あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

戰雲を麾く 4 「 私は泣いて馬謖を斬るより外ないと思ひます 」

2017年03月23日 04時09分32秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


魂の戦闘へ !! 戰ひの巷へ !!

聖戰の途に上る
御學友たるの期待は俄然裏切られた。
入校式の前日たる八月卅一日に至りて、突如変更せられ、
余は殿下を第三中隊に拝しつゝ 第一中隊生徒舎に起居することになつた。
今も尚當時の眞相不明である。
殿下區隊には余の姓名を誌せる机ありと、
入校當初同中隊の生徒達から屢々しばしば耳にしたが、
余は早くも彼の一縷いちるの望みを絶つて、曾つての如く魂の修練に心を濺いだ。

十月、校内に流行性感冒發生し、燎原の火の如く擴がつた。
寝室は病室と化した。
健康者は病者と隔離して、區隊毎に一室に雑居することになり、
學課術科共に出席少數の故に屢々となり、余等は暇ある毎に寝室に集つては縦談横語した。
余はつとした動機より、當時流行の大本教の解剖をなした。
そして世界の改造、日本の改革を、余の所見を加へて説いた。
蓋し 當時余は帰省の度に故郷の在郷將校より入信を勧められ、
自身も亦多少書に就きて研究もして居たのである。
加るに、余一流の鞏弁を以て國家内外の紛糾多難を説き 余が心願たる國家改造を論じ、
然して余が究竟の志願たる亜細亜大陸への進展を叫んだのだ。
げにそは 時宛も米騒動の直後であり、天災---全國に亙れる暴風雨の惨害、
勞働者の暴動に等しき罷工怠業等を眼のあたりに見、
思想界の紛糾混沌は左右兩派の衝突、滔蕩とうとう文弱の毒潮淫々として横流せる、
一々心に応へるもののみであつた。
一道が思はず釣り込まれて居たのである。

天道縁に隨つて可なり---數夕の談論中に余は福永を識つた。
爾來二人は世を慨き 國を憂ふる友となつた。
二人は至極の心願を大陸に寄せた。
げに楊柳青く垂るる江河の岸に馬に飲ふ馬賊を思ひ、
広漠涯なかるべき満蒙の大原野に報國一片の赤心ら鞭つ暗中飛躍の志士に思ひを寄せては、
二人坐臥に堪へぬものあつたのである。
余は 「 馬賊の唄 」 を作つた。
「 日東男児蒙古行 」 を作つた。
又 「 日本改造の概歌 」 を作つた。
そして二人は高唱した。
同感の友は漸次にそれらを口吟し初めた。
一月に至つて余は愈々堪へ切れなくなつた。
げに見渡せば、國内上下を通じて欧戰後の淫蕩驕いんとうきょう恣し放縦と思想の混亂と暴風は、 
何時の間にか質實剛健なるべき市ヶ谷臺上の武學窓にも吹き初めて居た。
余は一夜
「 正義を確把はし、剛健を堅持して、
此の醜陋しゅうろうなる現狀を打破すべき魂の戰途に立たねばならぬ 」
意味の檄を草して福永に手渡した。
三日程經て、余は同行の友 五名を全校同期生中に求め得た。
然して、みずから衷なる魂の戰ひに正善を確立すると共に
外なる魂を同化すべき不屈の聖戰に上ることを誓つた。
日常、正義の勇者たる言動に背からざることを誓盟して、一同は戰途に立つた。
時々集合しては、修魂養魄の資を交換した。
休日には必ず宮城靖國神社に參拝した。
然して後、或は青山に大正乃木を弔うた。
松陰神社に維新の志士を弔うた。
牛込に山鹿素行先生の墓を訪うた。
小塚原に維新烈士の遺跡を尋ねた。
小塚原に橋本佐内先生の遺跡見当らざるに、
寺内最も整容を示せる一墓石をそれならんと脱帽しつゝ近づき、
鼠小僧次郎吉の墓なるに吃驚きつきょう相顧て苦笑禁じ得ざりしが如きこともあつた。
松陰神社の森蔭に火を焚いて、携行の米を煮たこともあつた。

