上記の一冊の本から、金山に関する言葉をいくつか抜粋し掲載させていただきます。
「妻 らく」
らくは専攻の数学の他に、本多光太郞博士の講義を受け、又平三の友人画家田邊至の兄の哲学者田邊元博士に「科学概論」を学んだりしている。田邊はらくの才を高く評価し、「貴女は哲学を専攻すればよかったのに」と残念がったという。
らくは言う。哲学は理科や文化にも関係が深い。代数などは数式で解けるが、幾何学となると哲学的な部面が非常に加わってくる。そのために数学者といえど哲学をおろそかには出来ない。又数学は絶対ごまかしがきかない。嘘が入っては数学が成り立たない。
このごまかしのない点が数学の美である。金山の絵は、どこにもごまかしがなかった。省略はあっても真実を捕らえていた。「数学の好きな作家の絵はまとまりがよい」と平三も言っていたが、そこに絵画と数学と一致するところがあるのである。
思うに幸福だった最晩年は別として、帝展騒動後の画業生活の大部分は、孤独に堪えるおのれ自身との酷しい対決の連続であった。
生来人一倍感受性が強く鋭い金山平三は、この孤独な己れとの戦いに幾度か屈伏しようとする危機があった。「自殺する」「自殺したい」としばしば口走っては人を驚かせ嘆かせている。世間に絶望したのでなく、自分自身に絶望しかけたのである。こうした金山平三を背後から力強く支え励まして、その資質を遺憾なく発揮結実せしめたものが、主人の「こやし」になると決心した婦人の献身であった。これについて金山平三は晩年私に語ったことがある。「家内は、本当は絵のことはよく分からないと思います。ただ私に描きやすいように心を配り、出来た絵は私の作品だというだけで大切にしてくれます。有難いことだと思っています。」
「平三の描きぶり」
「大石田へ来て本格的に絵を描き始めた」斎藤茂吉の絵を、平三はどうみていたか。
〈斉藤さんの絵は、デッサンが実にこくめいで真面目すぎるほどで、中川一政さんも、これは真面目すぎる、もっと気楽にやりなさいと言われましたが、あそこに斉藤さんの性格が表れているのでせうね。〉
かつて平三の写生ぶりを見て、「やはり大家は違う。実に丹念に観察し、省略すべきものはドシドシ省略する。いや驚くより外ない。」と較べて興味深い。実相観入、自然自己一元の生を写す、という「短歌写生の説」の茂吉も、絵の上では所詮素人で、専門家には舌を巻かざるを得なかった。
若い頃に体を鍛えられただけあって雪の中での仕事の頑張り方は到底我々に真似が出来なかった。日が沈むと急に冷たさが身にしみてくるが、先生は納得のいくまでいつまでも描き続けておられた。「金山の剣術」と言われていた独特の方法で、無心に仕事を続けられるお姿を遠くに拝見して、一種の神々しさを覚えたものである。「金山の剣術」とは、前方の景色や画面の調子を見る場合、筆をもった右手の中指と薬指と小指を開き、それを縦にしたり、横にしたり或いは前方に突き出したり顔に近づけたりする一種独特の目まぐるしいポーズをされるのを友人画家の諸氏が名付けていたのであった。(松村菊麿)
「金山平三の評価」
世間には、金山平三を単なる風景画家と思っている人が案外多いのではなかろうか。中略
金山の作品には、平明淡々として技巧を感じさせない美しさのものが多いため、真の鑑賞眼を持たない人々から、時にそうした誤解を受けやすい点も否めない。しかしわれわれは、一見平淡で目立たぬ技法の中に、鋭く厳しい自然観照の底知れぬ深さ、饒舌を拒否し主観の露出を抑制し、枝葉末節を惜しみなく切り捨てて、自然の内奥深く参入した本質把握の美事さ、斎藤茂吉のいう自然自己一元の生を写すところの真の風景画であることを改めて認識し直さなくてはならないのではなかろうか。
純粋生一本の性格とその生き方は、画業は言うまでもなく、余技や趣味の方面でも全て本格正統を尊び、似非、虚偽をいやしんだ。
心血を注いだ作品を愛憎し、手放すことを惜しんだのは、一人密かに自ら頼むところがあったからである。目まぐるしく変転してやまない画壇などに重きを置かなかった。五年、十年の流行に左右されるものは本物とは言えない、という確固たる信念のもと、知己を百年ののちに待つべく決意していた。若くしてその師黒田清輝の熱愛と嘱望を受け、専門作家となっては先輩藤島武二らに心から畏敬された金山平三の、赤裸々な人間性とその作の真価を熟知するのは、既述のように久しく親灸した画家たちであった。
最後の入院の時、見舞いに行った佐竹徳に苦しい呼吸の中から聞いたそうである。
「佐竹君。僕の作品の中には泰西諸大家のものにも負けないだけのものがあると思っているが、君はどう思う。本当のことを言ってくれ」誠実な作家として、最も信頼を寄せていた佐竹徳に初めて自信のほどを打ち明けたのであった。
「勿論です先生。たくさんありますよ。」この言葉に何度もうなずきながら、嬉しそうに涙を伝わせたという。
以上