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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





山手十番館
神奈川県横浜市中区山手町247
2013(平成21)年4月18日

山手本町通り沿いの外国人墓地の向かい側にあるレストラン。明治百年を記念して、1967(昭和42)年に横浜市中区常盤町の老舗カツレツ店「勝烈庵」(昭和2年創業)の10番目の店として建てられた。今は株式会社十番館として独立しているという。
時計をはめ込んだ塔屋とバルコニーが特徴の明治の洋館風の建物。かつて山手地区にあっただろう明治期の洋館を復元しようという試みだが、なかなかいい佇まいだと思う。建てられてから50年になり、すっかり定着した感じだ。
『首都圏 名建築に逢う』(東京新聞編集局 編・著、東京新聞出版局、2008年、1429円)によると、木造2階建で、館の周囲を囲む塀のレンガは旧陸軍火薬庫の古レンガが使われた。時計台は1972に増築したもので、1時間ごとに童謡「赤い靴」のメロディーが流れるという。

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山手111番館。神奈川県横浜市中区山手町(やまてちょう)111。2013(平成21)年4月18日

港の見える丘公園の南の端にあるスパニッシュスタイルの洋館。1926(大正15)年にアメリカ人両替商ラフィン(J. E. Laffin)の住宅として建てられた。設計したのはJ. H.モーガン。施工者は不明。地下室がRC造でその上に木造2階建てを乗せている。白い壁と赤い屋根、三連アーチのパーゴラと、南仏やイタリアをイメージしてしまう明るさに満ちている。
『ウィキィペディア』にはラフィンについて、「乗船していた船に修理の必要が生じ、予定に無かった横浜に立ち寄ることとなった。修理を待つ間箱根に出かけたラフィンは、そこで出会ったミヨと大恋愛の末結婚し、横浜で暮らす。ラフィン夫妻は8人の子供に恵まれ、この家は結婚する長男のために1926年に建てられたものである。」と記されている。
1996(平成8)年に横浜市が取得し、1999年に一般公開された。




建物の裏手、バラ園の方からだと3階建てに見えるが地下室が地上にあらわれているため。

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横浜市イギリス館
神奈川県横浜市中区山手町(やまてちょう)115
左:2013(平成21)年4月18日
右:1993(平成5)年5月5日

1937(昭和12年)にイギリス総領事公邸として建てられた。設計は「上海の大英工部総署」(緑の協会>横浜市イギリス館)。ウィキペディアでは設計は「イギリス政府工務局上海事務所」で、「東アジアにおけるイギリスの在外公館の営繕を所管しており、1931年に日本大通に開設されたイギリス総領事館(現 横浜開港記念館旧館)や東京の駐日英国大使館、山口県の旧下関英国領事館、北海道の函館市旧イギリス領事館なども設計している」としている。施工者は不明。RC造2階建地下1階。

「領事」とは、ウィキペディアでは「大使及び大使館の外交官は自国を代表して派遣され、政府間の外交交渉や条約の署名調印等を行うのに対して、領事は主に自国民及び自国企業への行政事務・手続、相手国国民等に対するサービスの提供(査証の発給、各種情報提供、文化交流など)が主な業務とされる。もちろん、大使館にも領事部があり、領事館と同様の業務も行っている」とある。中区日本大通の横浜開港資料館になっている建物がイギリス総領事館だった。そちらは1931(昭和11)年10月の竣工。


横浜市イギリス館。2013(平成21)年4月18日

『かながわの近代建築』(河合正一著、かもめ文庫(神奈川合同出版)、昭和58年、630円)には、「戦後、客船が減り、横浜における渡船申請受理等の領事業務が減少したことなどから領事館は昭和47年閉鎖、領事館邸もその前から使われなくなっていた。昭和44年に横浜市がこれを買い取り、整備して公園〈港の見える丘公園〉の一部に取り入れた」とある。

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本富士(もとふじ)警察署。文京区本郷7-1。1988(昭和63)年1月30日

