ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 姜尚中著 「続・悩む力」 集英社新書

2013年06月16日 | 書評
夏目漱石・ウェーバーの言葉に現代人の悩みを問う 人生論続編 第2回

序(2)
 後編の「続・悩む力」は、2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原発事故が、何気ない日常が繰り返され、突発的な事件や事故は忘れられるという前提を大きく崩した時点で、4年前の著作「悩む力」を再度世に問うために書かれたようだ。「楽観論は力に通じ、悲観論は虚弱に通じる」という教えは、この数十年来の私達の社会の導きであったが、3・11の事態が起こったのである。原発のような科学技術の安全神話にどっぷり浸かっていた精神構造は、「楽観論は力に通じる」ような導きと通じていたのだ。3.11の事態にも懲りもせずに、全く反省も何もなく新手の楽観論を説く人々がいる。いよいよあやしい。むしろ悲観論を受け入れ、死や不幸、悲惨な出来事の意味を問うことこそ、人生を存分に生きることではないだろうか。生まれ変わったように「二度生きようではないか」というのが本書の意味である。今が非常事態であると精神の深いところで自覚するか、事故のことはすぐに忘れてしまえというように旧態に回帰する事を希望するのか、それはその人の現社会での位置によって異なるだろう。バウマンは「液状化する近代」と称して、しっかりしている思われていた社会構造が崩れだす今日を予言した。グローバル市場経済システムは実体経済から離れ、我々の生活感から無縁の化け物に過ぎなかった。金を集めては破産させることで利益をえてきた破滅的金融市場は1国の経済さえ飲み込み、もはや人間の姿をしていない悪魔である。こうしてみると我々の社会は日常化した「非常事態」を生きている事になる。もう一度、お金、愛情、健康、老後といった身近なことを考え直そう。団塊の世代は「一億総中流」といった神話に踊らされた。身の程しらずのこの時代の事を「花見酒に酔った狐みたいな日本」と呼んだ。その結果、バブル崩壊後の失われた20年といわれる市場規模の縮小(消費減退による)慢性不況にあえいでいる。非正規化と就職氷河期といった労働環境の悪化、企業資本の逃亡、社会保障の削減、増税、人口減少社会の到来、自殺者が年3万人を越えた社会は北欧以上に病んだ社会である。本書は幸福論のハウツーものではない。著者は出来る限り難しい言葉を避けているだけである。このような世の中でも生きてゆく道を探そうという「どっこい精神」の軟らかさを備えている。本書は系統だった理論を述べるものではなく、夏目漱石、ウェーバーの「近代化の憂鬱」箴言集である。民主主義の行く末を案じたトクヴィル著 「アメリカのデモクラシー」(岩波文庫全4冊 2008年)の「トクヴィルの憂鬱」のように、夏目漱石、ウェーバーそして姜尚中氏の「近代化の憂鬱」3.11後版というべき書である。
(つづく)

文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年06月16日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第37回

70) あの女はろくでなし
この話は筋の通った力作であると思います。洗濯女の母親は毎日川に入って冷たいきつい労働をしています。その息子は母親に小瓶半分のお酒を届けています。これは母親の気付け薬のような、冷えた体を温める元気の源であったのですが、町長はそれを見て息子に「お前の母親は大酒のみで、ろくでなし」とののしりました。母親には昔からの友達のマーレンおばさんがいました。この人は母親のことをよく知っていて理解しています。町長が毎日昼食会で飲む葡萄酒の量の多いこと、母親の飲む少量のお酒は体の冷えを救うためであることです。そのマーレンおばさんの語る母親の生涯はこうです。母親は若い娘のころ、町長の弟である法律顧問官がまだ学生だったとき、屋敷に奉公していました。そしてその学生さんと恋をしました。学生さんのお母さんは娘を呼んで、生活が違いすぎるのでうまくゆくはずはない、相応の人を選びなさいと諭しました。それから弟の学生さんは一生独身をとおしています。娘は手袋職人の男やもめと結婚しましたが、最初は順調にゆきましたが、借金で破たんし男もすぐになくなりました。それから母親は洗濯女として骨身をしまず働いて子供を育ててきました。町長の弟が死んだという知らせを聞いた母親は血の気が失せ、川の中で倒れました。マーレンおばさんが介抱して食事を与えて少しは良くなったのですが、翌朝また川に仕事に出かけて水に入った途端、急死しました。母親は貧民墓地に葬られましたが、墓の前で息子に、マーレンおばさんは「ろくでなしと世間は言うが言わせておき、お母さんはそれは働き者だったんだよ」といいました。町長の弟の遺言には母親か子供に、遺産を分与すると書いてありました。町長は息子の後見人となりました。貧しいことは恥ではない、むしろ息子には向上心と希望をもたらすものである。

71) 最後の真珠
ある金持ちの家に世継ぎの息子が生まれました。この家には健康が、富が、幸福が、愛がつまりこの世で人間がほしいと思うすべてのものがきらめいています。家の守護霊はすべてがそろったといました。しかし子供の守護天使が「まだ贈り物が届いていません、最後の真珠がまだ来ていません」といいました。家の守護霊は子供の守護天使とともに、その最後の真珠を探しに行きました。それは「悲しみの真珠」だったのです。人を亡くす悲しみによって、その人は高められるのです。悲しみの数ほど人は強くなれるということです。最愛の人を亡くすることは人の運命です。それを乗り越えなければ人ではありません。
(つづく)