ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2021年01月03日 | 書評
京都市下京区堀川通七條上がる 「西本願寺 阿弥陀門」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第30巻(年代:1351年-1352年)(その2)

6、殷の紂王の事 併 太公望の事
高倉殿越前国敦賀の津に着かれると、はじめ一万三千騎あった勢は日々増えて六万余騎となった。高倉殿陣営はすぐに京を攻めないでいたずらに長詮議を続けた。律禅の奉行に使われている藤原南家の儒学者、藤少納言有範を召して、道に背いた者を誅罰して世を治める法を訪ねた。藤少納言有範は「史記」殷本記を引用して、殷の帝武乙の暴虐ぶり、紂王の淫乱と強欲の故事より周の文王が師事した太公望の道が殷を亡ぼし周の天下となったことを振り返って、今の世を見ると、義詮の淫乱を紂王に見、直義を周文王になぞらえて義詮を亡ぼすことの正義を説いた。しかし高倉殿には権力闘争も武力にも劣りとても文王に例えるのはできない愚か者であった。
7、賀茂社鳴動の事 同 江州八相山合戦の事
8月18日将軍尊氏は高倉殿追討の宣旨をもらって近江国鏡の宿(蒲生郡竜王町)に陣を取った。佐々木入道道誉・子息秀綱が3000騎で馳せ、二木右馬権助義長は伊勢の兵4000騎で馳せ、土岐頼康は美濃より2000騎で馳せ、一万騎の勢となった。高倉殿は石堂、畠山、桃井三人を大将として二万余騎が9月7日近江に入り八相山(長浜)に陣を取った。その日鴨の糾の神殿が鳴動し鏑矢が北東を目指して飛び去った。その吉兆は、その日の佐々木入道に対して多賀将監、秋山蔵人がお粗末な戦いに出た事から始まった。高倉殿勢は秋山が討たれたので越前に引き返した。
8、恵源禅閣関東下向の事
畠山阿波将監国清はしきりに高倉殿に意見して、兄弟仲直りしたのだから政務は義詮どのにお任せしたらというも、高倉殿は聞かなかった。国清は怒って自分の兵を二つに分け将軍家の味方になった。その他にも将軍方に靡く人が増えてきたので、桃井はもはや福井にいる事はできないというので10月8日高倉殿勢は北陸道から鎌倉へ下った。
9、那和軍の事
将軍は直義入道を誅罰する宣旨をもらって、10月23日鎌倉に下った。都を吉野方に狙われないように、宰相中将義詮を京都の守護にして留めた。将軍は駿河国に着いたが関東、北國は直義方についていたので、兵が集まらないかった。二木、畠山、今川、武田、千葉、長井、二階堂らの3000騎では鎌倉に寄せることはできないので11月30日駿河のさった山に陣を作って兵を募った。(当時の合戦では兵は現地調達が主で、近代的常備軍を持っていないので、在地有力武士の兵をあてにし、在地勢力はどちらが優勢で勝ちそうな方に流動的に移動するのが常である。ここでは忠臣という儒学観念はなくあくまで打算で動くのである) 将軍は宇都宮勢を待っていたが、高倉殿は宇都宮が動くと面倒だと桃井直常に命じて1万騎で上野国へ差し向けた。高倉殿も同日鎌倉を発ってさった山に向かった。上杉憲顕を大手の大将に20万余騎由比に向かった、搦め手の大将は子息右馬頭頼房として10万余騎富士内房に向けられた。高倉殿は総大将として10万余騎で伊豆の府(三島)に陣取った。寄せ手は合計50万騎で囲み、さった山にいる将軍陣は3000騎でとても勝ち目はなさそうであった、(兵の数は勝負の結果を知っている作者の潤色で、負ける方の兵の数をべらぼうに多く見積もり、勝つ方の兵の数はべらぼうに少なく見積もる。少数で多数に勝つという兵法の概念が先行しているのである。だから合戦記の兵の数は信用できないのである)一方宇都宮伊予守は将軍方の味方であったので、12月15日宇都宮を発ってさった山に急いだ。氏家、下総守、三河守、備中守ら都合1500騎が16日に下野国天明(佐野)に着いた。途中逃げ去るものが出て700騎ばかりになったが、19日には利根川を渡って那和(伊勢崎)に着いた。その後ろから敵の桃井の軍勢一万騎が押し寄せた。700騎で一万騎をけ破り、宇都宮に着く勢は二万騎になった。(日本の合戦の特徴であるが、大陸国のように敗者を皆殺しにするような凄惨な殺戮を好まないので、戦闘の総員数のA陣とB陣の構成比が合戦の途中で変化してゆくと考えると、数値のからくりがわかるような気がする。オセロゲームのように敵が味方になり、味方が敵になるのである)
10、薩た山合戦の事
宇都宮が各地の合戦に勝ってさった山の後攻めに回る前に、さった山を落とそうとする児玉党3000騎が無理やりに険阻な櫻野からさった山に上った。今川上総守、羽切遠江守300騎で坂を堅めていたが、石弓で石を落とすと児玉の寄せ手がたじろいだ時切りかかり、17人が討たれた。12月27日後攻めの宇都宮勢三万騎、足柄山の敵を追い払い竹下に陣を取った。これを見て直義勢の大手、搦め手50万騎が蜘蛛の子を散らすように逃げた。高倉殿は伊豆の北條から熱海の御山まで逃げた。上杉、長尾勢二万騎は信濃をめざして落ちた。兄の尊氏から和睦の儀が持ち掛けられ、高倉殿は命惜しさに降人となって、畠山、二木の迎えの車に乗って1月6日鎌倉に帰った。

(つづく)