ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2021年01月05日 | 書評
京都市上京区烏丸通中立売 「京都御苑  建礼門」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第30巻(年代:1351年-1352年)(その4)
16、住吉の松折るる事
後村上帝が住吉に臨幸なって3日目に不思議なことが起きた。勅使が神馬を奉った時風もないの大松が折れて南に向かって倒れた。伊達三位有雅が史記殷本紀を引いて、「帝の徳が欠けることがあるのでこのような怪しげなことが起きる。すみやかに徳を修せよ」これは帝がこの度都に還幸されないほうがいいということだと占った。2月15日天王寺に行幸された。この時伊勢国師中院顕能、伊賀・伊勢の兵三千騎を率いて馳せ参じた。19日八幡に行幸され兵が集結したので、都ではすわ合戦と色めきだった。
17、和田楠京都軍の事
義詮は法勝寺の恵鎮上人を使いにして、和睦したうえになぜ合戦の準備をしているのかを正した。帝が言うには「非常を誡めるためであって他意はない」と返答され、油断していたところ、2月20日中院顕能3000騎で鳥羽から東寺に出て待機した。千種顕経500騎丹波から上がり西七條に寄せた。和田、楠、槙野、三輪、神宮司は5000余騎で七條大宮で鬨の声を挙げた。京を守る細川陸奥守顕氏は150騎で東寺に駆け付けたが、楠の兵によって囲まれ殲滅された。陸奥守顕氏は何処ともなく落ちた。
18、細川讃岐守討死の事
細川讃岐守頼春が300騎で東寺に向かい六条あたりで三千騎の和田、楠勢に遭遇し合戦となり、落馬したところを和田に打ち取られた。
19、義詮朝臣江州没落の事
細川陸奥守顕氏は何処ともなく落ち、細川讃岐守頼春は討ち取られ、義詮は150騎ほどで近江を目指して落ちた。山門は大慈院法印の説得で宮方に付いたので、義詮は行き場を失い自害を考えたが、相模の曽我左衛門が船を一艘探して宗徒20名が瀬田を渡り、三艘の小舟で150騎の兵を渡らせた。尊氏は近江の四十九院に無事居られたので、土岐頼康、大高らが馳せ参じた。佐々木や美濃、尾張、伊勢、遠江の兵が参集し、義詮は再起を期して山陽、山陰と連絡を取って都奪回の計画をめぐらせた。
20、三種神器閣かるる事
都では尊氏勢はいなくなったが帝は都に入らず八幡に逗留した。都へは北畠入道准后、顕能父子だけが派遣され政務を行った。2月23日都の内裏にある三種の神器を吉野の帝に渡した。しかしこれは故後醍醐が武家に渡した偽物の神器なので、悉く公家に下された。
21、主上上皇吉野還幸の事
2月27日北畠顕能が兵500騎で持明院殿に参内した。四条大納言隆蔭卿を使者にして、皇室を吉野山に遷すことを告げた。院らは都を離れる悲しさから僧になるというも、北畠顕能はこれを聴かれずその日の内に本院(光厳院)、新院、主上、東宮らを輿に入れた奉り出御なった。多くの月卿雲客が東寺まで供奉したが、北畠顕能は三条実音、典薬のみに限定して、随行を許さなかった。数日後吉野の奥賀名生に御幸なった。主上はその住み憎さに閉口されたようであった。
22、梶井宮南山幽閉の御事
梶井二品親王天台座主は逮捕されて金剛山の麓に幽閉された。この宮は三度天台座主になられ門跡の富貴は類なきもので、連日獅子、田楽を催され踊り謳いに明け暮れていた。茶会、連歌会を大勢で催され遊び呆けていたので山門と世間の評判はよろしくなかった。配所の暮らしは従者一人だけのわびしいものであった。

(つづく)