自分はホラー映画が好きです。
ホラー映画のどんなところが好きなのかというとホラー映画の、ホラー映画でしか味わえない感動や衝撃ですね。
ホラー映画で感動するというと、「え?」と思われる方もいるかもしれませんが、いや、感動しますよ、フツーに。
パスカル・ロジェ監督の『ゴーストランドの惨劇』はその年に観た映画の中で一番感動しました。
殺人鬼に追われたヒロインが安全な場所に逃げ込むんですよ。
そこにいたら誰からも襲われることはないのですが、同時に姉を救うことも出来ない。
彼女は勇気を振り絞って一歩踏み出し、姉の元へと向かうのです。
あのシーンは見ていてめっちゃ感動しましたが、あのシーンで感動出来るのは自分ぐらいのものかもしれません。
ホラー映画が好きだと言いましたが、ホラー映画なら何でも受け入れられるわけではありません。
例えば、殺人鬼が屋敷の中にいて、屋敷の住人がパートナーに「お前はあっちに行け。俺はこっちを探す」みたいに指示を出すシーンがあります。
いやいやいや、あり得ないでしょ、何で屋敷の中に殺人鬼がいることがわかっていて二手に分かれるかなぁ。
現実の世界で屋敷の中に殺人鬼がいたら(まぁそういうシチュエーション自体現実ではありえないですが)、絶対に二人一緒に行動しますよね。
作劇上なぜ二手に分かれるのかはわかります。
殺人鬼が住人を始末しやすいように、ですよね。
そんなふうに登場人物が不自然な行動を取ると、あぁ、自分は作り物を見ているんだな、と見ていて醒めるんです。
だから自分は作劇上の理由で登場人物が不自然な行動を取るホラー映画は好きではありません。
でもそういったホラー映画って案外多いんですよ。
登場人物の行動の不自然さに限らず、展開が唐突だったり、オチが意味不明だったり、作りが雑なホラー映画が本当に多い。
ともかく血がドバドバ出れば、人がドカドカ死ねば、それで満足でしょ、と作り手が言いたげであるかのようです。
でも自分はホラー映画なんだから作りが雑で良い、とは思わないんですよね。
上述の『ゴーストランドの惨劇』に限らず、きちんと細部まで作り込まれているホラー映画はいくらでもありますから。
ホラー映画だから作りが雑だというのは作り手の言い訳に過ぎないと思います。
実はこれはホラー映画に限らず言えることですね。
ホラー映画だろうと、ファンタジー映画だろうと、どんなジャンルの映画であれ、登場人物の行動が不自然で良いとは思わないし、設定がテキトーで良いとも思いません。
ただ、今述べたことはあくまで自分がそう思う、ってだけの話です。
ホラー映画においては血がドバドバ出て、人がドカドカ死ぬことが何より重要なのだ、というホラー映画ファンの方もいるでしょう。
その見方が間違っている、とは思いません。
自分とは見方が違うのだな、というだけであって。
湯浅政明監督の『夜明け告げるルーのうた』を観たのはかれこれ5年も前のことです。
自分には『夜明け告げるルーのうた』は受け入れがたい作品でした。
登場人物の行動の不自然さも、設定の雑さも、展開の唐突さも、何もかもが。
つい先日そのレビュー記事にコメントがつきました。
要約すると、リアルを追求した作品でないのに細部にこだわるのはおかしい、といった内容でした。
たぶんこの人はホラー映画で、屋敷の中に殺人鬼がいて、住人が二手に分かれても、そのことに不自然さは覚えないのでしょう。
その考えが間違っている、とは思いませんが、その考えを押し付けるのは勘弁して欲しいと思いました。
リアルを追求していない作品であっても、細部にこだわる人間がいることを容認して欲しいものです。
ホラー映画のどんなところが好きなのかというとホラー映画の、ホラー映画でしか味わえない感動や衝撃ですね。
ホラー映画で感動するというと、「え?」と思われる方もいるかもしれませんが、いや、感動しますよ、フツーに。
パスカル・ロジェ監督の『ゴーストランドの惨劇』はその年に観た映画の中で一番感動しました。
殺人鬼に追われたヒロインが安全な場所に逃げ込むんですよ。
そこにいたら誰からも襲われることはないのですが、同時に姉を救うことも出来ない。
彼女は勇気を振り絞って一歩踏み出し、姉の元へと向かうのです。
あのシーンは見ていてめっちゃ感動しましたが、あのシーンで感動出来るのは自分ぐらいのものかもしれません。
ホラー映画が好きだと言いましたが、ホラー映画なら何でも受け入れられるわけではありません。
例えば、殺人鬼が屋敷の中にいて、屋敷の住人がパートナーに「お前はあっちに行け。俺はこっちを探す」みたいに指示を出すシーンがあります。
いやいやいや、あり得ないでしょ、何で屋敷の中に殺人鬼がいることがわかっていて二手に分かれるかなぁ。
現実の世界で屋敷の中に殺人鬼がいたら(まぁそういうシチュエーション自体現実ではありえないですが)、絶対に二人一緒に行動しますよね。
作劇上なぜ二手に分かれるのかはわかります。
殺人鬼が住人を始末しやすいように、ですよね。
そんなふうに登場人物が不自然な行動を取ると、あぁ、自分は作り物を見ているんだな、と見ていて醒めるんです。
だから自分は作劇上の理由で登場人物が不自然な行動を取るホラー映画は好きではありません。
でもそういったホラー映画って案外多いんですよ。
登場人物の行動の不自然さに限らず、展開が唐突だったり、オチが意味不明だったり、作りが雑なホラー映画が本当に多い。
ともかく血がドバドバ出れば、人がドカドカ死ねば、それで満足でしょ、と作り手が言いたげであるかのようです。
でも自分はホラー映画なんだから作りが雑で良い、とは思わないんですよね。
上述の『ゴーストランドの惨劇』に限らず、きちんと細部まで作り込まれているホラー映画はいくらでもありますから。
ホラー映画だから作りが雑だというのは作り手の言い訳に過ぎないと思います。
実はこれはホラー映画に限らず言えることですね。
ホラー映画だろうと、ファンタジー映画だろうと、どんなジャンルの映画であれ、登場人物の行動が不自然で良いとは思わないし、設定がテキトーで良いとも思いません。
ただ、今述べたことはあくまで自分がそう思う、ってだけの話です。
ホラー映画においては血がドバドバ出て、人がドカドカ死ぬことが何より重要なのだ、というホラー映画ファンの方もいるでしょう。
その見方が間違っている、とは思いません。
自分とは見方が違うのだな、というだけであって。
湯浅政明監督の『夜明け告げるルーのうた』を観たのはかれこれ5年も前のことです。
自分には『夜明け告げるルーのうた』は受け入れがたい作品でした。
登場人物の行動の不自然さも、設定の雑さも、展開の唐突さも、何もかもが。
つい先日そのレビュー記事にコメントがつきました。
要約すると、リアルを追求した作品でないのに細部にこだわるのはおかしい、といった内容でした。
たぶんこの人はホラー映画で、屋敷の中に殺人鬼がいて、住人が二手に分かれても、そのことに不自然さは覚えないのでしょう。
その考えが間違っている、とは思いませんが、その考えを押し付けるのは勘弁して欲しいと思いました。
リアルを追求していない作品であっても、細部にこだわる人間がいることを容認して欲しいものです。