ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 津野海太郎著 「読書と日本人」 岩波新書(2016年)

2018年08月16日 | 書評
本は何のために読むか、読書の歴史から時代の変遷を見る 第7回

1) 始まりの読書ー平安時代 (その2)

平安時代の女のカジュアルな読書に対して、先行する漢字男たちのフォーマルな読書は、当然仕事がらみの「学者読み」であった。その好例が菅原道真の「書斎記」という文章に見られます。菅原道真は845年学者の家に生まれ、エリート官僚の国家試験(進士ー秀才―科挙)を目指した。この時期の勉強ぶりを49歳のときに回顧したのがこの文章です。「秀才の資格を取ったとき、父(菅原是善、大学寮の学長だった)が勉強部屋を与え、すだれ、机、本を運んできた。ここは(共同勉強部屋のように)狭く、いろんな奴がやってくる。小刀と筆は間違った箇所を削り取るためのものだが、馬鹿どもは小刀で机を削ったり、書を汚したりする。また学問の方法は抜き書き(抄出)を中心とする。抜き書きは紙に写して利用するのが基本である。従って部屋の中は抜き書きした短冊状の紙ばかり。乱入する連中は、知恵のあるやつはこの紙切れを懐に入れて失敬するし、バカは破いたり捨ててしまう」 この勉強部屋というものは、父が自宅において解説した私塾の大部屋の中に、3メートル四方(6畳弱)の簾で区切った部屋を与えられた。勉強の方法は文献資料を読んで、重要な点と思われる個所を抜き書きして覚えてゆくことであった。カードを作って自分の勉強ノートを作ることが中心の勉強法であった。当時の書籍は写本が中心で、しかも小数であったため学生が自分で所有する書は無かったと思われる。891年での書籍数は1579点であったという。そのような状況で「学者読み」はどのようにして始まったのだろうか。古代の日本には文字がなかった。古事記が記するには、405年百済の王仁が「論語」と「千字文」を伝えたという。遣隋使や遣唐使の最大の目的はできるだけ大量の書籍を中国から輸入するためでした。こうして大和朝廷の官僚機構は、朝鮮百済の力を借りながら、中国の法令集・経典・仏典を懸命に読み解くという姿勢で、日本における「学者読み」の歴史がスタートしました。明治維新後1871年の岩倉遣欧派遣師の役割と同じでした。文武天皇の大宝律令701年によって、律令国家としての国造りのために新官僚育成が喫緊の課題でした。そのために大学寮を作り、学生数は430人だったそうです。その大学寮の最大の教育方針は、知識の集積と文才を持つ人材開発である科挙選抜試験に受かる事でした。当時の寝殿造りの部屋の読書環境はけっして良いは言えません。御簾で囲まれただけの書斎は、隣にある応接談話部屋にいる連中によって容易に破られました。書斎は個室というにはほど遠い建築的構造でした。欧州の学問の方法論は論理が主導したが、東洋の学問は事実の蓄積(歴史)と文学であった。論理よりも記録の暗記と情緒を重視し、試験の結果が官僚としての地位に直結する制度の下では、制度が固定化されると、中身の学問まで固定化されます。空海と共に第18次遣唐使として渡海した菅原清公(道真の祖父)は官僚制の階段を上り、大学寮学頭、文章博士、公卿にまで上り詰め、教授職を世襲制にして菅原家を学問の門閥として不動のものにした。その反面学閥のボスとして君臨し教育や学問を形骸化し、内部から腐敗せしめた。いわば学問が歌舞伎界(梨園)のように形式化したということです。道真は唐の詩人白楽天の詩集「白氏文集」を愛した文人であった。貴族社会においても最も人気のあった白氏文集のブームを作り出した人の一人でした。道真が藤原時平との政争に敗れ九州の大宰府に左遷されたのは、戦国時代の屈原になぞらえることができます。それから約1世紀半を経て平安時代の中頃、女性を中心とした新しい読書の時代が始まったのです。

(つづく)


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