ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年10月20日 | 書評
京都 釘抜き地蔵

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第4巻(年代:1331年-1332年)

1、萬里小路大納言宣房卿の歌の事
1331年9月29日笠置の城は落ち後醍醐帝は囚われの人になった。あちこちに隠れられていた宮様も次々と探し出され六波羅に拘束された。帝の侍従藤房兄弟は笠置でとらわれ、その父萬里小路大納言宣房卿は連座してとらわれ武家に拘束される身となった。齢は70歳を超え、二人の息子の処分が案じられて歌を詠まれた。「長かれと何思いけん世の中の憂きを見するは命なりけり」 罪のあるなしを問わず後醍醐帝の朝臣は出仕を止められた。
2、宮々流し奉る事
1332年1月10日東使(鎌倉幕府の使者)信濃入道道大が上洛し、昨年笠置落城の時に召し取られ他人々の配流決定を告げた。一宮親王は土佐国へ、第ニ宮妙法院(尊澄法親王)を讃岐国へ、第四宮(静尊法親王)は但馬国へ、第九宮(恒良親王)は8歳と幼いので中御門中納言宣明卿預かりに、峯僧正春雅は長門国へ、尹大納言師賢は下総国千葉介預かりに、東宮大進季房は常陸国へ流して長沼駿河守に預けられ、中納言藤房も常陸国へ流して小田民部太夫に預けられた。藤房の女房との別れの歌というお涙頂戴の定型的なお話が挿入されているが嘘だと思うので省略する。源中納言具行は鎌倉行きと決まり佐々木佐渡守判官入道道誉が警護役として付き添ったが、近江国柏原で切り捨てられた。殿法印良忠は六波羅の地図を所有していたかどでさらに鎌倉で詮議すべきということに決まりのちに鎌倉へ送られた。平宰相成輔は河越三河入道円重が警護して鎌倉送りと決まったが、相模国早川で切り捨てられた。侍従中納言公明卿、別当実世卿二人は赦免という意見もあったが猶疑わしいので波多野上野介宣道、佐々木三郎左衛門尉に預けられた。
3、先帝遷幸の事 併俊明極参内の事
後醍醐帝を承久の例によって隠岐国に遷すことが決まった。光厳帝を位につけて、先後醍醐帝は御遷幸の宣旨を行った。1329年春宋朝から俊明極という禅師が来朝した。俊明極は参内して、光厳天皇以下三公九卿の並ぶ紫宸殿で御法談(いわゆる禅問答)が行われた。国師の号を贈られた。禅師勅使に向かって「この君二度帝位を践ませる相あり」と云われた。こうして光厳天皇は重祚できる理由付けが行われたようだ。1332年3月8日千葉五郎左衛門尉、小山五郎左衛門尉、佐々木備中守判官明信、三千余騎で警護し帝を隠岐へ遷した。供奉の人は一条頭太夫行房、六条少将忠顕、お世話をする人は三位殿の御局(阿野康子)だけであった。道行文が書かれているが省略し、行程のみを記すと、京より摂津桜井の宿、石清水八幡宮、湊川、福原、印南野から右の須磨浦、明石浦、杉坂、美作、久米の沙羅山、伯耆の大山、出雲国見尾の港から船に乗って隠岐へという道行であった。
4、和田備後三郎落書の事
備前国の今木三郎高徳という者は笠置の戦いに参加する間もなく落城したため、落胆していたが、帝が隠岐へ流されると聞いて備前と伯耆の境にある船坂山の峠に隠れ、帝を奪い取るために一行を待っていた。ところが警備の一行は播磨の今宿から山陰道に向かったため、美作の杉坂で奪い散る計画をしていた高徳の予想に反して後手後手に回り間に遭わなかった。帝の宿舎の前にある桜の木に「天句践をいたずらにすることなかれ、時に范蠡なきにあらず」という落書を書き付けた。帝はこれを知って御顔を笑ませられたという。
5、呉越闘ひの事
高徳の書いた句は史記「呉越合戦」から引いたものである。そこで「太平記」の作者はこの漢籍「呉越合戦」のほぼ全文を一節にまとめてここに転載した。文庫本で25頁ほどの長文が書かれているのが、よく聞く有名な話なのでここでは省略する。「太平記」はそういう意味で当時の人々の教養に役立つ漢籍故事をふんだんに引用している。

(つづく)