ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年10月29日 | 書評
京都 智恵光院(平等寺)

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第8巻(年代:1333年)(その2)

8、山門京都に寄せる事
都での赤松勢の官軍が攻めあぐんでいることを聞いた大塔宮は勅使を立て山門の衆徒に決起を促した。3月26日山門では大講堂において詮議を行い、武家追討の企てに全員が賛成を示した。山門は28日に六波羅に寄せる決議を行った。山門に集まった近国の兵は106000騎となり、思いあがった山門宗徒は八幡、山崎と連絡も取らず28日の決起の兵站はなきも同然であった。六波羅では山徒の数は多いといっても鎧や騎馬(武家の兵)も少ないので、三条河原で待ち構え矢を射るべしと7000余騎を七手に分け陣を張った。前陣が法勝寺、真如堂に到着して後陣を待つところへ、六波羅軍がどっと攻め込んだので散々射られて真如堂の山に逃げ込んだ。東塔の豪鑑、豪仙が二人長刀を振りはらって奮戦したが、雨のように矢を射られて自害した。
9、四月三日京軍の事
3月12日京での合戦では赤松は退き、六波羅が京を支配したように見えたが、まだ治まったとは言えない。山門はまだ武家に対抗し坂本で兵を集めて京へ攻め込むつもりらしい。そこで六波羅は叡山に大きな荘園13か所を寄付し、祈祷の度に宗徒に土地を恩賞として与えた。これによって山門の衆議は分断され武家に心を寄せる宗徒も出てきた。八幡、山崎にいた官軍は大半は減少し、今は一万騎にも足らない数となったが、4月3日朝、六波羅の油断を狙って7000余騎を二手に分け京都に侵入した。殿法印良忠、中院中将定平を大将として3000余騎を伏見、木幡に火をかけ、鳥羽竹田より押し寄せた。赤松入道円心は3500余騎を川島、桂に火をかけ西七條から侵入した。六波羅は3万余騎を六条河原に集結させ三手に分けた。佐々木判官時信、常陸前司時朝は3000余騎を率いて糺河原に置き、河野、陶山は5000余騎を率いて法性寺大路に差し向け、富樫、林一族は6000余騎を率いて西八条へ向けられ、加治源太左衛門、高橋、糟谷、土屋、小笠原は7000余騎を率いて西七條口に差し向けた。同日午前10時三方で戦いが始まった。夕刻になって、河野、陶山300騎で木幡を攻め込んだ。官軍は奈良街道を逃げたが、これ追って討ち散らし、敵は東寺から鳥羽、羅生門、寺戸(向日市)方面に退いた。小早川と島津が西へ活路を求めて展開したとき赤松軍に六波羅勢は襲い掛かった。
10、田中兄弟軍の事
陣の崩れた赤松軍の中から二人でて数千騎の中へ討ってかかった。備前国頓宮次郎入道の子息孫三郎と田中藤九郎盛兼の舎弟孫九郎盛秦であった。西国一の太刀武者とこれに対して幕軍から島津安芸前司父子3人がでて、太刀勝負とならないように消耗戦に持ち込み、馬上より矢を打ち込めば当たらぬということはないといって少人数同士の格闘技となった。島津の矢がなくなったとき小早川は150騎でかかりつけたので田中親子兄弟4人はたまらず2,30本の矢を受け立ったまま死んだ。この見事な勝負は後までも惜しまないものはなかった。
11、有本一族討死の事
官側の美作国の菅家一族300余騎は、四条猪熊において、六波羅側の武田兵庫助、糟屋、高橋軍の千余騎と闘った。夕刻になると御方の軍は退却していたが、負けず嫌いで敵に後ろを見せたくない一心で、有本菅四郎佐弘、五郎佐光、又三郎佐吉三兄弟は奮戦した。佐弘は武田に首をとられ、佐光は武田の首をとったが、佐吉は刺し違えて戦死した。竹田も兄弟、有本も兄弟、一人だけ生き残っても意味はない、いざ勝負と佐光と武田七郎は太刀を捨て組んで戦った。そこへ菅家側の4名も組んで差し違え、27人が一所で打ち取られ戦いはやんだ。

(つづく)