ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊藤之雄著 「伊藤博文ー近代日本を創った男」 講談社学術文庫

2019年03月07日 | 書評
明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第14回

4) 円熟篇ー条約改正と日清戦争 (その2)

第1次山県内閣の青木外相は1890年9月にイギリス政府への条約改正案を作成し、西郷従道内相、後藤象二郎逓相が条約改正全権委員に任命された。案が閣議にかけられ10月の閣議では反対決議となった。この時期の伊藤も山県も第1次議会の対応で精いっぱいで身動き取れず、第1議会で予算が成立した3月2日の閣議に条約改正案が審議された。青木に対してイギリスのフレーザー大使は新法典の1年間実施の削除に反対で、関税自主権未実施の長期化が予想された。また当時は日本には商法も民法も実施されておらず、これらの新法典の実施が遅れるなら、条約の実施も1年ほど遅れる可能性があった。この青木案には井上薫は中止すべきだと考え伊藤に意見書を送った。第1議会が終わった時点で山県内閣は辞任することを決め、1981年5月6日薩摩出身の松方正義内閣が成立した。松方は伊藤や山県、くろだのような藩閥のリーダーではなかったので、その指導力に不安があった。4月27日にロシア皇太子が訪日し、5月11日大津を漫遊中、津田巡査によってサーベルで切り付けられる事件が発生した。けがは大したことはなかったが、天皇を始め内閣を震駭させる事態となった。ロシアと戦争にならないかという心配である。天皇のロシア皇太子お見舞いの前日、伊藤と黒田と松方は閣僚と巡査の処分について協議し、皇室罪を適用し死刑を考えた。世頃が条約改正の為に日本が法治国家になったことを世界に印象付けなければならないという課題もある。5月12日以来松方首相らは児島帷謙大審院長に圧力をかけ、津田巡査を死刑にするよう働きかけた。5月27日大審院の公判が始まり、皇室罪は適用せず刑法の最高刑として無期懲役の判決が出た。児島らの司法の独立を守る行動は後には評価されることになった。松方内閣では5月29日青木外相が大津事件の責任を取って辞任し、榎本武揚が外相になった。西郷内相、山田法相、芳川文相、大山陸軍相も辞任した。こうして松方内閣には藩閥の有力者がいない二流の内閣になった。この青木の辞任を推進した伊藤に対する青木の恨みは、同じ長州出身の伊藤と青木の関係にひびを入れ、青木は山県に近づく結果になった。伊藤の政治的責任とは議会政党勢力と妥協しながら安定な内閣運営を志し、そのためには薩摩閥黒田との友好関係を維持することであった。1891年8月の井上薫の条約改正意見書を見ると、①国際法上でも国内の政体が大きく変化し、状況が条約締結辞典と変わっていれば条約を無効とすることができる。②したがって英、米、仏、ロシアなどから条約破棄の同意が得られるなら、平和裏に廃棄を行い、条約改正が行える。③条約廃棄後必要な法律を実施し、列強の不便のないようにするが、列強の脅しには毅然たる態度が必要である。④しかし条約廃棄のために戦争になることはないことを信じる。というもので、毅然たる態度で治外法権の廃止、関税自主権の回復を目標とした条約改正は可能であるという意見であった。第2回帝国議会は1891年11月21日に始まり、松方内閣は最初から自由党や改進党と正面から対決する姿勢で臨んだ。民党が求める予算削減に応じないばかりか、前回の議会で削減された予算をすべて軍事費に投入する予算案をぶつけた。12月25日民党は予算を否決し、松方内閣は直ちに衆議院を解散した。天皇は心配して山口に帰省していた伊藤に手紙を書いたが、品川弥次郎内相は2、3回でも解散する覚悟であった。これには山県の同意があった。1892年1月6日伊藤は徳大寺侍従長の諮問に対して、希望の順位として政党を組織したいこと、つぎに条約改正のため洋行したいこと、清国の李鴻章と交渉して朝鮮独立問題を相談したこと、宮内次官になって宮中にはいりたいことなどを述べた。この第1の要求は8年後の立憲政友会の組織につながるものだが、藩閥内閣と相互に提携できる政党を作り、それをてこに第2次伊藤内閣を組織しようという計画であった。第2議会の政党議員数は自由党が92、改進党が43で野党であり、大成会46と土佐自由クラブ33が政府に協力する可能性があった。第2回総選挙で品川内相が選挙干渉したため、健全な憲政政治の成長さえ危ぶまれる状況が作られた。伊藤が政党を作ることに賛成の藩閥勢力は当時の政府内では存在しなかった。2月15日の総選挙の結果民党の優位は動かなかったので、23日伊藤は政党を組織したい旨を藩閥勢力関係者に相談した。出席者は松方首相、井上薫、山県、大山、黒田、西郷である。この会議でも伊藤を支持する者はいなかった。解散を繰り返すと「憲法中止」となり憲政政治は専制政治に逆戻りすることになる。政党内閣は遅かれ早かれ日本にもできるのもので、これができないようでは西欧社会の列強からは一人前の国とはみなされない。条約改正もおぼつかない国情だということになる。こうした伊藤の政党政治の動きに最も強硬に反対したのは、品川内相、樺山海相、高島陸相であった。92年3月11日に品川内相は辞任し、陸奥農商相も辞職した。92年5月2日の招集された第3議会において、自由党・改進党は130議席を占め松方内閣打倒共同戦線を組んだ。こうして松方内閣の命運が尽き伊藤と松方を応援した黒田や山県のと関係が悪化した。この間の条約改正問題は松方首相が消極的であったので、榎本武揚外相は芳しい動きはできなかった。品川内相が辞任した時点で92年4月に条約改正調査委員会ができ伊藤もメンバーの一人になったが、活動はすぐに休止状態となった。

(つづく)