々しいものであった。敵を威嚇するため長ドスを棒きれのように振り回したり、股を大きく開き腰を落として両手で持った長ドスを前に突き出したり、格好は悪いが窮地に追い詰められた石松の死にもの狂いの暴れ様であった。この立ち回りで、石松は二人を斬り、途中で自らも二度斬られる。一度は右足を払われるように斬られ、転んだところで都鳥の吉兵衛に左腿を突き刺される。しかし、あわやというところで、石松は血路を開いて竹藪に逃げ込む。
 錦之助は足立の真に迫った立ち回りを食い入るように見ながら、自分の力を百パーセント出し切るのはここだと思った。理不尽な仕打ちに対し怒りを爆発させ、火の玉のようになって独り猛然と敵に立ち向かう石松を体当たりで演じよう。
 足立伶二郎はテストで錦之助が実際にやってみせた立ち回りを見て舌を巻いた。これまで何度も錦之助の殺陣を付けて、錦之助の運動能力と勘の良さにはいつも感心してきた足立であったが、これほどすさまじい気迫に溢れた錦之助を見るのは初めてだった。からみの役者たち、剣会のみんなも錦之助の凄さに気圧された。
 テストを見ながら松田定次も目を瞠った。これまでの撮影で錦之助が演じてきたお人よしで茶目っ気のある二枚目半の石松はすっかり姿を消し、そこにあるのは悲劇の主人公を必死で演じようとしている真剣そのものの錦之助であった。
 松田は早速キャメラマンの川崎新太郎と相談してカット割りを決めた。
 まず、俯瞰のロング・ショットで、石松がドスを抜いた直後、十余名の敵に囲まれ、斬り合いを始めるまでを撮る。次に横から引き気味の全身ショットで、斬り合いから一呼吸置いて低く身構える石松を写し、そのまま移動する石松を追ってキャメラは右へパン、斬り合いの続きを撮る。石松が足を斬られ、転ぶところは上からの全身ショット、ここで石松を刺し殺そうとする都鳥の吉兵衛(山形勲)のカットを加え、最後は、起き上がった石松がドスを振り回して血路を開くまでをミディアム・ロングで撮る。立ち回り全体を三つに分解し、それぞれアングルを変え、長回しで収めようといった手順である。途中、石松のバストショットを数カット、金次(清川荘司)と都鳥の吉兵衛のバストショットを挿入するが、それは合間合間に撮っていくことになった。
 テストと本番が交互に繰り返され、最後に石松が竹藪に逃げ込むカットが撮られたのは、夜の8時を過ぎた頃であった。

 この日の撮影中、松田定次は、なにもかもかなぐり捨て、とことんまでやり抜こうとする錦之助のすさまじい役者根性に驚き、圧倒された。それは監督の自分に対する錦之助の挑戦のようでもあった。死にもの狂いで石松役に打ち込んでいる錦之助の熱演を目の当たりして、松田は、石松が無残に殺される場面も真正面から撮って、錦之助を完全燃焼させてやろうと思った。
 夜やっと撮影が終了すると、松田は錦之助のそばに歩み寄り、錦之助の健闘をねぎらって、こう言った。
「錦ちゃんの勝ちやな。石松の最期もリアルに撮るさかい、頼むわ」
 錦之助は目を輝かせてうなずいた。


『任俠清水港』(その9)

