ランの花は、私の子供時代にはあまり見ることがなかったお花だと思います。
その白い花は、慶弔、どのようにでも使い道がありますし、なんといっても時々お水をあげれば長く咲き続けるので見栄えも良く、この頃では入手も簡単になりました。
今のこの梅雨から夏にかけての季節は、水が傷みやすく、生花のお世話をするのが大変ですので、諸々セットで葬儀社さんから私の自宅に運ばれてまいりましたこのランの鉢の花はなんとも便利で、なんとか四十九日の法要まで元気にその花を保ってくれないかとさえ思っているところです。
もっとも頼りになるものは、結局、時の流れであるということだけだと、この頃つくづく感じます。
どうしようもない事実に直面すると、人は自分を守るために体と心を自然に閉ざそうとするものです。
けれど、そうした省エネモードにありながら、必ずわたしは生きている。
その閉じこもった小さな穴蔵からでも、この1か月、私は色々な物に見ようとしたのだとなと今強く感じています。
そしてそこから見える景色は、今まで見てきたものより案外新鮮で、しかも深く感じ入ることの多いものでした。
動きが早く、敏感でなかなか写真におさめるのが大変でしたのでご覧になりにくいかと思いますが、お分かりになるでしょうか。
自宅にイモリが長く棲みついている事は知っていましたが、こんな門灯の小さな穴に出入りしていたとは今まで
気づきませんでした。
気づいてしまったら、、
何か気配を感じると、とても慌てて、体のバランスを崩しながら必死で穴蔵に隠れようとするその姿に
どこか自分を重ね合わせ、つい毎日その様子を見たいと思うようになりました。
命を尊ぶというよりも、今私の目の前に、生きて一緒に居てくれるもの。
私にイキイキとした姿を見せてくれる雀、燕などの鳥も、家に住み着く小さな虫達も(蚊は別として)
みな心通わす大切な友達のように思えてきました。
そして、蘭のお花も便利で綺麗かもしれないけれど、少し街を歩けば見られる今だけの季節に咲く花、
紫陽花や立葵、ひまわりの花の堂々と生きる姿に心癒される時間が、この1か月の私を支えてくれていたのだと思えました。
「今の自分の命」を感じさせてくれるもの。
それが美というものの本質ではないだろうか。
ふとそんなことを考え始めたのでした。
つづく
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