木村武雄
昭和11年1月10日入隊 当時21歳
歩一第11中隊 小銃班
島崎豊照
昭和11年1月10日入隊 当時21歳
歩一第11中隊 軽機班
二・二六事件に参加させられた初年兵の多くは、入隊して約一か月半、
まだ兵器の扱いも満足でない状態であった。
そのうちのお二人に、当時の状況を語っていただきました。
一種の悪夢に襲われた気持ちです、
と 三十五年を前を思い出し、感慨深げに語ってくれました。
不審のまま営門を出発
事件の前日は どんな空気でしたか
島崎 前日夜あたり、あすの朝非常呼集があるという 噂は、二年兵あたりは感じていたようでした。
今思い出せば 何か雰囲気のようなものがありましたね、
ですから土曜日でも下士官・将校の外泊を禁止してしまったという状態でした。
これは後でわかったんですが、
初年兵の教官の秋笹少尉・・・幹候あがりで新婚早々で子供さんが生まれたばかりでしたが・・・
秋笹さんだけは外泊が許されたんです。
うちの中隊の将校で参加しないのは秋笹さんだけです。
前夜の空気は、何か非常呼集がある、
へをすると このまま満洲持って行かれちゃうんじゃないかなど言っていましたよ。
島崎 僕の記憶では営門を出たのは四時です。
首相官邸方面に行ったのはシニジラ夜明ですから、歩一からあそこまでは一時間かからないでしょう。
島崎さんの方も首相官邸ですか
島崎 でなくて、行ったのは参謀本部です。
お二人は丹生部隊で一緒ですか
木村 一緒です。だが 軽機班と小銃班で、部署がちがうね。あの時は班編成だったからね。
島崎 僕は軽機班で第六班、班長は前田軍曹。
はじめは演習ですか
島崎 演習です。溜池から首相官邸へ行く坂を上がって行った。
あの時 出たのは機関銃が三個中隊の他、僕等の十一中隊しか参加していないんです、歩一では。
丹生隊は二百七十名ぐらいでしょう 軽機の数が非常に少ないですね
木村 二百七十名いないでしょう。完全編成で百八十名だから。
島崎 初年兵が百八名でしたか。そのほかに練兵休とか、衛兵に行ったものがいるでしょう。
軽機は持って出たのは四挺ぐらいだったかも知れません。
丹生隊は実包一万発ぐらい持って出たというが、小銃の方ですね。小銃が百五十挺
島崎 弾は同じなんです。小銃も軽機も同じで、小銃手が前と後ろに百二十発持っていても、
後の六十発は軽機にまわる率が多いんですね、戦地では。
木村 二装軍装でしょう。途中、これはと思ったね。実包六十発持たされたんで。
ただごとでない中隊長の訓示
弾を持たされたということによっておかしいと・・・・
島崎 ええ、そうなんです。ちょっとおかしい感じが。
木村 そこで出発する前に丹生中尉が訓示したでしょう。
「 お前達の言うことを聞かないものは撃ってよろしい、突いてよろしい 」 というから、これはただごとではない。
それはどこでですか
木村 出発前、中隊前に整列した時です。
島崎 軽機に関してはそれはなかった。弾込めをしてはいけないという命令でした。
小銃の方は完全にそこでわかったわけですね
木村 結局、これはよほど内乱かなんかで、軍、われわれ自身が反乱を起こすというのでなく、
何か反乱を起こしたのをやっつけに行くんだな、位の気持で行ったのです。
特に訓示もないわけですね。あとで憲兵に出合った時 初めてわかるという・・・
木村 いや、それでも目がさめないんですよ、まだ。
島崎 わからなかったね。おかしいということはウスウス。
政治の中枢へ行って、中隊長が拳銃を撃って速駈けで行った先が参謀本部でしょう。
聯隊を出て、どう行かれたんですか
島崎 歩一を出て直ぐ裏通りへはいって溜池へ出て電車通りから首相官邸の方へ上がった。
