ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2021年01月14日 | 書評
京都市下京区仏光寺通り新町下がる 「仏光寺」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第34巻(年代:1359年-1360年)(その2)

6、軍勢狼藉の事
将軍勢は2月13日後陣の二万騎を住吉、天王寺に入れ替えした。先陣の二十万騎は金剛山の北西津々山に上がって陣を取る。両軍は騎馬兵の合戦をすることは無く、ただ野武士を出して矢戦に終始した。寄せ手の兵は疲れてきて神社仏閣に入って乱暴狼藉限りがなかった。山岳ゲリラ合戦の打開策が見いだせないまま将軍側の焦りがなせる狼藉で先が思いやられた。
7、紀州龍門山軍の事
四条中納言隆俊が紀伊の兵3000騎で最初が峯に陣を取ったので、畠山入道の弟尾張守を大将にして三万騎を最初が峯に寄せた。これが第一回目の合戦となった。尾張守は最初が峯に相対する和佐山に陣を取った。宮方の塩谷中務は策略として最初峯を引いた様に見せかけるため龍門山に籠った。畠山の執事遊佐勘解由左衛門尉は敵が引いた思い、急いで追っかけ馳せ上った。宮方は一千人の野伏が上から散々に射ってきた。寄せ手三万騎が引くべきかどうか迷ったとき塩谷の2000騎が雷が落ちる如く襲い掛かった。塩谷はあまり深追いをして討ち取られたが、尾張守の軍勢は300余人が討たれ生け捕りになった。
8、紀州二度目合戦の事
紀伊国第1回目の合戦で寄せ手が大勢討たれたので、津々山の勢、大将尾張守は色を失って、4月11日尾張守の援軍として畠山、細川将監、今川ら7000余騎を紀伊に派遣した。龍門山に陣取る四条中納言隆俊は平野へ進むか山に籠るかで評定している間に、湯川庄司、越智らは寝返って降参した。芳賀兵衛入道禅可の子息伊賀守公頼は紀伊に寄せ、自害を覚悟で白兵戦を戦い龍門の陣を落とした。
9、住吉の楠折るる事
四条中納言龍門山の合戦に負けて阿瀬川に落ちたと聞かれた主上及び側近の公卿らは肝を潰した。その時住吉の神主津守国久が占いの書を提出した。4月12日正午本殿が鳴動し庭の楠が折れたという。大塔の忠雲僧正は住吉神社の故事を引いて、必ずしも凶ではなく、災い転じて幸いにするには「座冷まさずの御行法」を行えと、主上は毎日御行水を召された。
10、銀嵩合戦の事
吉野の将軍宮興良親王とは故大塔宮護良親王の御子の事である。御村上天皇の即位後征夷将軍となられた。赤松則祐の変心のため尊氏側に捕らえられ囚人となったが、救助されて丹波の高山寺城に入られた。宮は本庄平三、平太を側近として丹波、但馬国を従え播磨国へ進出したが、赤松則祐に攻められ平三、平太は討ち死にし宮は河内国に落ちられた。その後は吉野の奥に居住されていた。宮方は紀州の合戦に敗れ意気消沈していたところ、則祐の弟赤松弾正少弼氏範が吉野十八郷の兵を集め宮に軍勢を付けた。ところが宮は幕府方に心を寄せ、義詮と連絡を取って4月25日野伏3000人と宮の勢200余騎で賀名生の奥の銀岳で挙兵した。賀名生の御所、公卿の宿舎を焼き払った。南朝方は「宮の御謀反、事明白なり」と二条関白を大将として千余騎をさし向けた。宮には赤松氏範だけが付き従い主従36騎で戦ったが、親王は南都奈良に落ち、氏範は降参し播磨に帰った。なんかわけのわからない御謀反だと噂された。

(つづく)