春日通りの本郷3丁目交差点から東へ行った本富士警察署前交差点角にある本富士署の旧庁舎。写真右手の横町を入ると東大附属病院へ行くのによく利用される東大の龍岡門がある。
写真の建物は1968(昭和43)年3月に建った庁舎で、現在のものは1993(平成5)年10月の竣工(本富士警察署)。25年しか使われなかったわけだが、建築費は安上がりのような外観なので、元は取れているのだろう。旧町名が本富士町で、龍岡門も旧町名の龍岡町にちなむ。1965年に現在の町名に替わった。
写真右のビルは「関電工」の本社ビルだが、1988年に本社を芝浦に移転している。現在はビルの春日通り側の部分が取り壊されて駐車場になっている。その奥のビルは残っているが使われているかどうか不明。関電工は1960年に赤坂からこの地に移転してきたようだが、それ以前はここに区役所の「本郷支所」があったようだ。元々は本郷区役所があった場所だ。
本富士署の後ろの建物は区立第四中学校。1998(平成10)年に第二中と統合して本郷台中学校(場所は本郷2丁目の旧第二中)になった。

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左:本郷ビル、文京区本郷3-33。右:韓僑会館、本郷3-32。1988(昭和63)年10月16日

本郷通りの本郷3丁目交差点の南。本郷ビルも韓僑会館も昭和22年の航空写真に写っているビルだろう。本郷ビルはネットの不動産広告にあるが、建築年は書いてない。5階建てとしていて屋上の小屋まで階数に数えている。1986年の住宅地図では「本郷ビル(石田ビル)」で、持ち主が替わったのかビルの名称が替わっている。
韓僑会館の右の袖看板は「在日本大韓民国居留民団東京本部」。ウィキペディアによると、この「人格なき社団」(法人格を有しない社団)は1946年10月3日に「在日本朝鮮居留民団」として発足、1994年4月には「在日本大韓民国民団」としている。東京本部はそのHPに「1947年2月28日に文京区内において「在日朝鮮居留民団東京本部」結成大会を開催し、今日の民団東京本部がスタートした」とある。現在は中央本部(港区南麻布1)に同居しているらしい。韓僑会館のビルは現在は建て替わって「東京ビル」(1994年12月築、8階建)というオフィスビルになっている。

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本郷中央教会。文京区本郷3-37。1988(昭和63)年1月31日

春日通りの本郷3丁目交差点から東へ少し行ったところにあるゴシック様式の教会。1階は「中央会堂幼稚園」で、2・3階が礼拝堂、5階建ての鐘楼が付く。
『日本近代建築総覧』では「本郷中央教会、建築年=昭和4〈1929〉年、構造=RC5階建て〈本体は3階建、塔屋が5階建〉、設計=ボーゲル、施工=辻組」。『総覧』より2年後の出版になる『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)では「設計=フランス人、施工=不詳」。『日本基督教団本郷中央教会』の「教会の歴史」によると、「米国人宣教師ボーゲルの設計」。『レトロな建物を訪ねて>日本基督教団 本郷中央教会』では「元ヴォーリズ建築事務所のヴォーゲルが川崎忍(カリフォルニア大学出身、立教女学院の寄宿舎などの作品がある)と共同設計」。おそらく『 文化庁国指定文化財等データベース』の「日本基督教団本郷中央教会」にある「設計は川崎忍、原案はヴォーゲルとされる。施工は辻組」というのが信用できそうだ。
駿河台にある東京YWCAの旧建物(1929年)が「設計=ヴォ―ゲル、施工=辻組」なので、YWCAあるいはエマ・カフマン女史が本郷中央教会となにか関連があったのかもしれない。

現在は写真右の東京新聞本郷専売所とその右の駐車場が「東京ビューティーアート専門学校」になっている。平成12年の設立。写真右の駐車場は「いわしや高橋安太郎商店」(店舗は駐車場の奥)、その右(写っていない)は「半田屋商店」(現本郷春木町ビル/株式会社はんだや)で、共にこの辺りに多い医療機器の製造・販売の店である。

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溝田経理事務所。文京区本郷3-38。1988(昭和63)年1月30日