ところが、あそこを上がって行ったら 機関銃隊が先に来て居て、首相官邸の坂を上がって、
両側に首相官邸へ向けて機関銃を据えちゃったんですよ。
そしたら、十一中隊前進と言って参謀本部へ行ったんです。
ドイツ大使館前に交番がありまして、そこへ行った時、機関銃を撃ち始めまして、
ダダダダダダという音が実包なんですよ。
空包と実包とは音がちがいますからね。
そしたら丹生さんが拳銃を三発か四発 空似向けて撃ちましたね。
それは何ですか
島崎 それはみんなの注意をそらしたんでしょうね。
それで前を向いたとたんに速駈けという命令で、ドイツ大使館のところからハウスにはいって参謀本部へ行ったわけですよ。
木村 結局、われわれはここで交通遮断した。着くと同時に九段の憲兵が上って来たんですよ。
われわれが着剱で行くと坂を上がって来るのとぶつかったわけですよ。
それで 「 お前ら待て 」
というと 「 貴様ら何だ 」 と言いながら、憲兵曹長が来る。
こっちは星一つですから 「 はい、演習でありますが、だめです 」
というと 「 ふざけるな 」 というわけです。
そしたらウチの高橋軍曹が追っかけて来て、
「 木村、絶対通しちゃだめだ。撃て、通ったら撃て 」
というわけなんです。
そこで憲兵は驚いて引いてくれたんです。
無理に通ったら一発二発 撃ったかも知れません。
私もホッとしました。
憲兵を追っ払って、その後は
木村 その後、今度は六尺棒を持った新撰組ですね。
トラックに乗り込んで押しかけて来たのです。
これは一言で帰りました。
二十六日はそこで釘づけですか
島崎 二十六日は、そこで釘づけではなくて、お昼はそこでたべましたが・・・
木村 いや、一晩明かした。そしてあくる日 議事堂へ行った。
島崎 議事堂へ行ったのはその晩なんだよ。なにしろ寒いんでね。
フジゾウガンの門の下では寒いんで、隼町の角の青年団の幹事長をしている島津マサノブという人に、
寒くてしょうがないから青年団のテントを貸してくれと頼んで、それで永田青年団という天幕を張ったんですよ。
そのとき島崎が来たといううんで地元の青年団の人達がめずらしがって面会に来てくれたんですがね。
面会に来たのは何時頃ですか
島崎 お昼前から来て居ました。朝からなんですよ。
それでは、街の人達やお家の方にばれちゃいますね
島崎 そうなんですよ。すぐ六丁目で八百屋をしているウチに通知がいったんですよ。
新議事堂へ移ったのは、二十七日の未明になって居ますが
島崎 二十七日の未明になって居ますか。あそこで焚火をしたんですから、僕の記憶では二十六日の夕方と思う。
二十六日の夕方から二十七日にかけて移動したんでしょう。
木村 それは間違えて居る。あそこに小林という歩兵操典などを刷っていた印刷屋があるでしょう。
あそこで酒を貰って飲んで、そこで一晩中交替に衛兵で三宅坂に立っていました。
残った者と行った者とがあるんでしょう
島崎 ああ、そうかも知れません。ウチの軽機分隊は中へはいって焚火をしましてね。
あくる日 夜が明けてから山王ホテルへ。
木村 二十六日に来て、一日中歩哨に立って居ましたよ。
その晩、その衛兵常呂、小林の所で酒を飲んだりして、そのあくる日の昼間、
二十七日、エビフライなどの折りを貰ってたべながら新議事堂へ行った覚えがあります。
二十六日から二十七日までの状況
二十六日の夕方から二十七日の朝にかけて、新議事堂へ移って、
二十七日の夕方、山王ホテルと幸楽に別れるわけですよね
木村 二十七日の夕方山王ホテルへ行ったんです。直接。
議事堂には寄らなかったのですか
木村 寄りました。ほんとはあそこに立てこもるわけだった。
あの議事堂は未だできて居なかった。中にはいったのをおぼえて居ます。
