ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年03月11日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第18回

5) 斜陽篇ー憲政政治と日露戦争

1896年9月18日第2次松方内閣ができた。松方は蔵相を兼任し、大隈が外相となり伊藤系は誰も入閣しなかった。伊藤は自由党にかなりの活動資金を渡し、次に組閣した場合も自由党と連携するつもりであった。伊藤は11月から大磯を出発し西日本漫遊の旅に出た。96年2月ごろから板垣・林らの土佐派と河野派が対抗する自由党の分裂が進み、陸奥は自由党の河野広中との接触を密にした。板垣や林の土佐派の自由党支配は急速に崩壊し、松田正久が自由党の最高幹部となった3月には、板垣を退陣させ陸奥に自由党に入党し総理になるよう要請した。陸奥は進行する病気と首相へのタイムリミットを計算し、陸奥の腹心の駐米公使の星亨や、10年来の親友だった西園寺公望とも相談した。1897年4月天皇はイギリスのヴィクトリア女王即位60年祝典に、有栖川宮威仁深奥を正使、伊藤を副使として祝典に参加し、その後仏・独・露・奥・伊諸国を巡視するように命じた。諸国漫遊中の8月伊藤巳代治から伊藤の帰国を望む連絡が入った。そこで9月5日に帰国し、7日に参内し欧州報告を行った。伊藤の帰国を促した情勢の変化とは、松方内閣の不評や、岩崎弥太郎男爵の「大融和」構想を伊東巳代治に語ったこと、井上薫と大隈外相が強力内閣構想で一致したという内容であった。伊藤は藩閥官僚・自由党・進歩党など挙国一致内閣と憲政政治の考えを持っていたので急いで帰国した。松方内閣は大隈の進歩党の就官を11名に増やして歓心を買い、地租増税による健全財政を行おうとした。それでも進歩党は見返りが不十分だとして松方内閣の地租増税に反対し、97年10月には松方内閣と断絶した。こうして松方内閣は自由党や進歩党のいずれの支持もなく第11議会を乗り切らなければならなかった。地租増税は軍備拡張計画には是非とも必要であった。10月朝鮮国はロシアの士官を招くことをきめ、』11月14日にはドイツが膠州湾を占領し、12月15日にロシア艦隊が旅順に入った。山県系官僚団は危機感を抱き、12月25日自由党と進歩党は内閣不信任決議案を上程し、松方内閣は衆議院を解散した。27日後継内閣についての天皇の下問にたいして、黒田は伊藤か山県を推薦した。29日伊藤が参内すると組閣の命が下った。1897年12月31日伊藤は松方の辞表提出を受けて参内し、組閣構想を天皇に奏上した。1898年1月12日発表された第3次伊藤内閣の顔ぶれは、桂太郎陸相、西郷海相、井上蔵相、曾根法相、伊東巳代治農商相、西園寺文相、末松逓相、芳川内相、西外相であった。伊藤系5人、山県系2人、薩摩系一人となり、挙国一致内閣とは違って長州閥の伊藤系を中心とした内閣であった。組閣において自由党と進歩党の支持と参加もなく、伊藤は1月10日御前会議を開催した。元老として呼ばれたのは、伊藤・山県・井上・西郷・黒田・大山の6人であった。政党の協力の無い内閣は最初から前途多難であった。極東情勢をみると、列強の中国分割と朝鮮の勢力バランスは複雑で国内の軍備も不十分で財政も乏しいので、事が起これば局外中立で安全を図るしかないという見方であった。組閣が終わって3日たった15日ロシアの駐日公使は西徳二郎外相に「日露協商」の再協議を求めてきた。4月25日伊藤内閣は西ーローゼン協定によって、かっての山県ーロバノフ協定を再確認した。すなわち朝鮮においては日本とロシアは対等であることであった。松方が解散させたままの衆議院の総選挙が3月15日に行われた。伊藤は選挙運動で凶器(刀)を持つことを禁止し、選挙の旧武士的要素をそぎ落とし、政党の近代化を期待した。第12議会の政党勢力地図は、自由党98人、進歩党91人、山下倶楽部54人、国民協会(藩閥系)26人で、自由党らが政府に協力しても過半数には及ばなかった。自由党の林有造は政府支持路線を取り見返りに板垣の入閣を要請した。伊藤がこの要求を蹴ると自由党は内閣との対決姿勢を取った。伊藤にとって苦悩の多い議会の幕開けとなった。政党に政権を渡すか、何度でも解散を繰り返すか、藩閥勢力からは憲法停止論まで出た。しかし伊藤は重要法案として衆議院選挙法一部改正案と地租増微案を提出し、急がば回れ式の抜本的対応策を選んだ。都市商工業者を基盤とする都市選出代議員数を5.7%の現状から24%以上に拡大するため、有権者の農政学を地租15円から5円に下げ、営業税3円以上を納める25歳以上の男子として、有権者を5倍に増やす方策である。産業革命の進展に伴い、農業部門の税金を重くし、都市部の参政権を拡大することで日本の議会を商工業国型に転換する政治改革であった。伊藤内閣の地租増微ほうあんいたいして自由党と進歩党は反対した。そこで伊藤は1898年6月7日から衆議院を停会としたが地租増微案は結局否決された。いずれの法案も大差で否決されたため伊藤は衆議院を解散した。その後渋沢栄一や大倉喜八郎の協力で商工業者向けの政党を組織しようとしたが、他の閣僚は伊藤の政党育成論には同意しなかった。さらに6月22日自由党と進歩党が合同して憲政党が組織され、政党は一丸となって政府を攻撃した。藩閥政府にとってできることは憲法を停止して議会制を止めるか、憲政会に政権を与える事の2者択一であった。天皇は事態を憂慮して、6月24日に開いた御前会議において、誰も藩閥政府を組織しないなら、政党内閣を作るしかないと言って首相を辞任した。わずか5ヶ月で第3次伊藤内閣が倒れたことは、もはや伊藤体制(藩閥内閣を足場として、政党をコントロールしながら憲政体制を維持発展させるという漸進的改革構想)が破たんしたことを意味した。その原因の第1は政党が台頭したことである。第2に政党対応策を巡って藩閥内で意見が対立しバラバラとなったことである。もはや天皇の鶴の一声で誰かが藩閥の有力者をまとめて挙国一致内閣を作ることは不可能となった。なかでも日清戦争以来、山県系軍閥が力をつけ伊藤ら文官の容喙を許さなくなったことである。加えるに盟友井上薫でさえ伊藤からの独立を始めたことである。誰も伊藤の言うことに従わなくなったことで伊藤体制は急速に凋落した。

(つづく)