2016-05-27 13:40:44 | 森の石松・若き日の次郎長
 11月半ば、『任侠清水港』のクランクも佳境に入り、いよいよ森の石松が金毘羅代参の帰り道、都鳥兄弟らのだまし討ちに遭って、壮絶な最期を遂げる場面を撮ることになった。
 映画で錦之助が敵役に斬られるのも初めてなら、立ち回りで東映剣会(つるぎかい)の斬られ役の面々に錦之助が斬られて殺されるのも、もちろん初めてだった。
 石松が都鳥兄弟らと斬り合いをやる場面は二度ある。
 まず、賭場へ向かう夜道、酔っ払った石松が都鳥の吉兵衛(山形勲)に後ろから出しぬけに斬られ、待ち伏せしていた数人のやくざ(保下田の久六の子分ら)も都鳥に加勢して、斬り合う場面である。ここでは石松は背中を斬られたうえに足も斬られるが、危ういところで竹藪に逃れて窮地を脱する。
 そのあと、石松は小松村の七五郎夫婦(東千代之介と千原しのぶ)の家へ行き、かくまわれて傷の手当てを受ける。しかし、親友夫婦に迷惑がかかるのを気遣い、七五郎が引き留めるのも断って、石松は杖をつき足を引きずりながら去っていく。
 そして、深夜の閻魔堂の前。閻魔堂の中に石松は隠れているが、保下田の久六の子分らが石松を捜しながら、大声で次郎長と自分の悪口を言っているのを聞いて、我慢できずに飛び出して、斬り合いが始まる。すぐに都鳥兄弟らも駆けつけ、やくざ約十人を相手に、負傷した石松一人が死闘を繰り広げる。
 石松のこの最期の場面をどのように撮影するか、これが一番の問題であった。
 比佐芳武が書いた脚本では、この場面はこうなっていった。

吉兵衛「野郎、こんどこそは逃さねえぞ」
石松「なにをぬかしやがる。そいつァこっちのセリフでえ!」
 凄烈な乱斗になったが、石松はついにズタズタに斬られ、がっくりと倒れ伏して、
石松「お、親分!」

 監督の松田定次は、脚本に書かれてある「凄烈な乱斗」と「ズタズタに斬られ」という部分を実際どのように撮影するかについて頭を悩ませていた。
 錦之助は今や東映の宝とも言うべき看板スターであり、とくに子供や若い女性たちから圧倒的な人気を得ているアイドル的存在である。その錦之助を立ち回りで無残に斬り殺させたとしたら、きっと多くのファンから反感を買うにちがいない。しかも、正月に全国の映画館で封切られる総天然色のオールスター映画で、錦之助が殺される場面を上映することはどうなのだろう。縁起が悪いだけではすむまい。監督の自分だけでなく東映本社がごうごうたる非難を浴びるのは目に見えているのではなかろうか。
 松田は二度目の立ち回りは簡単に済ませ、斬られるところも省いて、石松が死ぬことの生々しさはできる限り避けようと考えた。
 しかし、錦之助本人はどう考えているのだろうか。石松を演じることにものすごい意欲を向けている錦之助なのだ。撮影前に一応錦之助の意見をきいてみないわけにもいくまい、と松田は思った。


『任侠清水港』(その8)

2016-05-06 14:33:28 | 森の石松・若き日の次郎長

 自転車で撮影所を移動する錦之助の石松

 錦之助は間もなく24歳を迎えようとしていた。
 映画で森の石松に扮した役者はこれまで数え切れないほどいたが、おそらく錦之助が最年少であった。錦之助の石松は、映画に初めて登場した若くてイキのいい石松だった。
 それだけではない。人気絶頂の若手の二枚目スターが森の石松をやるのも、久しくないことであった。さらに言えば、東京生まれ東京育ちの、いわば江戸ッ子役者が演じた石松も稀であった。
 
 調べてみると、無声映画時代は時代劇の大スター阪東妻三郎の森の石松が極め付きだったという。阪妻は昭和5年の正月映画『清水次郎長伝』とその続篇『石松の最期』(阪妻プロ製作、松竹キネマ配給)で石松を演じている。講談ネタの次郎長物の活動写真であるが、この石松、片目ではなく、右眉の上に刀傷はあるものの、両目であった。
 阪妻はすでに次郎長をやっていたが不評だったらしく、あえて挑んだ勇猛な石松役で観客を魅了した。「写真阪妻映画」の編著者御園京平は、「妻三郎の浪人の殺陣も素晴らしいが、このやくざ剣法、剣術を知らない男がめくら滅法にやる殺陣も実に見事である。(中略)身に負う傷を堪えて、立ちては転び、転んでは立ち上り、歯ぎしりして惨殺される石松の最期、後年羅門光三郎が石松役者と評されたが、阪妻の前には遠く及ばぬ石松であった」と書いている。
 阪妻は、神田生まれの江戸っ子役者で、当時28歳であった。ただし、無声映画では江戸ッ子らしさを発揮するにも限界があったであろう。