紙を敷いたまま、ザアザア音がしましてね。
それで山王ホテルに行きました。
島崎さんの方は、早く行って何をして居ましたか。
島崎 焚火して、何ということはないんですね、全部終結して、ここへこもるんだ。
全部が議事堂へ立てこもるような話は流れて居ましたね。
それは、北一輝が電話をかけて来て そこへ集れと、そこで磯部が行けと電話をかけて・・・
島崎 それはわかりませんね。二十六日のお昼は聯隊から炊出しだった。
その炊出しもバケツで来たもんですから、農林大臣官舎裏の村田さんという運転手の家から
茶碗や箸を借りて、そのまま返さず、借りができているんですがね。
木村 聯隊から外套が来たのは、二十六日の夕方だね。
全体的な情況から言いますと、二十六日は未だ 反乱軍ではないですね。
まだ、調子がよかった。
木村 よかった。それが二十八日までは何でもないんですよ。
島崎 いやいや、そうではないんです。
二百七十名にはまわりの状況から、特に二年兵がおかしいと言い出したんです。
何か自分らのやって居ることが反乱的だというような。
いわゆる陸軍大臣告示が出たのは、二十六日の午後の時なんですね。
島崎 知りません。ただおかしいと思ったのは天幕を借りたり、皆面会に来たんですが、
お昼過ぎになったら誰も来なくなっちゃった。
高橋蔵相が殺されたとか、そういうニュースは はいりませんでしたか
島村・木村 はいりません。最後まで知らなかった。
島崎 ウチの中隊は一発も撃って居ないんですよ。
何があっても、反乱軍と言われてもピンと来ないんですよ最後まで、
二年兵なんか日曜を棒に戻って外出もふっとばしちゃったなんて文句を言い出したんですよ。
そしたら分隊長が中隊回報を出し、たしか二十六日の夕方だったと思いますが、
「 今、日本では騒じょうが起きた。それでわれわれ戒厳部隊は軍の中枢を警備して居る 」
と 言うんですよ。
だから 「 この戒厳が終わると、少なくともお前たちは日曜をつぶしたんだから外泊ぐらい出来る 」
と。
うまくすると勲章もんだということが二年兵あたりから流れて来ましたね。
・
奉勅命令と山王ホテル
山王ホテルでの状況はどうでしたか
木村 奉勅命令を持って来た。あれは閑院宮の代理かも知れないな。だからニセ者だ。
帰せというわけなんですよ。将官クラスの人でしたよ。
その人は読み上げたでしょ
木村 お前たち よく聞け と。
集めたんですか
木村 通さないので歩哨だけで 他は出て来ないんですよ。
通さないからそこで言ったんです。その時、自分と小泉が歩哨に立って居たんです。
なんじ頃ですか
木村 夜ですよ。七時から八時頃です。
二十七日ですか
木村 二十七日です。二十八日かな。
島崎 二十七日のウス暗くなってからねえ。聯隊長でしょう。 聯隊長が来たんだ。
木村 二十八日でしょう。
島崎 小藤さんが、「 お前たち 帰りたいものは帰れ、何も言わないから、帰りたいものは 俺についてこい 」
それでそのわきに香田さんが。
木村 副官が来て居るわけだ。
島崎 丹生さんと香田さんが軍刀をこうやって、へたなことを言うと たたっ斬るという態勢だったね。
小藤さんが 「 帰りたいものは帰れ 」 というと、
丹生さんが 「 お前らはおれと一緒に死んでくれ 」 と言ったんですよ。
そうしたら一斉に天皇陛下万歳ですよ。
それはどこからですか
島崎 死んでくれと言ったとたんに、誰が言い出したかわからないが、天皇陛下万歳 。
木村 あれはウチの高橋さんだな。
小藤さんはすぐ還られたのですか
島崎 そのまま帰っちゃった。
そうすると誰も行かない
島崎 行かない。あの時、小藤さんが いきさつを説明すれば殺されたかも知れません。
