ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年10月22日 | 書評
京都木屋町二条 角倉了以別荘旧跡(現 がんこ亭)

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第5巻(年代:1332年)(その2)

6、弁才天影向の事
夜は末であるが源平武家が政権を交代しながら、鎌倉武家政権は北條時政以来すでに九代を経ている。そのわけは時政が榎島弁天に参篭して子孫の繁盛を祈ったとき、37日目にして美しい女が突如として時政の前に現れて告げるに、「あなたの前生は箱根法師で、法華経を写して霊地に奉納した善根によって七代は子孫は栄華を誇ることができる」といって女は大蛇となって海に消えた。すると今の相模入道はすでに九代になる。すでに亡ぶべき時期が到来しているこのような不思議なことが現れたのであろうか。
7、大塔宮大般若の櫃に入り替はる事
大塔二品親王は笠置城が落ち主上も捕われ人になった時点で、南都の般若寺に隠れていたが、このことを聞きつけた興福寺一乗院の按察法眼好専が500騎を率いて般若寺を急襲した。一人で隠れていた大塔宮は闘うべくもなく、仏殿の大般若の唐櫃三つのうち蓋の開いていた櫃の本の下に隠れられた。追討の兵士らは蓋のしまった二つの櫃は底まで調べたが、蓋の開いた櫃は見ないで去った。命からがら大塔宮は南都から熊野のほうへ逃げられた。
8、大塔宮十津川御入りの事
大塔宮に付き従ったのは山伏姿の光輪房源尊ら9名である。その道行文は省略するが、行程だけを記す。般若寺からは和泉国を通って、紀国に入り吹上、玉津島、湯浅を経て由良の切目の王子に着いた。熊野三山道を本宮から戸津川沿いに上り小原、芋瀬、中津川、吉野十八郷を経て高野山に入った。その間敵地を避け難航したが、赤松則祐、平賀三郎、村上彦四郎義光らが馳せ参じ大塔宮一行を助けた。
9、玉木庄司宮を討ち奉らんと欲する事
戸津川の小原に玉木庄司という武家がいるので、先ず使者二人を出して玉木に道を開くように言い渡した。すると玉木の者が武装し始めたので急いで使者は逃げかえろうとすると、5ー60人が追いかけてきた。使者の一人片岡八郎は射られて首をとられた。もう一人の使者矢田彦七は帰って報告すると、大塔宮一行50人ほどはさらに山道を越え逃げた。中津川峠を越えるところで、向かいの山に500騎ほどが武装して鬨の声をあげた。もはやこれまでと死を覚悟し味方32騎で登ってくる敵に向かった。
10、野長瀬六郎宮御迎への事 併北野天神霊験の事
玉木庄司の兵が登ってくるとき、北の山から赤旗をかかげる兵600騎ほどが現れ、玉木庄司の兵に向かった。「紀伊国の野長瀬六郎、及び七郎3000余騎大塔宮の御迎えにあがった」と叫んだ。敵わないと思った玉木の兵は500余騎は逃げうせた。大塔宮は野長瀬兄弟と顔合わせして、どうしてここにいることが分かったのかと問うと、兄弟は14,5歳くらいの童「老松」が宮の進む道を教えてくれた云う。宮は身に着けていた北野天満宮老松大明神のお守り像を見ると、足に泥がつき汗をかいておられたので、この老松天神が教えたのだ云うことが分かった。こうして一行は五条の槙城に入り、さらに吉野に移って安全宝塔を城郭とし、吉野川の岩壁を前にする場所に3000余騎で立て籠もった。

(つづく)