大正八年六月、市ヶ谷台上に一大旋風を巻き起せしものは武斷黨の出現であつた。
同期の不良無頼分子約三十が 「 忠君愛國を信条とし云々 」 の規約の下に結束し、
其美名に隠れて放恣ほうし暴戻、校則を破り良風を傷け、其毒げに惨憺さんたんたるものがあつた。
加之、一部の生徒は俗風に逆行し得で淫蕩文弱の言動に顰蹙ひんしゅくすべきものがあつた。
かくして、臺上は將に混亂狀態に陥らんとするに至つた。
一部硬骨の人々も多く無干渉即無事的態度を取つて、
大厦かの頽くずるる一木の支ふる能はざる所となすが如く見へた。

四月二年級に上つた余は、當時對稱第一学年區隊に取締生徒として彼等と寝食を共にして居た。
武斷黨の魔手は早くも美少年の多數を有する余の取締區隊に延び、
因却して余に哀願する者あるに至つた。
加ふるに全校に散在せる同行の友は、日に日に忌いまはしき彼等の言動を秘報した。
「 事已に此処に至る。正義のために余等大劍の鞘を払ふべき秋は來たのだ。」
余は五名の友に宣戰を告げ、先づ武斷黨破壊戰に赴くことになつた。
次いで全校三ヶ中隊に於て各々區隊を以てする會合は開かれ、
中隊會は開かれ、武斷黨員に對して忠告解散を求めるに至つた。
固より余等六名がその中心なりしことは論ない。
武斷黨は憤激した。
然して其の破壊運動の主盟が余なることを知つた彼等は、
悲憤余に暴力を以て酬いんとするに至つた。
當時余の所属區隊は二十三名悉く余等の心事を理解し、同行を約して居たがため、
有志の者等は余の危険を慮つては、夜など常に側近を護つて呉れた。
この厚意余が終生忘れ得ぬ所である。
風は巴に吹いて臺上に荒んだ。
さり乍ら神人共に許さざるものは不義である。
戰ふこと前後二ヶ月、夏休暇近き七月上旬 遂に武斷黨解散の日が來た。

