ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年03月20日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第23回 最終回

6) 晩年篇ー韓国統治(その2)

1907年6月、オランダで行われた第2回万国平和会議に韓国皇帝高宗の派遣した密使が日本の韓国保護条約を無効であることを列強に訴えようとした事件が発生した。事前に察知し高宗には警告しておいたが実行されたことで伊藤は怒り、韓国併合の絶好のチャンスだと伊藤は提案した。7月10日山県、桂、西園寺首相、原内相、林外相、寺内陸相らが閣僚会議を行いこの問題を話し合った。原内相は韓国内政の実権を日本に収めるのも良し、すべては伊藤に一任という形でまとめた。7月16日高宗の譲位はやむなしと李完用内閣が決定した。ただ伊藤は併合するとコストが高くつくので二の足を踏み切れないでいた。この事件を受けて伊藤統監の主導で1907年7月24日第3次日韓協約が結ばれた。内容は韓国側のほとんどすべての行為は統監の同意・承認を必要とするもので、韓国の外交権のみならず内政権まで奪うだけでなく、韓国人の自発性を奪い取るものであった。高宗が譲位しその子の純宗が即位し第3次日韓協約が発効した。8月1日韓国軍を解散させたことが、義兵排日運動がさらに盛んとなった。排日運動は1年間は続いたが警察の抑圧により1909年半ばにはずいぶん下火となった。伊藤が日本の憲政体制で気がかりなことは、日清戦争後陸海軍が内閣から自立化傾向を強め、日露戦争後には軍隊の行動は文官のコントロール外になったことである。伊藤は憲法を改正し陸海軍を内閣ん0統制下におくことを考えたが、1900年以降、軍官の山県と文官の伊藤の再有力者二人の間には国家運営を巡って調整できないほどの隔たりと対立が生じていた。従って改憲を提起する元老会議での一致は不可能、天皇は改憲の発議はできない状態であった。また衆議院で改憲の2/3以上の賛成を得ても、貴族院で賛成を見ることは到底望めなかった。そこで伊藤は憲法を補完する法令で首相権限を強化しようとした。帝室制度調査局総裁であった伊藤は副総裁の伊東巳代治に命じて勅令の公式令を考案させた。勅令には担当大臣の副署が必要と首相の副署を必要とするに改めた。陸海軍に関する勅令において首相の副署が必要となり、首相のコントロールを可能とした。ところが山県は軍に関する勅令にかわる軍令を制定し、担当大臣(陸相、海相)の副署だけでよく、首相の副署は必要ないとしたのである。こうして公式令は骨抜きになった。第3次日韓協約で伊藤は韓国の宮中と府中(政府)の区別を進め、同時に韓国の宮中の権限を縮小した。1907年12月1日韓国人官吏の内勅任官ら4000名を罷免し、日本の高等官10人に置き換えた。政府内の日本の高等官は25名になった。11月13日皇帝淳宋と皇太子の住居を移して太皇帝(前高宗)の住居と引き離した。皇太子の教育のため日本留学(人質)を決めた。9月東京控訴院検事長の倉石富三郎を韓国法務部次長に就任させ、司法制度改革関連法が相次いで施行された。山県元帥と寺内陸相は韓国併合論者であったが、伊藤は併合論を否定はしないが韓国の近代化の方に努力を傾注した。その頃の日本の政局では桂太郎は山県系官僚閥ではナンバー2の位置にあったが、日露戦争後の状況で次第に不満を強め山県との関係が悪化していた。桂は伊藤や政友会の支援をえて、山県官僚閥でに立場を強化したいと思い伊東へ接近した。伊藤も桂との連携が強まれば財政面で韓国統治の援助となり、陸軍の協力をえて支配が安定すると考えた。まず桂大将の発議になる東洋拓殖会社設立問題がおきた。日韓両国の共同管理となる拓殖会社であった。1908年3月に大蔵省案の拓殖法案が帝国語彙会に提出されたが、伊藤は韓国人の利益を眼中に置かない案に不満であったが、議会を通過し東拓法が公布された。山県系官僚の宇佐川が初代総裁になり、吉原三郎が副総裁になった。義兵の乱には桂との連携で、伊藤と関係が良くない長谷川好道駐箚司令官を更迭した。1908年8月ごろ伊藤は統監を曾祢副統監に譲って辞任したい旨を本国に伝えた。老齢のため任務が酷になったのと義兵の乱が下火になったので辞任する理由としたが、山県を始め山本権兵衛、桂、小村も伊藤の留任に賛成した。1909年3月30日小村寿太郎外相は桂太郎首相に韓国併合に関する方針を伝えた。4月10日桂と小村は伊藤に韓国併合に対する伊藤の意見を求めると意外にも異論はないと答えた。それは4月には辞意を固めていたからである。こうして伊藤は6月14日に統監を辞任し、曾祢副統監が統監に就任した。1909年7月6日の閣議で桂内閣は韓国併合を決定した。元老伊藤は山県から枢密院議長の職を譲り受けた。伊藤は韓国に独自の法典を整備する計画を放棄し、韓国の司法権を日本に委任させるための活動を始めた。7月12日伊藤は、韓国司法および監獄事務委託に関する覚書を、統監府と韓国政府との間で結んだ。こうして韓国は司法権を失った。
桂内閣の後藤新平逓相から、欧州列強、特にロシアのココーフツオォフ蔵相に日本韓国処理について、日本の真意を理解してもらうことは意義が深いと言われた。10月11日伊藤は自宅で山県とし、後事を話し合った。伊藤が最も心配するのは韓国問題である。憲政政治は第1次西園寺内閣から第2次桂内閣では原敬が党を取り仕切って政友会は政権運営ができるまでになった。伊藤にとって清国の近代化に協力することは本望であった。いずれ北京に清国顧問として伊東巳代治と一緒に行くことに意欲を持っていた。1909年10月14日伊藤枢密院議長は、室田義文貴族院議員、村田惇中将、古谷久綱枢密院議長秘書官及医師、漢詩人らを従えて大磯を出発し、門司より乗船した。そして18日に大連に到着した。歓迎会で伊藤は清国の立憲制導入の改革を助ける熱意を表明した。21日旅順より乗車し25日午後7時に長春(ハルピン)に到着した。翌日26日ハルピン駅に出迎えに来ていたロシアのココーフツオォフ蔵相と初対面の挨拶をかわして、午前9時30分二人がプラットフォームに降りたところを安重根という朝鮮の青年にピストルで数発撃たれて伊藤は絶命した。68才であった。日本の随員の3人も被弾して負傷した。伊藤は10月26日付で従1位(岩倉具視、毛利元徳公爵に並んだ)に叙せられ、27日伊藤の葬儀は国葬で行われることになった。11月4日日比谷公園で国葬が営まれた。この事件の結果山県元帥と寺内陸相は近い将来韓国を併合することを課題としたが、現曾祢統監の病気が悪化しつつあったので、5月30日寺内が統監となった。この体制で1910年8月29日朝鮮は併合された。朝鮮総督府が植民地朝鮮を統治することになった。明治天皇は2年後1912年7月29日病死した。59才であった。明治天皇は伊藤と山県を車の両輪にして、文武の明治維新を完成させたことになった。こうして明治は終わった。伊藤の文治主義は大正時代デモクラシーの政党政治を将招し、山県の武断主義は昭和の軍国時代を招いた。さてあなたはどちらが良かったか。

(完)