ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 梶田隆章著 「ニュートリノで探る宇宙と素粒子」 (平凡社2015年11月)

2017年01月30日 | 書評
物質のもとになる基本粒子ニュートリノの振動現象を証明し、ノーベル賞を受賞したスーパーカミオンデGによる実験物理学の成果 第9回

3) ニュートリノ振動と質量の発見(その1)

カミオカンデは1980年代の終わりに「ニュートリノ振動」を示すデーターを発表しましたが、学界の多くの人は懐疑的でした。当時の事情を振り返ってみましょう。素粒子の標準理論は上にあげた表のように、6種類のクォークと6種類のレプトン、3種類の相互作用(強い力、電磁気力、弱い力)に基づいていました。ニュートリノは「電気的に中性で、質量がないか、あるいは極めて軽い」と見なされていた。当時はニュートリノの質量を求める実験は成功せず、ニュートリノの質量はゼロと見なして何ら差し支えない状況でした。ニュートリノ質量に関しては、1962年名古屋大学の牧次郎、中川昌美、坂田昌一は、若しニュートリノに質量があるなら、飛行中にニュートリノの種類が変化する「ニュートリノ振動」と呼ばれる現象が起ることを予想しました。第3世代のτニュートリノ野存在が証明されたのは2000年でした。τ粒子が1975年に発見されて以来τニュートリノがあってしかるべきと予想されていましたが、25年後に実証されたのはニュートリノを探す実験が難しかったからです。物質と反応して電子を作る「電子ニュートリノ」、物質と反応してミューオンを作る「μニュートリノ」、物質と反応してτ粒子を作る「τニュートリノ」の3種類のニュートリノがすべて実証されるのが2000年でした。τニュートリノを大量につくるには、π中間子よりもD中間子が適していることが分かりました。D中間子は、陽子をπ中間子を作る時よりもさらに高いエネルギーに加速すればできます。フェルミ研究所は、加速して同時に作られるπ中間子やK中間子を吸収除去するため何度もタングステンターゲットに当て、τニュートリノビームだけを取り出すことに成功しました。τニュートリノの検出法は、τ粒子の寿命が極めて短く、1mmも走らずに崩壊するため、名古屋大学の丹波公雄チームは原子核乾板でτニュートリノを自動でキャッチする装置を開発し、τニュートリノとの反応の結果作られたτ粒子を直接観測することに成功した。ここでμニュートリノとτニュートリノの質量を「二つの質量を持った状態の重ね合わせ」と考えます。質量は各々ν2、ν3とすると、それらの重ね合わせで質量が決まるのでその大きさは「混合角」θで決定されます。量子力学の考えでは、異なった質量を持つν2、ν3は、わずかに違った周波数を持つ波と考えることができます。わづかに周波数の違う波の重ね合わせによって「うなり」が生じて、その結果ニュートリノ成分が減ったり、増えたりを繰り返すのです。ν成分とτ成分の混合比率(混合角)に振動が起きるのです。これを「ニュートリノ振動」と呼ぶ。ニュートリノ振動によって別のニュートリノに点するまでの距離を測れば、ν2、ν3の質量の差が測定できます。アインシュタインの特殊相対性理論が教える様に、「ニュートリノが別のニュートリノに転移する→ニュートリノの時間は進む→ニュートリノは光よりゆっくり進む→ニュートリノには質量がある」という結論となります。当時クォーク間の混合角は小さいということから、ニュートリノ間の混合角も小さいだろうと憶測されていました。太陽ニュートリノの数が理論値よりずっと少ない問題は、地球まで飛んでくる間に別のものに変わっていたと考えれば説明可能となります。そして大きな振動確率つまり大きい混合角が予測されるのです。大気ニュートリノとは宇宙線によりπ中間子がミューオンとμニュートリノに崩壊し、さらにミューオンは電子とμニュートリノと電子ニュートリノに崩壊する反応です。つまりπ中間子が1個生成されるたびに、μニュートリノが2個、電子ニュートリノが1個作られます。実は1988年のカミオカンデ観測によりμニュートリノの数が予想の60%であることを示していました。これはニュートリノ振動が存在し、μニュートリノの半分がτニュートリノに転移していたと仮定すれば説明可能です。τニュートリノの観測はカミオカンデではできなかったので決定的証拠が採れなかった。エネルギーの高いμニュートリノの主な反応は、水中の中性子や養子と反応してミューオンを作ります。このミューオンのチェレンコフ光を検出しミューオンの向きを調べると、元のμニュートリノがどちらからやってきたかが分かります。その結果下から飛来するμニュートリノだけが減っていることが分かった。地球の反対側から上向きに飛来したニュートリノだった。当時のカミオカンデでは大気ニュートリノは数日に1回しか観測できなかった。カミオカンデのような「待ち」の実験では、長い間観測することでデータの信頼性を上げるしかありません。そこでカミオカンデの規模を20倍大きくする「スーパーカミオカンデ」の建設が1991年から開始された。本格的な「太陽ニュートリノ天文台」が、引退された小柴博士に代わって戸塚洋二博士が引き継いだ。水槽は2層式で内水槽は5万トン、光電子増倍管は11000本です。外水槽は邪魔な宇宙線が入ってきたかどうかの確認に使われ、光電子増倍管は1900本です。直径42m、高さは58mで「カミオカンデ」から200メートル離れた同じ地下空洞に設置された。「スーパーカミオカンデ」は1996年4月1日からデーター観測を始めた。そしてデーター解析が進み、1998年6月高山市で行われたニュートリノ国際会議において、著者梶田隆章博士が「ミューオン・ニュ-トリノ振動の証拠」と題する発表を行った。

(つづく)