ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2021年01月17日 | 書評
京都市右京区京北井戸町 「常照皇寺」方丈 天然記念物「九重の桜」で有名

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第35巻(年代:1360年)(その2)
6、畠山関東下向の事
都では、畠山が播く争いの種の事を、今度の世の乱れはすべて畠山入道の仕業だという人が多くなった。畠山は面目をなくし非難が集中する前に、8月4日夜半京を逃げだし鎌倉を目指して下った。三河国は二木右京大夫の管領の地で、吉良を大将にして、守護代西郷弾正右衛門500騎が道をふさいだので、畠山は中山道を下ったほうがいいのか、京へ引返すべき思案しているところ小河中務が二木に同調して尾張国で兵を挙げ、畠山は前後を塞がれて立ち往生した。
7、山名作州発向の事
宮方軍と足利直冬を奉じて京合戦で敗れ、中国地方へ逃げた山名伊豆守は、南方を退治した東国勢がついでに美作(広島)に来るのではないかと心配して防御に余念がなかったが、京での仲間割れ抗争では二木側に付いた。山名勢は3000余騎を率いて因幡、美作の境で赤松入道、則祐兄弟の城を攻めた。しかし散々に負けた。その二木勢も破れ都落ちをした。
8、北野参拝人政道雑談の事
秋も半ばを過ぎたころ京都北野天満宮に月の光に誘われて、それとなく三人の人が南殿に寄り添って政治論議となった。一人は武家出身の60歳を過ぎた世捨て人で、昔は関東の評定衆で政務をとった幕府高官であったようだ。もう一人は公家出身で儒学者であったようだ。今一人は漢籍に詳しい律師、僧都だったような法師である。まず儒学に詳しい公家の人が話題を切り出した。史書が記した世の治乱について、中国と我が国を見てもいつも戦争ばかりをやっている。今より後も世は収まりそうにない、これはいかなる理由か知りたいという。三人の意見陳述が行われるわけだが、世の治世に最も関係が深い武家の人の意見は20頁(この文庫本で)、公家の人の意見は10頁、僧の人の意見は10頁を占める。
① 武家の意見: 開口一番「世の治まらないのが道理である」君主は民をもって体となし、民は食をもって命となす。穀物がなければ民は窮し、民が窮すれば年貢は上納されないので国は解体する。君主は存在できない。上慎まず、下奢れば国土は乱れる。醍醐帝は民の苦しみを憐れ間れても地獄に落ちた。後醍醐帝には5つの罪業があるので地獄に落ちた。承久の乱以降武家が代々天下を治めた。評定衆に在職していたので見聞すると、武家の物でない領地は少なかった。守護も犯罪以外にはその領地に干渉することは無かった。北條泰時は全国土地台帳を作り、51箇条の御成敗式目を定めた。裁判は滞らず上は法を破らず、下禁を犯さず。世治まったが、天皇家の権限はすべて武士の手に入った。執権泰時が明恵上人に質問すると、国の乱れの原因はただ欲から起こる。だから政治のトップは無欲でなければならない。ストイックな哲学(志の高さ)が支配した時代があった。謀、悪知恵がはびこれば万人の災いとなる。人倫の孝行が廃れてきたので北條時頼は3年間全国の世情を見るため巡業した。北条時宗・貞時の時代まで執権は私を忘れ、道理に背かず、賄賂を退けたため平家北條の天下は八代執権まで保たれた。政道の妨げになるのは、無礼、邪欲、大酒、遊宴、バサラ、傾城、双六、博奕、縁故、不正な役人である。さらに仏神に賦役をかけ僧物施料をむさぼる事である。
② 公家の意見: 武家の政の場合も公家の政の場合も同じだ。しばらく前までは南方に属していたが、南方で天下を覆すことも出来ず、文治政治も出来なくて、別の道を選んで京に出てきたのだ。周の文王、武王のこと、唐の玄宗皇帝を引いて、国に諫める臣がいればその国は安泰で、家に諫める子がいればその家は正しい。君は天下の人の安らかな生活のためを思い、臣も君の非をいさめる人が居るなら南方はこうはならなかった。
③ 僧の意見: 仏典の学僧と思われる法師は、つらつら考えるに、世が乱れるのは武家のためではなく公家のためでもない。すべては因果応報のなす所であるという。インドの王の事を引いて、過去の因果の事はどうしようもない。臣が君をないがしろにし、子が父を殺すのも今生一世の悪ではなく、武士が衣食に飽きるほど傲慢なのも、公家が餓死に及ぶのも皆過去の因果である。乱れた世も静まることもあろうと気が楽になるという。
9、尾張小河土岐東池田らの事
小河兵部丞(尾張)と土岐東池田(岐阜)が示し合わせて二木に味方し、尾張の小河の庄に城を構えた。土岐宮内少輔直氏は3000騎で城を囲んで20日間攻めたので小河兵部丞と土岐東池田は降参した。土岐は小河兵部丞に宿怨があったので首をはねて京へ送り、土岐東池田は親族であるので尾張の城に閉じ込めた。吉良治部大輔は三河の守護西郷兵庫助と一緒になって矢矧に陣を張り、畠山の下向の道を防いだ。大島左衛門佐義高は大原野の戦いで勝ち、西郷・吉良は落ちた。
10、仁木三郎江州合戦の事
南朝方の石塔刑部頼房、二木三郎を大将として伊賀、伊勢の兵2000余騎で近江国甲賀葛城山に陣を取った。将軍方は佐々木崇永、弟山内判官が飯森岳に陣をとった。二木三郎は9月28日佐々木高秀が守る市原城を攻撃した。石塔刑部頼房伊賀、名張の兵300騎で寄せた。佐々木六角判官は300騎で立ち向かった。二木京兆の桐一揆の勇者500騎に伊賀の兵が加わり、佐々木判官は城を出て敵の真ん中を割って進むと、敵は引き始め雪崩を討って逃げた。二木側は宗徒50人が討たれ、11月1日佐々木はとった首を京へ送った。二木義長軍も伊勢国に落ちて500余騎になった。二木三郎は降参して出た。佐々木判官入道崇永、土岐大膳大夫入道善忠は7000騎で伊勢国に寄せた。義長は兵の数が減ったので、戦わず長野城に引きこもった。城は堅固なので佐々木、土岐と義長はにらみ合ったまま2年は膠着状態となった。

(つづく)