春日通りのさかえビルの隣は、現在「なかじま」という眼鏡店だが、建物はさかえビルの増築部分ではないかと思う。その隣はコインパークになっているが、そこに割と最近まであったのが写真の溝田経理事務所。2012年前後に取り壊されたようだ。正面を垂直・水平の線でちょっとデザインを施したファサードの事務所で、後ろはモルタル壁の木造アパートの造り。
どこが発信源だか判らないがネット上で「昭和10年創業」という記述を見た。元の建物が空襲で焼失し、戦後同じ地に再建したのかもしれない。2か所の看板は、最初からその文字を入れるために建物をデザインしたように見える。



溝田経理事務所後ろのアパート。1988(昭和63)年1月30日

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さかえビル。文京区本郷3-38。1986(昭和61)年5月

春日通りの本郷消防署前交差点角にある、今は1階にコンビニが入るビル。『日本近代建築総覧』では「さかえビル(旧近藤栄一邸)、建築年=昭和9(1934)年、構造=RC4〈地下1階〉、設計=外国人、施工=不明、外壁タイル張」。『 文化庁国指定文化財等データベース』の「さかえビル」の解説文には「薬学博士を施主とする薬学研究所を兼ねた事務所ビル。角地に建ち、隅切りの面に正面性をもたせたファサード構成をとる。スクラッチタイル貼りで、要所にテラコッタの装飾を配したアール・デコ建築の佳品となっている。」とある。
『出会いたい東京の名建築』(三舩泰道著、新人物往来社、2007年、2000円)によれば、「建築主は薬学博士(近藤栄一の名前は書いていない)で、ベルリンに滞在していたこともあった。帰国後この建物を建てる。」「もともとは住居として建てられたが、後に薬学研究所を兼ねた事務所ビルとして使用した。さかえビルという名称は建設当初から。」とある。


2007(平成19)年10月24日

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和光(旧服部時計店)。中央区銀座4-5。1986(昭和63)年12月30日

『日本近代建築総覧』では「和光K.K.(旧服部時計店)、建築年=昭和7年〈6月〉、構造=SRC7階建〈地下2階〉、設計=渡辺仁、施工=清水組」。
関東大震災が起こったとき、服部時計店では建て替えのため旧店舗を解体し、新築工事にかかったところだった。建物の被害はなかったのだから運がいいと言っていい。そのまま工事を続ければ大正時代のうちに竣工していただろう。帝都復興事業の道路整備は銀座地区においては晴海通りと外堀通りの拡張が主なものだった。下町の他地域と比べるとわりと小規模で済んだのだが、晴海通りでは北側が削られた。道幅が倍になったが、服部時計店のビルもその分だけずらすことになり、設計からやり直した。完成が昭和7年と遅れた理由である。『銀座 街の物語』(三枝進ほか著、河出書房新社、2006年、1600円)の年表では「1928(昭和3年)―現・晴海通り拡張工事開始。同年7月―数寄屋橋開橋式。1930(昭和5)年3月―銀座の町名変更(銀座八町誕生)。1930(昭和6)4月―三越開店。同年6月―区画整理が完成、地価が上がる。1932(昭和7)年6月―服部時計店落成。1934(昭和9)年3月―地下鉄京橋-銀座開通(前年1月着工)(6月銀座-新橋開通)」という具合である。
『震災復興〈大銀座〉の街並みから―清水組写真資料』(銀座文化史学会編、平成7年刊、1942円)では「設計=渡辺仁建築工務所(意匠)建築構造研究所(構造)、昭和5年6月11日着工同7年6月3日竣工」。同書には服部時計店の創業者服部金太郎と渡辺仁の関連が述べられている。服部は龍居頼三という人と親しかった。銀座人同士という関係にあったようだ。龍居は明治の政治家伊藤巳代治の秘書かなにかだったらしい。龍居の長男松之助は日本庭園史の権威になった人というが、渡辺仁は学習院高等科・東京帝国大学を通して松之助とは無二の親友。龍居頼三も渡辺の才能を知っていたので服部からビルの設計者について相談されると、即座に渡辺を推薦したという。道路整備と渡辺の腕がなければ銀座の象徴であるビルは今に残らなかったと思う。


和光。1986(昭和63)年8月24日

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