ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年10月24日 | 書評
京都中京区木屋町二条 「島津創業記念館」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第6巻(年代:1332年)(その2)

6、大塔宮吉野御出の事 併赤松禅門令旨を賜る事
播磨国に赤松次郎入道円心という武士がいた。その息子である赤松師律師則祐は大塔宮に付き添って2,3年吉野山に避難していたが、ある日宮の令旨を持ってきた。日ごろから名を挙げることを願っていた入道円心は喜んで佐用庄苔縄に城を築き、兵を千余騎を集め、杉坂、山里の二か所に関を置き、山陽堂、山陰道ににらみを利かせた。
7、東国勢上洛の事
西国の武士らが蜂起するなか、六波羅から鎌倉に討手派遣を要請する使いが出された。そこで鎌倉では北条一族の大将に弾正少弼、名越遠江入道、伊具左近太夫将監、大仏左近将監、赤橋右馬頭、外様の大将には千葉大介、小山判官、宇都宮三河権守、武田伊豆三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆入道、海老名判官、三浦若狭五郎判官、千田太郎ら都合32名、その勢30万7500余騎、9月20日に鎌倉を発った。このほか河野九郎左衛門尉が四国勢を揃え船三百を引き連れ尼崎から京についた。大内介、安芸の熊谷は長門周防の勢を連れて船二百、兵庫から西京についた。甲斐、信濃の源氏7000余騎で東山についた。江馬越前守、淡河近江守、北陸道七箇国の三万余騎で上京についた。こうして京都は鎌倉勢によって埋め尽くされた。
8、金剛山攻めの事
1333年2月3日諸国七道の鎌倉勢の軍80万騎を三手に分け、吉野、赤坂、金剛山に向けられた。吉野(大塔宮)へは二階堂出羽入道道蘊を大将にして2万3000騎、赤坂(正成)へは赤橋右馬頭を大将として8万騎、まず天王寺、住吉に陣を執った。金剛山へは阿曽弾正少弼を大将として20万騎、長崎悪四郎左衛門を侍大将として東条から大手に向かう。大仏左近将監、名越遠江入道、伊具左近太夫将監を大将として30万騎、内郡から搦め手に向かう。そのきらびやかさを太平記は詳述するが、何か反語のように聞こえてならない。
9、赤坂合戦の事 併人見本間討死の事
赤坂城へ向かった大将赤橋右馬頭は、2月3日正午から闘いが開始になる、それまで先懸けは軍務規定違反として処罰すると告げた。武蔵愛甲郡の武士人見四郎入道恩阿というもの、齢は73歳で最後の戦いになるかもしれず、一番に討ち死にをしてをして名を後代に残さんとかんがえ、傍にいた相模国の武士本間九郎資頼(37歳)に先駆けを持ちかけた。資頼は先懸けをするつもりはないと言って断ったが。、胸騒ぎがするので翌朝早く一人で東上に向かった。すると前に人見四郎入道恩阿一騎が見えた。そして道阿にむかって冥土まで同道するといって二騎で敵城の門の前で大音声を挙げて挑発したが、城内では坂東武者の常だと言って取り合わなかった。二人は門を打ち破ぶろうとするので城の砦から矢を雨のように降らして、二人は一緒に討たれた。本間のゆかりの僧が恩阿の首を天王寺まで持ち帰り、本間の子息源内兵衛資忠(19歳)に首を渡した。すると資忠もまた一人で城に向かい父と同じく無謀な討ち死にをして、父に同行したという。城攻め大将赤橋右馬頭は8万騎で城に寄せた13日間昼夜を問わず戦ったが、城があまりに堅固な要塞であったので、ただ戦死者を増やすばかりであった。(日露戦争で乃木大将の203高地奪取戦争と同じ) 攻め倦んでいたとき、播磨国吉川八郎という武士が言うには、この城を見れば三方は深い谷で、一方のみが山の尾であるが山が遠い、これほど長く持ちこたえるのはきっと水や食料に不足していないのだろう。水を供給する溝を見つけて遮断すれば、城は落ちるはずという。そこで兵5千人ほどで山の尾を切り裂いてみると懸け水の樋が作られていた。水を止めると案の定13日ほどたつと水が枯渇した。城の首領平野将監入道は降伏戦術で生き延びようという方針を出し、城に籠る兵280人余は降人となって城を出て、長崎九郎左衛門が身柄を受け取り、六波羅に送って六条河原で斬首した。この節の文を読んで気が付くことが二つある。一つは「太平記」になってまったく無謀な討ち死にが多いこと、合理的に考えず情緒的刹那的な死(死の美学)を選ぶことがもてはやされていたようだ。もう一つは鎌倉勢8万騎に対して赤坂城の兵士280人と常軌を逸した多勢と無勢の闘いが、宮・楠側の勝利に終わる事は信じられない。文の綾というか粉飾というか、実情を無視した嘘がまかり通っていたようだ。(大本営発表のようだ) 要するに事実より作者の観念が先行する世の中だったのかもしれない。

(つづく)