ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2021年01月24日 | 書評
京都市下京区松原通り麩屋町角 「石不動」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第38巻(年代:1362年)(その1)

1、悪星出現の事
1362年2月、都では彗星(ほうき星)、客星(新星爆発)が同時に出たということで大騒ぎになった。天文博士が内裏に召されて吉凶を占い申し上げた。客星は用明天皇のとき守屋の乱のとき以来14度出て、二度は祥瑞、十二度は凶であった。彗星は蘇我入鹿の乱以来86度でていずれも凶であったという。天地人災が同時に起こるかもと人々は憂いた。
2、湖水乾く事
この時近江の水海も10mも水位が下がった。白髭神社前の湖中から木の柱の橋が見えたという。また石を畳連ねた道が見え、竜宮城への道か、龍神の通り道かと見に来る人が群集した。
3、諸国宮方蜂起の事
諸国の宮方が蜂起した報が相次いだ。しかし今回の合戦の特徴は在地武士のゲリラ戦という地方の領土争いというべきで、あまり大義名分やイデオロギーは存在しない。相手は京ではなくその地の守護であった。合戦はこまごまとした対応関係で理解しづらいが、天下がひっくり返るというような合戦は行われていない。山陰道では6月27日、山名伊豆守時氏が5000余騎で伯耆国から美作の院庄を越えて各地に兵を派遣した。一方子息右衛門佐師氏を大将に、2000余騎が備前、備中へ発向した。備前の二万堀(倉敷)に陣を取った。その国の守護松田、河村、浦上らは無勢で城に閉じ籠って戦う気はなかった。備中へは田地目備中守楢崎を侍大将とし飽庭肥後守を引き入れて千余騎でその国の守護越後守師秀に押し寄せた。師秀は戦わないで徳倉城(岡山)に籠った。将軍方は陶山だけになって、国中は右衛門佐師氏が支配した。備後へは富田判官秀貞の子息弾正少弼直貞が出雲から8000騎で出たがほどなく二千余騎になった。将軍方宮下野入道を攻めた時、石見国から足利直冬が500騎ばかりで駆け付け、宮下野入道に使いを出して降参を呼び掛けた。宮入道はこの使いを追い返し、直冬陣を襲った。直冬は負け富田も力をなくして出雲に帰国した。但馬国(豊岡)へは山名右衛門、弟治部大輔、小林民部丞を侍大将として二千余騎で播磨を越えて寄せたが、但馬の守護二木弾正少弼、安良十郎左衛門が将軍方として立て籠もった城が落ちないので、道を阻まれ、また赤松掃部助直頼大山城に城を構え但馬毛の道をふさいだ。結局但馬へは行けず丹波国へ向かった。丹波国には守護二木兵部大輔義尹が構えていたので小林は和久郷に陣を取って対峙した。丹波は京に近いので援軍として若狭守護尾張左衛門、遠江守護今川伊予守、三河守護大島遠江守ら3000騎を京より派遣した。丹波の篠山に援軍が着くと二木軍勢は5000余騎に増えた。山名の軍勢は700騎に過ぎないので合戦をあきらめ伯耆の国に帰った。
4、越中軍の事
信濃より桃井播磨守直常が越中に入ると、国守護尾張大夫入道の代官鹿草出羽守が政務をほしいままに采配していたので不平武家が多く、すぐさま桃井直常軍勢に馳せ参じた千余騎となった。越中には手向かいする武将はいなかったので加賀国へ向かって富樫を攻めることにした。その時桃井直常軍勢の三千余騎は三手に分かれて陣を取って敵の陣が整わない間に猛攻を加えて、越前、能登、越中の兵を蹴散らした。桃井はまず井口城に入った。ところが桃井軍より裏切りが出て300人が投降した。勢いに乗った大将鹿草出羽守は300騎で桃井軍を夜討ちしたという嘘をついて功を横取りした。
5、九州探題下向の事
筑紫には将軍方の大友氏が宮方の菊池に圧迫されてしたので、大友を助けるべく尾張大夫入道の子息左京大夫氏経を九州探題に任じて下向させた。左京大夫氏経は兵庫について四国・中国の兵を募ったが集まらなかったので、わずか150騎ほどで出帆した。多数の遊女を船に乗せての出陣を見た人は、筑紫九州の大敵を討つほどの大将たるべき人がこのようなあり様では先が思いやられると嘲笑った。
6、漢の李将軍女を斬る事
第5章の出陣の大将が心得るべきことの根拠を、漢書李陵伝より引いた。匈奴と闘った前漢の将軍李陵が、軍の士気が上がらないため、軍中に隠れていた士卒の妻女3000人を斬ったという話である。大敵の国に臨む人の、兵をば次にしてまず女を先立てることは道理にあわないと非難した。

(つづく)