ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年10月28日 | 書評
京都蹴上 琵琶湖疎水インクライン

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第8巻(年代:1333年)(その1)

1、摩耶軍の事
船上合戦で隠岐判官敗れるの報が六波羅に伝わると、重大事件のように色めきだった。六波羅では京に近いところに敵兵が駐屯するのはまずいということで、佐々木判官時信、常陸前司時知に兵5000余騎を指揮させ、摩耶城の赤松討伐に向かった。3月1日摩耶城の南麓の求め塚より寄せた。赤松軍は敵を山の上に引き込むため遠矢をして退却した。六波羅軍が勢いづいて駆け上がり七曲がりという細い山道に入ったところを、赤松則祐、飽間左衛門尉光泰が一斉の矢を射たのでたまらず混乱したところ、信濃守範資、筑前守貞範らが500騎で討って出た。引き返した六波羅勢は1000騎にまでに減っていた。(太平記の闘いの記述で兵力数がころころ変わって記される、例えば5000騎といったのにいつの間にか7000騎と表現する事が多い。何が正しい数値かわからない。)
2、酒部瀬川合戦の事
六波羅では備前国の御家人が反幕府側に寝返ってはならじとして、2月28日さらに一万余騎を摩耶城攻めに派遣した。赤松側では機先を制するため不意を衝く作戦が必要だとして3000余騎を率いて摩耶城を出て酒部(尼崎)に陣を取った。3月10日六波羅勢が瀬川(箕生)に到着した。幕府側の阿波の小笠原3000余騎が尼崎に船を止め上陸した。そして瀬川の宿に兵を入れた。赤松軍は11日3000余騎で瀬川の陣に攻め込んだが、敵の大軍を前に赤松軍はたった七騎で決死隊を送り込んだ。赤松軍は慌てふためく幕府軍の首を300余りとり、勝ちに乗じて逃げる敵を追うことが戦いのコツだとばかり、勢いづいたまま京都に攻め込む戦術をとった。
3、三月十二日赤松京都に寄せる事
京の六波羅では大軍を摩耶に送り込んだので吉報を待っていた矢先、3月12日淀、赤井、山崎、西岡あたりの30か所に火が懸けられ、すでに三方より赤松勢がよせているという。北六波羅も左近将監時益は京の洛外で防ぐつもりで、両検断須田、高橋に2万騎を率いさせて西八条へ打って出た。桂川で水戦を予想しての事であった。赤松円心勢は3000余騎を二手に分け、川西二ある久我縄手、西七條から対岸の六波羅勢に向かった。六波羅勢は鳥羽から城南離宮、羅生門、西七條口までびっしり埋め尽くしていた。六波羅勢は川を越えず、赤松勢は大軍を前に進めずにらみ合いと遠矢だけの戦いでは雌雄を決することかなわじと赤松則祐ら主従6騎が川に馬を入れると、範資、貞範ら3000余騎もそれに続いた。このただならない様子を見て六波羅勢は闘う前から北の洛中をめざして逃げの一手になった。
4、主上両上皇六波羅臨幸の事
この様子を見て西七條の守り手高倉少将の息子左衛門佐、小寺、衣笠らは敵はすでに都に入ったと思い込んで、大宮、猪熊、堀川の50箇所に火を放った。洛中での戦いは夜半の事であるので火と声ばかりで何も見えず、六波羅の兵は六条河原に集まって茫然の体であった。御所では日野資名、左弁宰相資明二人が内裏に向かい、六波羅へ避難することになり、主上(光厳天皇)は三種の神器を携え、月卿雲客20余人が供奉した。
5.同じく十二日合戦の事
この夜、六波羅勢は七條河原に集結し、両検断須田、高橋は3000騎の兵を率いて八条口に向かった。河野九郎左衛門尉、陶山次郎は2000騎の兵を率いて蓮華王院(東山七条、今の三十三間堂)に向かった。陶山は八条河原の六波羅の合図に従い撃って出た。蓮華王院あたりの敵兵を蹴散らし、西七條の六波羅軍の応援に向かった。両検断須田、高橋が苦戦している様子を見て戦い敵軍を押し返した。範資、貞範兄弟らは六騎、則祐一騎ばかりになって赤松勢は惨敗して山崎へ敗退した。河野九郎左衛門尉、陶山次郎勢は鳥羽あたりで深追いをやめ六波羅にもどった。この度の河野、陶山の働きは抜群であったので臨時の宣下を賜った。両検断須田、高橋は翌日洛中の敵兵の死者の首をかき集め六条河原にさらした数は873であったという。赤松の首が5個もあったとはいい加減なごまかしである。
6、禁裏仙洞御修法の事
光厳天皇位につかれてからは、休まる日はなく法の威をもって逆乱を鎮めるために、諸寺諸山に命じて大法秘法を修された。梶井宮親王(叡山座主)は内裏で仏眼の法を、仙洞では慈什僧正が薬師の法を行われた。しかし公家・武家の悪行は甚だしく、日を追うて国々から急を告げる報が届いた。
7、西岡合戦の事
山崎に退いた赤松軍の追討を怠ったため、赤松は中院中将貞能を聖護院宮と号して、山崎、八幡に陣をとり、川尻に関を置いた。六波羅では3月15日5000余騎で山崎へ向かった。桂川を渡って物集女、大原野から山崎に寄せた。赤松入道は3000余騎を三手に分け、500騎を大原野小塩山へ、1000騎を狐川へ、800騎を向日明神に置いた。六波羅勢はあちこちで小競り合いになり、小一時間の戦闘ではかばかしい戦果もなく、赤松勢を追い払うことはできなかった。

(つづく)