ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年03月09日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第16回

4) 円熟篇ー条約改正と日清戦争 (その3)

1892年6月松方内閣が倒れそうになって、伊藤は藩閥総出の強力な内閣を作って立憲国家の運営を軌道に乗せ、条約改正を達成しようと運動した。7月末に松方の施政に不満だった高島陸相と樺山海相が辞任したことによって松方内閣は倒れた。8月8日第2次伊藤内閣が成立し、山県法相、井上薫内相、黒田逓相、大山陸相、陸奥外相、後藤象二郎農商相が入閣し井上が副総理格といえた。伊東巳代治は内閣書記官長に、娘婿の末松謙澄が法制局長官、井上毅は枢密院顧問官のままであった。この藩閥第2次伊藤内閣にたして自由党の板垣や星亨は政府側に少しでも歩み寄りがあるなら、政府と提携・妥協してもいいと考えていた。改進党は藩閥政府には強硬姿勢を取り続けた。92年11月27日の第4次議会前に伊藤は怪我をして大磯で療養することになり、井上薫が首相代理になった。前任の松方内閣が健全財政路線であったが、第2次伊藤内閣は増税を実施し2000万円に達する建艦計画を行うものであった。民党に対しては高圧的に出たため、自由党さえ反政府路線となり予算委員会は11%削減を決議した。そこで伊藤は新聞紙条例の緩和を見返り条件にした。93年1月衆議院は自民党の河野と改進党の犬養ら三派で上奏案を議決しようとした。内閣は15日の停会後、工作を行ったにもかかわらず議決を行ったが上奏案は可決された。2月6日伊藤が首相に復帰した。2月9日伊藤は天皇の裁可を仰ぎ、政府と議会の妥協する勅答を出すか、議会を解散するかの判断を伺った。2月10日天皇は内廷費を切り詰めるから議会は政府と妥協すべしという詔勅を出した。26日歳出262万円の削減とする妥協予算を成立させた。こうして伊藤のウルトラCの手口で3月1日第4議会は閉会となった。3月7日井上毅を文相に任じたが、11日山県が司法大臣を辞任した。井上毅は第4議会の様子を見て民党に絶望し、政党政治に期待を持たない山県の思想に近づいていった。つまり君主機関説より古い君主主権説に変心していた。井上毅に呆れた伊藤は、イギリス軍艦と日本の「千鳥号」衝突事件の処理を陸奥外相と西郷海相に任せ、かっての腹心で法律の専門家井上毅を外した。こうして伊藤から見捨てたうえに病状の重かった井上は政府から去り、1895年に世を去った。伊藤は第2次内閣成立後から条約改正に熱意を持ち、第4議会閉会後7月5日に陸奥外相から条約改正の方針が閣議に提出された。①治外法権廃止と対等相互主義の通商条約締結、②輸入税目・海獄仁居留地は別途議定書で定める、③締結後一定の期間を置いて実施する、④交渉は英、独、米を先にし、露・仏などに及ぶ。ドイツとアメリカは交渉に応じなかったので、1893年9月イギリスとの予備交渉に入った。ところが10月に対外硬派の大日本協会(品川弥次郎)が反伊藤色を強め改進党と連携して、第5議会の冒頭から予算案よりも、伊藤内閣と星自由党攻撃に終始した。星の不正疑惑追及で12月3日には星亨は自由党を離脱、そして13日には議員除名となった。国民協会と改進党は「現行条例奨励建議案」を提出して条約改正つぶしにかかった。政府は12月30日議会を解散した。政府は伊東巳代治が経営する「東京日日新聞(今の毎日新聞)」を使って一大条約改正論のキャンペーンを張った。ところがイギリスではこれを条約破棄論と勘違いして苦情が届いた。誤解を解いて1894年7月16日イギリスと新条約を結ぶに至った。関税率は品目によっては5%から15%、外国人の内地雑居を認める、新条約の期間を実施から12年とするとした。アメリカはこのイギリスとの条約に好意を示したので、他国との交渉を行うことになった。94年3月1日の第3回総選挙で自由党40%、改進党と他の硬派は併せて30%であった。5月12日に第6回特別議会が招集され、伊藤内閣批判の上奏案が可決され、6月2日再び衆議院は解散された。朝鮮では農民反乱である甲午戦争が起こり、6月2日朝鮮に出兵が行われたので、伊藤はこの朝鮮危機を利用して衆議院解散の危機を乗り越えようとした。6月15日伊藤内閣は清国が同意しなくても日本の指導で朝鮮国の改革を行う方針を採択した。清国がどう出るかは不明であったが、94年7月23日現地の大鳥圭介朝鮮駐在公使と大島少将の現地部隊は独断で漢城の王宮を占領し、25日清国の艦船を攻撃して日清戦争が始まった。

(つづく)