余は數日の後、東京駅頭の人となつた。
休暇中と雖も六名は回送通信によりて相互の聯絡を續けた。

江都の天に秋風吹き初めし十月、臺上再び亂れた。
そは武斷黨の残黨---三四の者等が再び陰に正義を破らんとし初めしこと、
及び 文弱の弊風益々烈しく 休日にカフェーを荒し 歌劇に出入し、
或は風風姿次第に淫美に奔り、甚だしきに至つては校内に於て歌劇の眞似を催し
淫猥いんわいなる歌を口吟し 美顔水を秘かに所有するものすら出現し、
意氣蕩然として地を拂ふに至りしこと等である。
然も最も硬派の心を衝撃せしは 武斷黨の中心人物たりし某が夏休暇中妓楼ぎろうに通ひ
遂に悪疾を伝染して九月帰校の日を延期せし事實が判明せしことであつた。
加之、彼は余が取締區隊の某なる美少年を短刀を以て脅迫せしこと一再でなかつた。
余は其經過を一々訴へられて承知していた。
十月下旬の或る日曜日の夜、
人々は一様に一日外出の行楽に疲れし如く自習室に三三五五休憩放談して居た。
例の如く六名は余の机辺に集合して話して居た。
皆斉しく再戰の途に上らざるを得ぬと紛糾した。
突如、同區隊の三好が余等を訪うた。
彼は余に向つて、
「 臺上再び擾みだれんとす。殊に破廉恥漢が今尚横行せることは限りなき遺憾である。
兄再び宣戰の意志なきか。余は敢然毒鼓を打たん 」
と 言うた。
彼は日蓮主義者であつた。
三好との交情は此時以來濃かになつて遂には戰線に立つべきを誓つた。
戰ひは先づ内に始まる。
區隊全部の賛同を得て、全員寝室に集り、
熱狂漢 末吉竜吉は先づ
「 校風維持のために一同の結束蹶起を要す 」
と 叫んだ。
余は止むを得ざる心事を披露し、
「 正義運動の發生地たるべき吾區隊に於ては 寸毫と雖も仮借する所あるべからず 」
と 論斷して同意を得、天に代りて誅罰することを宣言して、
二三の軟派分子を面責した。
末吉は熱狂して鐵拳を揮つた。
彼は稚気眞に愛すべき熱血児であつた。
同志ではなかつたが余は交情深き友であつた。
區隊は直ちに解散した。
余を始め福永 三好 末吉 岡田等數名は同学年の他のニケ區隊の有志と會見して、
歩を倶にして戴きたいと語り、彼等は直ちに區隊毎に粛正行動に移つた。
然も彼の一大破廉恥漢は余等の隣接區隊に績を置けるものであつた。
彼は區隊全員の忠告に耳をかす程柔順なる人間ではなかつた。
鐵拳の雨が降ったけれども、恬然として空嘯いたと云ふことであつた。
余は三好 福永と共に第一學生自習室に赴いた。
三好は室の中央に衝立つた。
「 一年生の奴等、皆俺の顔を見ろッ 」
彼は叫んだ。
「 文弱淫蕩の俗風已に臺上を犯した。質實剛健の意氣と正義と今や地に堕ちんとして居る。
淫靡なる俗歌を口吟し、休日はカフェー浅草を彷徨ほうこうして不純の氣に我れ自ら浸り、
甚しきは校内に神聖を犯して不義を行ふ者ある。
然も意氣なきが故に、破廉恥を働き不義を行ひ文弱に流るる友をさへ責善の道も尽し得ぬ。
・・・・一顧、國家の内外に思ひを馳せよ、
是くの如くんば大日本國滅亡の日 思ひの外に速く來らん。
貴様等、何故憤起せぬか。」
彼の語調は凄かつた。
余は責善の友道を盡すべきことは各區隊毎に實行するを最良の法とすることを説き、
何此卒際徹底的に粛正したいために各自の道義心に訴ふるに旨附加した。
上司に對する責任は曾つての如く余之れを負うことを聲明した。
其夜遅く、余は週番士官菊池中尉に呼び附けられて、種々談論して、了解を得た。
一週の後、中隊は、
彼の不淨漢一名を残して
一切に正義的言動を誓ひ文弱を粛正することを約して一と先づ、戰闘の幕を閉ぢた。
余が同行の友は、曾つてと等しく再び其の所属中隊に於て粛正運動の中心となつて戰つた。
刻々に戰ひの經過は報ぜられた。
正義は常に一切に克つ---余は此確信に生きることを得た。
さり乍ら余の最も遺憾なることは、
第二中隊第二區隊は大半の者が腐骨分子のために戰ひ却て數に壓倒せらるるの報ありしこと、
及び吾隣接第二區隊が不淨漢を持て余したことのそれであつた。
余は満腹の決意を抱いた。
破廉恥漢が長州出身者なりしが故に、余は長州出身者の牛耳を執れる某
---彼は廣島卒業當時余を面罵せし者である---を召致して、
彼等一團が陰に彼を庇護せるの一事を立證通論し、
彼等にして処理する能はずんば余自ら斬馬の劍を把らんと言うた。
黙々として去つた。
黙して又、第二中隊第二區隊の非を算へて、其不義を責むるの言を公表した。
果して反動があつた。
長派は結束して不淨漢を庇護し、
一方同派出身の學校職員に倚つて一切を蓋はんとするに至つた。
第二中隊第二區隊は憤激して吾區隊を仇敵視し始めた。
余は中隊各區隊の有志と謀り、
愈々中隊同期生の決議を以て不淨漢の進退を決せんとするに至つた。
時はたゆみなく流るる。
宣戰以來早くも一と月は逝いて、朝な朝な霜寒き十一月となつた。
長派の奸策を立證表明せしとき、區隊の者等悉く悲憤の涙に咽んだあの予防接種の夜の思ひ出、
遂に其あくる日の午後、余は三好 福永 末吉 及他の區隊有志三名と共に中隊長室を訪うた。
六人の區隊長も集まつた。
其の中には長派出身で最も奸謀を授けた區隊長某中尉も居た。
一名宛意見を共陳した。
皆等しく彼の不淨漢と道を共に歩むことを否んだ。
廣島時代から彼と歩みを共にし 殊には生島校長から其の監督を依頼せられて來、
又 凡て彼の言動に最も知る所多き余は、最後に意見を求められた。
一同は憤激のあまり感極まつて泣く者もあつた。
末吉と三好とは、げに男泣きに泣いて居た。
余は
「 惡友責善の道に於て、僚友から同行を否まるゝに至つては已に終りである。
上司許さずといふ時、私等にお任せをと願ふことが朋友の常道である。
私は泣いて馬謖を斬るより外ないと思ひます。」
と 斷言した。
そして、一同沈痛なる思ひで室を出た。
その夕べ、此頃の戰雲に全校生徒の心は沸立つて居たが、
夕食時に週番士官が食卓に衝立つて
「 二年生一同の希望する如く不淨漢を退校處分に決した 」
と 傳達した時、
覺えず喊声が四方に起つて食堂は動揺めいた。
其後、區隊と區隊との彼の軋轢あつれきは益々甚しくなつて來た。
殊に不淨漢が武斷黨の中心人物であり黨員が三四彼の區隊に居る關係で、
余は一層狙はれることになつた。
「 短刀を抱いて校門を入れり 」
「 西田に對して此の恨みを報いずば云々 」
の 飛報はあはただしくも、余の耳を打つのであつた。
此頃余は或る寂しき思ひに自ら悲しんだ。
護つてやらうと言つてくれる三四の友の厚意も謝して・・・・。
遂に或る午後、第二中隊第二區隊から余と意見を交換したいと告げて來た。
無理に同行を強いた三好 末吉 福永を伴つて、余は出掛けた。
隙間もなく余等四名を取巻いて、彼等は鞏弁した。
余の答へを求めた。
余は一切を披瀝して所信を述べ、反省を求めた。
議決せず、再び有志との會見を約して別れた。