香田さんは、変なことを言えば、バッサリやっちったんじゃないですか。
木村 「 聯隊長命令だから復帰しろ 」 と 強い指示だったら或は帰ったかも知れない。
結局、中隊長一人を死なせない。私らも切腹するというわけで。
島崎 思い残すことがあったら遺言状を書けということで、僕も三通書きましたね。
小藤さんが帰った後はどうでしたか。状況など全部わかりましたか
島崎 未だわかんなかったですね。
それから あくる日二十八日になると例の放送です。
今で言うと百ワットぐらいですかね、屋上に居るのでガンガンと聞えるんですよ。
調書では聞かないことになって居ますが。
「 お前らは原隊へ帰れ 」 など放送を聞いてどうでしたか
島崎 それを聞いて動きはじめたわけです。 そうしたら中隊長がもう一回集合をかけましてね。
「 お前らは心配することはない。今、日本は大騒じょうが起きておる。
われわれは国の中枢部を警備して居る 」 というのです。
五七や四九の連中がまわりをとりかこんで居るんですが、連中は反乱軍だと言うんです。
「 だからわれわれの友軍は続々と上京中であるから、もえしばらくがんばれ。
こちらは戒厳部隊で連中は反乱軍だ 」 とね。
戒厳部隊の反乱工作
二十九日になって、ラジオ放送、ビラ、アドバルンとかで、どうなりましたか。
木村 歩哨だけは頑張って居たが、中はメチャクチャだった。酒を飲んじまってね。
各班毎に情報を交換するとか、話し合いをするとか
木村 それは全然ない。余裕はないし、内緒話はできないし、軍隊はそういうところ はないんだ。
島崎 小藤さんが帰った後で、あれは反乱軍だわれわれは戒厳部隊という誇りがありました。
歩哨が拾って来たビラ、スピーカーの放送など みんな反乱軍のデマだと言うわけです。
二十九日の午前中には かなり強力にやったので、部隊にかなりの動揺が見られたということを聞きますが
島崎 二十九日の午前中、丹生さんは部下がかわいそうだというので、一旦 帰順し、山王ホテルを引き上げました。
これから聯隊へ帰ると言って溜池の通りを幸楽の手前まで来ると、香田さんがとんで来て、
「 丹生、おれの命令が聞かれないのか 」 と 言った。
そうしたら丹生さんは何も言わず 回れ右です。 ・・・リンク→一兵卒の昭和維新 昭和維新は失敗におわった
それから 「 配置についてここを死守するから、危ないものは全部こわせ、
最後には手向かえるものは何でも手許に置け 」
と 言うので、山王ホテルのガラスを全部こわし、割ったガラスや落せるものは屋上や窓際の高い所に置きました。
外には二十台ぐらいの小型戦車が、はじめ着けていた 「 射撃せず 」 という旗を取っちゃって
ホテルを囲みました。
近歩三の屋上は、ホテルの屋上と同じ高さですが、ここに速射砲・機関銃をホテルへ向けて据付、
土嚢を積んで居るのが見えましたね、私はもうだめだと思いましたね。
そして最後に中隊は舎前集合という命令が出まして、叉銃。
それから叉銃の外へ出ろと言って中隊長が
「 お前たちには申し訳なかった。われわれ一部の錯誤からこういう結果になったけれど、
もし 心ある者は われわれの意志を継いでくれ 」 と。
僕はそこで丹生さんに腹を切ってもらいたかったね。
木村 香田さんが首をかき切ろうとしたね。 それを丹生さんが止めた。
私は丹生さんにそれをやってもらいたかった。
島崎 それは神谷は引率、原隊に復帰しろ。 僕らは帯剱だけ、神谷さんは軍刀をつけて居た。
全体の状況はわからなかったんですか
島崎 それは最後までわからなかった。
磯部などという人は
島崎 僕らは知らなかったですね。
