ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

キリンとサントリーの合併問題 酒造業界に寡占企業体出現

2009年07月23日 | 時事問題
朝日新聞 2009年7月23日8時15分
「互いにより強く」 キリン社長、対等統合を強調
 食品最大手のキリンホールディングスの加藤壹康(かずやす)社長は22日、統合交渉を進める同2位のサントリーホールディングスを「互いの強みをより強くするビッグパートナー」と評し、対等の精神で交渉に臨む姿勢を強調した。
売上高でサントリーはキリンの3分の2である。

関西の老舗サントリーと、関東の巨人(三菱系)キリンの合併 ビールの味を守りたい私としてはサントリーの頑固さを愛するが

民主党 医療再建をめざすマニフェスト 医師50%増へ

2009年07月23日 | 時事問題
2009年7月23日7時33分
民主公約「医学部定員5割増」明記へ 
 民主党は医師不足解消策の一環として、衆院選マニフェスト(政権公約)に、大学医学部の定員を5割増やす目標を明記する方針を決めた。医師不足が特に深刻な救急や産科、小児科、外科の充実に向け、地域の医療機関の連携強化や、国公立病院の医師定数増員も明記する。
 政府は80年代後半から定員削減策をとってきたが、医師不足の拡大を受けて08年に方針転換した。 公約では、従来政府がとってきた年間2200億円の社会保障費抑制方針は採らず、医療再建のため十分な予算を確保するとしている。当面の目標として医師数を人口1千人あたり現行の2.1人から、主に先進国が加盟する経済協力開発機構(OECD)の平均である3.1人まで増やす方針を掲げる。

サッチャー式市場原理主義で破壊されたイギリス医療行政を再生した、ブレアー元首相の医療再建策を参考に 
医師養成定員を厚生省が云う7898人から8360人の増員する案では、この20年間の医師数減少世代を埋めることは出来ない。医師数を毎年400人づつ10年掛けて4000人増とする。これは現状の7900人の150%にすることです。10年後には医学部を1万2000人の定員とすることです。なぜなら毎年老齢で医師を廃業する人が4000人、毎年8000人の医師が壮年期を迎え勤務医を辞めてゆきます。それでも約4000人の病院勤務医が増加します。これで人口1000人あたりの医師数は2018年び2.47人、2028年びは3.00人、2038年には3.49人となります。医師養成の費用は医学部交付金平均788万円に2.4万人を掛けると公的負担は約1800億円(東京大学の人件費の2倍)です。高齢化するわが国で医療制度を維持するためには、このレベルの社会的負担が増えることになります。海上自衛隊のイージス艦1台くらいです。航空自衛隊のステルス戦闘機数台分です。

読書ノート 江口克彦著 「地域主権型道州制」 PHP新書

2009年07月23日 | 書評
中央集権制を廃して、日本の新しい国のかたちを探る 第4回

日本の「地域主権型道州制」議論の始まり (2)

 「地域主権型道州制」の導入は、明治維新以来続いてきた中央集権的な国家統治システムを根本的に変えるという改革である。徳川時代の藩体制から明治維新以来の都道府県体制は技術の進歩によってもう狭すぎるのである。平成の大合併によって、政府直轄の政令指定都市が増えすぎ、道府県という広域自治体の空洞化が進行した。道府県の半分の行政単位は政府と直接繋ながる政令指定都市となってしまって、道府県の存在意義がどんどんなくなった。2006年より日本は人口減少社会に突入した。島根県は約74万人、鳥取県は約60万人、各道府県の人口減少の流れは止まない。貧乏な県から豊かな都市へ人が避難する様に人口移動も起こっている。このままでは東京以外の道府県は立ち枯れてしまう運命にあるのだろうか。政治家や国会議員は中央から多くの事業を地元に持ってくる事だけが仕事となり、霞ヶ関や永田町を米搗きばったのように頭を下げて走り回っているのが哀れな国政の状況である。それが地方自治の停滞や甘えや無責任を生む背景となってきた。そこで東京以外の地域が活気あふれる経済活動で繁栄する全国拠点を12箇所ほど設けて、それを単位としてそれまで国がやっていた仕事の多くを道州が自らの責任と判断において行い、また都道府県がやっていた仕事の多くを約300の基礎自治体が自らの責任において担うのである。それが「地域主権型道州制」というシステムである。コンピュータの世界が中央演算装置「メインフレーム」から、パソコンや分散処理の時代になっているように、日本という国のあり方も中央政府がすべてを取り仕切る「メインフレーム」の世界から、分散型の柔軟な組織に変えて変化に追随できるように変えなければならない。現場を知らない政府官僚が地方の末端事務の箸の上げ下げまで指図する構図は滑稽である。計画段階で齟齬がなければ、現実に矛盾だらけの仕事をごり押しする姿は非効率で時代錯誤で不経済である。
(続く)

読書ノート 坂井克之著 「心の脳科学」 中公新書

2009年07月23日 | 書評
「わたし」は脳からうまれる 第7回

1)外なる世界 認識と意識 (4)

 現在の脳科学では、脳活動とわたし達の意識の中味との因果関係が一番の問題となっている。見えたものを意識するメカニズムを考える。脳科学に「眼球間闘争」というおかしな名の実験がある。左目と右目に別々の像を見せると、意識せずに画像は交互に意識に上る。これを支配しているのが、画像が顔と建物であれば脳の「顔領域」と「建物領域」の活動の切り替えが起きているのである。右目と左目が闘争しているのではなく、脳の中で意識する領域のスィッチが切り替わっているのだ。切り替えの時に活動しているのが「前頭葉外側領域」であった。スィッチの司令塔はここだ。前頭葉は意識的に努力している時に活動するが、意識せずとも自発的に活動することがある。縦縞と横縞を左右の目に見せる時には、ここでもやはり眼球間闘争がおきる。この時の司令塔は視神経線維束の連結点であった「外側膝状体」が活動している。結合だけでなく信号のゲート役を担っている。意識に上らなくとも神経活動はある程度は自発的に別の脳領域につたわる。これを「サブリミナル効果」と呼ぶ。見ようとする意識がなければ何も見えたことにはならないが、見ようとする意識があると視覚にはない物を見ることがある。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」と云う言葉ある。思う我はどこにあるのだろうか。臨死体験とかてんかん患者は自分が肉体を遊離する姿を見る事があると云う。それは脳の「TPJ領域」の異常である。この部分に電流を流すとこの現象の誘発が出来る。「TPJ領域」は視覚、触覚、平衡感覚の情報が集まる場所である。自分の自我は絶対見る事は出来ない。自我は虚構である。自我は実在ではない。しかし「私という虚構」は脳という実態基盤を持っているのだから、それを科学的に明らかにする事は可能であろう。
(続く)