阪妻の石松
 
 戦前は、阪妻のほかに、小林重四郎、黒川弥太郎、羅門光三郎、エノケン、千恵蔵などが石松をやった代表的な役者である。とりわけ剣戟スターだった羅門が『金毘羅代参 森の石松』(昭和13年、新興キネマ)で演じた石松が人気を博したという。千恵蔵が『続清水港』(昭和15年、日活京都、マキノ雅弘監督)で石松を演じたのは36歳の時である。そして終戦間近い昭和20年7月公開の『東海水滸伝』(大映、監督は伊藤大輔と稲垣浩)で千恵蔵は40歳を過ぎて再度石松をやるが、次郎長が阪妻(二度目)、小松村の七五郎が右太衛門という配役であり、この映画は大ヒットした。ちなみに、石松の恋人役は花柳小菊だった。『任侠清水港』では次郎長の女房お蝶の役である。


『東海水滸伝』千恵蔵の石松、右太衛門の七五郎、市川春代の女房

 戦後は藤田進(当時37歳)に始まって、田崎潤、大木実、森繁久弥、原健策、堺駿二が石松をやっている。一番若い大木実が29歳、一番年上の原健策は47歳で、ほかの俳優はみな40歳近くであった。
 なかでもマキノ雅弘監督の東宝作品『次郎長三国志』九部作の第二部(昭和28年1月公開)から第八部(昭和29年6月公開)まで登場する森繁の石松が好評だったが、この石松はモサッとした中年のオッサンと言った感じで、従来の元気で気風の良い石松のイメージとは違い、両目で、しかもドモリ(第五部まで)である。だいたい村上元三の原作「次郎長三国志」が講談や浪曲から離れた新趣向の次郎長物で、次郎長の子分たちの群像ドラマに仕立てたため、石松の魅力を半減させてしまった。次郎長や鬼吉にお国言葉を話させるのはまだしも、石松をドモリにしたのは村上元三の行き過ぎた改ざんである。そのうえ映画ではマキノ雅弘がさらに潤色を加え、途中から石松を片目にしてドモリを直したり、金毘羅代参のあと、遊女夕顔との話をオリジナルで創ったりしたものだから、従来親しまれてきた石松像がすっかり変わってしまった。また、石松役の森繁は、次郎長をやった小堀明男(当時32歳)より年上で、まだ映画俳優として売れていなかった。だからでもあろう、演技過剰で、いかにもあざとい芝居をした。あの顔面神経痛のような顔つきと大げさな身振りは、好き嫌いの分かれるところであろうが、私自身は嫌いである。


森繁の石松、小堀の次郎長

 話を錦之助の石松に戻そう。錦之助は、千恵蔵から阪妻の石松のことも聞いたであろうし、千恵蔵自身の経験談も聞かされたにちがいない。千恵蔵が錦之助を石松役に推薦した時、石松は二枚目の人気スターがやるべきものだという考えが念頭にあったようだが、千恵蔵は自分のことではなく、阪妻の石松を思い浮かべていたのかもしれない。
 千恵蔵は『任侠清水港』で初めて次郎長を演じることになるのだが、53歳であった。錦之助とは親子ほど違う30歳近い年の差があった。錦之助の石松が最年少なら、千恵蔵の次郎長は最高齢だったと言えよう。(昭和28年の東映の正月映画『喧嘩笠』で次郎長をやった大河内伝次郎は54歳だったが、この映画の次郎長は脇役で、千恵蔵の大前田栄次郎が主役だった。)



