ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年10月10日 | 書評
京都蹴上 インクライン南禅寺口

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 序にかえて

6.「太平記」の影響ーこの国のかたち(その1)
軍書講釈のはじめとして、慶長のころ徳川家康の前で「太平記の講釈」が行われたという。「太平記」の講釈は物語僧や談義僧によって「太平記」の成立当初から行われてきたが、「慶長の講釈」が特記されるわけを考えてゆこう。慶弔とは、豊臣秀吉の死1598年から関ケ原の戦い1605年、家康の征夷大将軍就任1608年、大坂の陣1620年で終わる徳川家康の天下どりの時代である。家康は清和源氏新田の流れを称していた。家康は清和源氏の二流(足利・新田)から藤原姓を名乗った。足利将軍の名跡を伝える吉良家より系図を移譲され、新田流の徳川に移行するのである。系図の移譲によって赤穂浪士事件で有名な吉良家は高家職(幕府の儀典係に筆頭)に任じられた。「尊卑文脈」による徳川家系図では、上野国新田郡得川村にいた徳川義季から八代目の親氏が足利の圧迫から逃れて三河の松平氏に入り婿したという。その親氏から九代目の家康に至って徳川(得川)の姓にもどった。(織田信長は清和源氏の足利に代わるため桓武平家を称した)豊臣は近衛前久の猶子として関白になるため武家政権の継承観念からは外れた。「平家物語」によって流布した源平交替史観が南北朝以降武家政権の自己正当化の根拠になった。したがって慶長の講釈では源平天下の争いといった物語に家康を重ねるためであった。江戸の町民は天皇の存在すら知らなかったという。幕末に天皇が担ぎ出されてそれは何だという始末です。南朝の崩壊をもって古代王朝の滅亡とかっがえた荒井白石は「読史余論」に、「南朝既に滅びし後は、天下の人皇室あるを知らず」と言っています。しかし徳川氏は形の上では源氏嫡流の武臣として、征夷大将軍に任じられ日本の統治権を任されるということになっている。近世には「平家物語」と「太平記」は講釈の読み物として広範に知られていた。徳川氏が「源氏」を称する武臣である以上、徳川光圀の「尊王」は徳川治世の体制に矛盾するものではない。家康が定めたという「公武法制応勅十八箇条」には皇室の行幸を禁じている。幕藩体制の尊王の論理は徳川氏の専断の下に置かれた。1683年「武家諸法度」第一条には「文武忠孝を励まし礼儀を正す」とあり、序列の最高位にある徳川氏のみが皇室に忠を尽くすことになる。こうして皇室は遮断され無力化されたのも幕藩体制一の側面である。南北朝を合体させ天下を統一し「日本国王」を僭称した足利義満も形の上では皇室から官位をもらう形態は不徹底の極みだと荒井白石は批判する。天皇と武臣という二局関係を軸とした「太平記」の枠組みを相対化し「新田・足利両家の争い」と看破した楠木正成は、新田も足利も皇室の権力を亡き者にする点では同じだという。ではこの国ではなぜ古代王朝である皇室を完全に滅亡させ、鎌倉幕府ー足利幕府ー豊臣時代ー徳川幕府という名実ともに交替王朝がうまれなかったかという疑問がいつも付き纏うのである。その回答の一つは日本が島国のため、中国のような異民族の侵略と新王朝樹立が全くなかったためである。武力の絶対的優位をもつ勢力がなくいつも諸藩連合の盟主が勢力均衡の上に成り立っていたせいである。政権内の階層序列が複雑で、織田信長のような絶対君主が出なかったということである。談合を生みやすい体質であった。戦う前に裏切りと離散集合で勝敗が決していたという戦い方が多かった。徳川幕府の治世が固まった17世紀中ごろ「太平記」が刊行本として多量に流通した。数千から数万部といわれている時代だからこそ、「太平記」講釈の芸能、あるいは「太平記」関係の研究もこの時期に最盛期を迎えた。1650年に幕府が林羅山に編修を命じた「本朝編年録」は全40巻として成立した。羅山の息子鵞峯が続編として「本朝通鑑」全310巻を著わした。徳川光圀が水戸藩に史局を開いたのは1657年であった。光圀は林家が編年体としたのに対して対抗して紀伝体を構想した。紀伝体は帝王と臣の伝記をそれぞれ別立てに編成する。光圀の「大日本史」の編修に指導的役割を果たした安積澹白は編年体史は史蹟が欠ける部分が想像になる難点があるという。「大日本史」の初稿が出たころ、1712年荒井白石は編年形式の「読史余論」を完成した。荒井白石は「大日本史」とは対極にある、名と実の一致を求める極めてプラグマティックな名分論を主張した近代的な思想家である。変化を主題とする白石の史論は徳川幕府さえ過渡的な一時点とする、現在を相対化する歴史を主張した。歴史は変化する動態であるから、その動きに対応した統治政体があるべきだという。それに対して政体の変化の要因を叙述から周到に排除したのが「大日本史」である。古代以来変わらぬ政体を守るべきとする典型的な名分主義が「大日本史」である。徳川光圀にとって歴史叙述のテーマは、皇統の不変性によって象徴される。

(つづく)