捕虜になって向うに着いたら、中隊の前に有刺鉄線でバリケードが張ってあって その中に整列させられ、
そこへ大隊長が来て 「 お前らはとんでもないことをしてくれた 」 と 言った。
そして中隊にはいり帯剱集め、糸・針・木銃まで全部引き上げられてしまいました。
木村 それから後は食っちゃ寝、食っちゃ寝 ですね。
島崎 便所へは着剱の兵がついて来る、開けておけとは言わないが長くなるとトントンとやられる、
飯はよその兵隊が持って来るという状態が三日ぐらい。
それから近歩四に配置になって、一人一人憲兵に調べられた。
憲兵の取調べ状況
どういうことを聞くんですか
島崎 その行動、奉勅命令を聞いたか、などです。
ところが近歩四へ行く前に、全部かん口令が布かれましてね。
放送もビラも知らない、奉勅命令も知らないと言うように。
調べの時間はどのくらいですか
島崎 十分か十五分でしょうね。 近歩四では、お前らは重謹慎だ、しゃべっちゃいかんと言われた。
わらぶとんは寝台からおろして、ふんどしも手拭いも半分に切られ、飯は向うの兵隊がつける。
食べ終って片付けようとすると坐れと言う、夜があけるし舎外に水が汲んであって、顔を洗えという。
ホントに重謹慎です。
それで何もわからないが、高崎という先任上等兵が近歩四の第一中隊長の青島大尉に呼ばれたんです。
中隊長室でそこへ坐れと言われたわきに第一回の号外が措いてある。
高崎さんはそれをガメて来ましたが何も言われないうちに帰ってよいという。
わざと拾わせたんでしょう。
それで号外だというんで見たら、首相・蔵相がやられた、最後の反乱軍が山王ホテルで帰順したと書いてある。
その時はじめてわかったんですよ。
木村さんの方はどうですか
木村 一週間か十日ぐらい後で秋笹少尉が教えてくれました。
島崎 青島大尉は、お前らは命令でやったんだから心配するなと言ってくれました。
それからは調べられなかったのですか
木村 近歩四に一週間ぐらい居て、帰ってから大隊長に十五分ぐらい調べられました。
島崎 三月に給料をもらう時、
「 お前らの給料は無いぞ。三日間は勅命に反してやったんだから、後の十日間は重謹慎、二十日間は軽謹慎 」
木村 給料は十日、十日ですが、十日分は一円八十五銭の半分で、九十五銭。
渡満は何日ですか
木村 五月十日
四月中は何をして居ましたか
木村 元の中隊で演習、演習で、ゆっくり話すひまなどなかった。
丹生中尉と事件の感想
中隊長の丹生という人はどういう人ですか
島崎 感じのいい人で人気もあった。 この人なら ついていける。
毎週一回精神訓話がありましたが 相沢事件・十月事件のことなど話してくれました。
軍人勅諭五カ条を順に訓話をしていって最後の信義については、
特に強調したかったのか、よく考えて置けと宿題にしたままあの事件になりました。
木村 後で中隊長で来た西大尉が、丹生はかわいそうな男だ。引くに引けず はまり込んじゃったと言って居ました。
あれから三十五年になりますが、ふりかえってご感想は如何ですか
島崎 当時のことは悪い印象しか残って居ません。
後に警視庁に二十四年勤めて居ましたが、一度も話に出したことはありません。
あの時、一発も撃たなかったことは ほんとうによかったですね。
まだ、当時の将校が生きて居るような気がするんですね。
その後、丹生さんの奥さんが世帯をたたんで いそいそと満洲へ行った。
丹生さんが特務機関なんかに居る などという噂が流れましたよ。
助かって欲しいという気持ちからでしょうか。
木村 私もそう思いましたね。
長い間どうもありがとうございました。
昭和46年5月26日 小学館
二・二六事件月報 No 2
座談会
真相知らずに参加・帰順
から
リンク→丹生隊(第十一中隊)の最期