『任俠清水港』(その7)

2016-04-26 18:32:46 | 森の石松・若き日の次郎長

オープンセットで千恵蔵をおんぶする錦之助

 この日の撮影が終わると早速、錦之助は千恵蔵の家を訪ねた。撮影を見ていた千恵蔵の感想が聞きたかったからだ。千恵蔵は「山の御大」と呼ばれるように、京都市太秦垂箕山町(たるみやまちょう)の高台に住んでいた。
「江戸っ子だね、錦ちゃんの石松は」と千恵蔵は言った。
「そうですか。地を出すとああなっちゃって」
「あの感じでいいと思うけど、ただ……」
「……?」
「片目らしさが出てないよ。まだ両目の演技をやっていると思ったなァ」
 千恵蔵にそう言われて、錦之助はハッとした。メークで左目をつぶしているが、隙間から見えるので、どうしても両目の演技になっていたのだ。さすがに御大は大事なところまでよく見ている。セリフにばかり気をとられて、石松が片目だということについての配慮が足りなかった。身振りも顔の表情も研究不足だったと錦之助は反省した。
 錦之助がちょっと気落ちしているのを見て、千恵蔵は付け加えて言った。
「両目が見えない盲人の演技はわりあい楽なんだけど、片目っていうのは難しいよ。丹下左膳も片目だが、石松は性格がまったく違うだろう。石松はおっちょこちょいで愛嬌者だよな。その点も考えて、顔の片側だけでもっと表情を出すように工夫してみたらどうかなァ」

 錦之助はこれまで千恵蔵と膝を交えてじっくりと演技の話をしたことがなかった。『お坊主天狗』と『新選組鬼隊長』で共演した時は、錦之助がデビューした年であり、大先輩の千恵蔵は恐れ多くて近寄りがたい存在だった。撮影所での挨拶は欠かさなかったが、現場では監督をはさんで、千恵蔵とセリフのやり取りをするだけで、精一杯だった。
 それが、今年の夏の終わり、『曽我兄弟 富士の夜襲』で錦之助は久しぶりに千恵蔵と共演した。いわゆる「敷皮問答」と言われるラストの見せ場で、捕縛された曽我五郎が源頼朝の前に引き立てられ、苦節十八年の非条理を咎め、訴える場面であった。錦之助はこの時、頼朝役の千恵蔵の演技に圧倒された。押さえた演技でぐいぐい威圧してくる千恵蔵の迫力を肌身で感じ、凄いと思った。錦之助はそれをはね返そうと懸命になって演じたのだった。撮影が終わって、あとでラッシュを見た時、映写室にいた千恵蔵のそばへ行って、錦之助は正直にそのことを打ち明けた。一方、千恵蔵も錦之助の演技の成長ぶりに目を見張った。口跡も良くなったし、共演してみて感心したのは、錦之助が線の太い演技をすることができるようになったことであった。千恵蔵は錦之助を褒めた。そして、これを機に、錦之助は心の底から千恵蔵に敬服し、千恵蔵は自分の後継者として錦之助の今後に大きな期待を抱くようになった。二人の親近感が急速に増したのである。
 錦之助が千恵蔵の家を訪ねた日、二人は夜遅くまで語り合った。錦之助が常日頃思っていることを率直に話すと、千恵蔵は適切な忠告をして、錦之助を励ました。それだけでなく、千恵蔵は演技について自分が心がけていることをいろいろ教えてくれた。
 なかでも錦之助にとって大変参考になったのは、石松のような役は「腹をほうり出したような芝居」をすると良いということであった。腹のうちをぐっと押さえた演技とは反対に、明快であけっぴろげな演技のことである。錦之助は、よし、やってみるぞという気になった。