ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 新崎盛暉著 「日本にとって沖縄とは」 岩波新書(2016年1月)

2017年04月02日 | 時事問題
歴代政府の対米従属路線である、基地を沖縄に集中させる「構造的沖縄差別」政策  第5回

2) 60年安保から沖縄返還へ (1957-1969年)(その1)

1957年2月石橋湛山首相が病気で辞任した後を、岸信介が首相の座を継いだ。岸政権は「日米新時代」を提唱し、6月に渡米した中心課題は、沖縄返還の時期の明示と、基地貸与協定としての旧安保条約を相互防衛条約に[近づける形での安保条約の改定であった。小笠原、沖縄返還についてはアイゼンハウアー大統領はこれを拒否し、条約改定についても明言はなかった。共同声明では、「一切の米地上戦闘部隊の撤退を含む在日地上軍の大幅削減」という文言が入った。これは日本本土から撤退した海兵隊を、沖縄に移駐させるだけのことであった。57年7月1日極東軍司令部をハワイの太平洋軍に統括させることに伴い、沖縄統治は高等弁務官制がとられることになった。米極東戦略の再編成は沖縄の位置をさらに高めることとなった。「本土撤兵」のしわ寄せが沖縄に来たのである。本土の基地は1/4になり、沖縄の基地は2倍になった。こうして本土:沖縄の基地の比は1:1となった。安保条約改定が合意されたのは1958年9月の藤山外相とダレス国務長官会談においてであった。結局日本政府はアメリカの単独沖縄支配を承認した上で日米協力体制を前進させる途を選択した。こうして日米関係は「構造的沖縄差別」の上に築かれたといえる。構造的沖縄差別とは「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係を安定化する仕組み」である。日本側は沖縄・小笠原を含めて共同防衛地域にし、アメリカ側が日本防衛の義務を明確にすることとで双務性を確立することを望んだが、アメリカは極東戦略のフリーハンドを確保するため沖縄は安保適用地域外に置いた。ヤマト本土側からすると、沖縄を条約適用外に置くことで戦争になった場合沖縄だけが戦火にさらされることになることを暗に示している。1959年1月「安保よりもまず祖国復帰」をスローガンとする祖国復帰県民大会が開かれ、1960年4月「沖縄県祖国復帰協議会」が結成された。ヤマトでは1959年3月「日米安保条約改定阻止国民会議が、総評、社会党、原水協などで結成された。岸政権がいう「相対的平等性回復」なる言葉の欺瞞性を指摘したのが、「日本帝国主義の自立への胎動」と規定した全学連であった。「こんな指導者のために若者が死ぬのは嫌だ」という声に突き動かされ、阻止行動は大きな盛り上がりを見せた。5月20日の衆議院での強行採決後、国会周辺では労働組による実力行使・国会包囲が行われた。6月19日ハガチー大統領報道官がデモに包囲され、6月15日全学連による国会突入が行われた。6月19日に沖縄を訪れたアイゼンハウアー大統領を迎えたのは復帰協のデモであった。安保闘争が盛り上がっているとき、沖縄では高等弁務官がミサイル基地建設を発表し、下院はメースB核弾頭搭載ミサイルの基地設置を承認した。立法院がメースB持ち込み反対を決議しても、本土ヤマトでは何の反応もなかった。本土の反安保勢力が沖縄との具体的共闘関係になかったことが最大の要因である。6月23日安保条約の自然発効の日、岸首相は退陣し、池田隼人内閣が成立した。1960年御復帰協の結成には、沖縄自民党は参加を拒否した。それは新しい政治状況の下では交渉によって懸案事項の解決を積み重ねてすべての制度を本土並みにする「祖国との実質的一体化」を図る方が有効だとしたのである。このため復帰協は革新共闘の母体としての役割を担った。1961年から、対日平和条約の発効した4月28日を「屈辱の日」と位置付けた。その意味では「屈辱の日」はアメリカのみに向けられるものではなく、米国が作り出した構造的沖縄差別を内在化させた対米隷属路線の日本政府にも向けられた言葉であった。1962年2月1日琉球政府は「2・1決議」を可決した。これは植民地解放宣言をした国連加盟諸国に対して、沖縄での不当な支配に注意を喚起する復帰決議である。この「2・1決議」は1963年2月第3回アジア・アフリカ諸国民人民連帯会議で、4月28日を沖縄デーとして国際的連帯を行うよう呼びかける決議につながった。革新団体からなる沖縄連は、対日平和条約発効の4月28日を沖縄返還国民総決起の日とすることを決めた。

(つづく)


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