其夜會見によりて、凱歌再び余等の奏する所となつた。
かくして、十二月に入った。
臺上名物の百日祭は來た。
余等の區隊は九日、半年の道義戰に得たる勝利を併せ祝つて、一同歓呼した。
げに其の日の思ひ出は今懐かしき極みである。
余は此戰ひの途中に於て、平野を識つた。
片山を識つた。
平木を識つた。
そして又、福永の紹介で大亜細亜主義者としての宮本を識つた。
越えて九年二月、卒業試験直の三週を余は四十度の高熱に冒されし爲めに病床に送つた。
三月二十一日卒業した。
二百五十名中十二番といふ過去に背く恥づべき成績を以て、余は學校を去った。
然して、福永と三好と三人朝鮮を志願して叶つた爲めに、
四月二日の朝春雨煙る兵庫の海を船出して、満懐の希望ら一千里の西北を指し去つた。
上京してより早くも二年を送つた。
余は此間至極の志願に何程の努力をなしたか。
初めの一年半にはひたすらに衷なる魂を磨いた。
休日には屢々しばしば図書館に通つて、心糧を漁つた。
哲学的興味を主として禅に濺いだ。
亜細亜時論を購讀した。
大川周明の日印協會脱退の壯烈なる文字に魅せられしも同誌。
満川亀太郎の亜細亜問題の諸論文を飽かずも讀んだのも同志。
内田良平の名は幼時より知つて居た。
そは朝鮮問題其他からである。
時には赤坂溜池の黒竜會本部を訪ひしこともあつた。
宮本と相識つてからは、彼の同郷で先輩なる西岡士郎氏を相聯れて訪問したり、
長崎武氏を訪ふたり、頭山翁の門を叩いたりすることもあつた。
西岡氏とは彼の巴布札布將軍討衰起義の際に於ける砲隊長たりし人である。
當時雑誌 「 男 」 を 發行して居た。
余は此年一月に 「 罵世録 」 一篇を書いた。
二年間の所作を聚あつめて 「 江都客遊中詩思 」 と題した。
そして四月海を越へたとき、「 祖國に訣わかるるの記 」 を 書いた。

かくして最初の二年は夢の如く東京に逝いたのである。
此頃、國内國外愈々事多くなつた。
九年一月には平和克復の大詔が渙發せられた。
議會は解散した。
普選運動が勞働運動と歩を共にして
八年以來次第に激烈になって來て居たのに原因したものである。
八年ヴェルサイユ會議の失敗も今尚余の心に刻まるゝ遺憾であるのだ。
然も西比利亜には十万の將卒が氷雪に悩んだ。

想起する---余が當時の思ひは、げに悲壯なる限りであつた。
身自らも小さな道義戰に從つて居た。
・・・・來るべき大戰を夢想しつゝ。

次頁  戦雲を麾く 5 「 青年亜細亜同盟 」 に 続く


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