ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2021年01月29日 | 書評
京都市下京区中堂寺櫛笥通 「末慶寺」浄土宗

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第40巻(年代:1367年)(その1)

1、中殿御会の事
1367年3月18日、後光厳帝は後白河法皇遠忌のため3日間長講堂に行幸した。諸道の復興に熱心な帝は、とりわけ太平の世の象徴として和歌・管弦の盛儀である中殿御会の再興を望んだ。諸卿らは中殿御会は当今不相応な盛儀であり、しかも不吉な前例が多いとして反対したが、朝議の再興にこだわる帝の熱意によって3月29日中殿御会は行われた。歌会は、詩経に「詩三百邪なし」といわれように神国の風俗である。中殿の宴は後冷泉院が1056年に清涼殿に群臣を集め御製の歌を加えられた。白河院は1084年中殿において行われた。のち堀川院1096年、崇徳院1131年、順徳院1218年、後醍醐院1330年と中殿の御会はお題を変えながら綿々と続けられた。征夷将軍義詮も歌道に熱心であったので、賛意を表せられた。
2、将軍御参内の事
中殿の御会の当日、関白藤原朝臣良基は直盧からご参内あり直衣(貴族の普段着)始めの儀があった。午前2時ごろ将軍が参内された。将軍をはじめ高名な武将の衣裳の記述が続いた。関白殿は奉行の職事仲光に事の次第を正して、帝の出御を伺った。関白以下公卿が座と衣裳が紹介される。歌会の進行役は右大臣で仲光、時光を召される。「花は多春の友」がお題である。関白藤原朝臣良基から始めて詠じられた公卿の名が列記される。歌会の被講が終わると御遊が始まる。管弦が奏せられ、一時の違乱なく無事遂げ行われた。正午ごろ人々は退出した。
3、貞治六年三月二十八日天変の事
中殿の御会の前日3月28日午後4時ごろ、おびただしい流星が東の空に流れ、翌29日には天龍寺の工事中の甍が炎上した。五山第二の禅寺で勅願寺だったので、今日の歌会は取りやめたらという意見もあったが、将軍は例がないといって出席された。
4、鎌倉左馬頭基氏逝去の事
鎌倉の左衛門頭基氏(将軍義詮の弟)は今春より体調思わしくなく、4月26日28歳で他界された。兄弟が花夷の鎮撫(兄が花の都の鎮撫、弟が関東八か国の夷の鎮撫)という車の両輪であったが故に悲しみも深かった。

(つづく)


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