あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

戰雲を麾く 2 「 小僧の癖に生意気だ 」

2017年03月25日 04時23分37秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


故郷の学窓時代
少年早くも妄りに國を憂ひ世を慨いた。
其昔まだ幼けなかりし頃、早くも吾心を緊張せしめたるものは、
小學四年の秋
忽如沖天の勢をあげた武漢の革命的大火災であつた。
「 日本少年 」 口絵冩眞に、
黄興、黎元洪等の面影と武漢焼打の實況とを飽かずも眺めて居たことの如き、
今尚眼底にマザマザと浮む懐しき吾が姿である。
明治大帝神さりましし時、
九月十四日の拂暁
けたたましき號外の音に
大將乃木が御あと慕ひて自刃せしむを知り、
当時中學三年早くも哲學と政治との趣味を併せ抱いて居た兄に質して、
乃木自刃---死に対する理解を得んと焦つたこと。

大正二年春、
所謂憲政擁護運動が沖天の勢を以て東京に起り
犬養、尾崎等の論將が獅子吼した頃、
至大の興味を政治にもてる父の傍らに坐して無心たり得なんだ余が、
尾崎の咢堂を真似て岳堂を自稱した六年生時代のこと。
犬養 尾崎の優劣を學友と論爭して教師に
「 教師さへ政治を論じ得ぬ。小僧の癖に生意気だ 」
とばかり怒鳴られた思い出。
---其の友は今 臺灣國語學校を終へて彼地に育英に從つて居る。
然して小學校を卒へんとする時、
余は 「 吾が崇拝する人物 」 と題して
大西郷と奈波翁 ナポレオンとをあげたる一篇を卒業記念帖に残した。
そして、開校以來の成績を以て校門を辭した。

幼児よりの熾烈しれつ寧ろ狂熱的な讀書癖と英雄崇拝との故に、
余は最も好んで英雄傳 志士傳等を貪り讀んだ。
雲井滝雄を喜んだ時代もある。
然も余をして最も心を惹きつけしものは実に西郷南洲其人であつた。
そして維新の諸雄を随したがつて讀究した。
坂本竜馬や高杉晋作や其他多くの英雄を敬仰した。
又、大陸に活躍せし人々をも隨つて知り得た。
荒尾東方斎の如き、頭山満の如き、或は岡本柳之助の如き、
支那朝鮮に於ける活躍等も年少客氣の余が血を沸かしめしものである。
書齊の壁間、大西郷の肖像画を堤げて 日夕其偉大なる風貌に接し、
明治維新を回想し、大陸に憧憬し、然して其の心的生活を慕ひしことは、
げに余が生涯の志願に直接偉大の關係あるかに思いなさるる。
かくして小學生時代己に人生社會國家なるものに或る心願と研究心とを築いた。
兄の机上に置かれて居た中江兆民の 「 一年有半 」 或は 「 カントの哲學 」
「 オイケンの哲學 」などに至るまで、余は決して見逃さなかつた。
小學の文庫より借りては英雄聖哲の傳記に目をさらした。
「 日本少年誌上に聯載せられし故事解説によりて
「 嚢沙背水の陣 」 「涙を揮つて馬謖を斬る 」
等の史實を知りしも小學五年時代である。

十歳の秋、
初めて漢詩朗吟の快を知った。
それは當時風呂を沸すべき任務にありし余が、
竈前に箕踞して無聊の余り
「 劍舞詳解 」 を手にせしに始まり、
月落鳥啼霜満天の詩は最も愛誦せしものであつた。
そして燃へさしの柴木を筆にして
手あたり次第書きなぐつた種々なる文字等今も尚物置
---当時の浴場に跡を留めて居る。
江楓夜泊の詩に次いで覺へしものは
かの伊藤博文の建業唯期和聖東のそれであつた。

十二歳の春、初めて異性に對する戀を知つた。
然も黙々の間に、それとと言はぬ交りは十年近く續けられた。
そして彼女は二十一歳の春嫁いだ。
今医学博士の夫人として内助最も力あるものであるといふ。
六年生の夏より冬に、余は心身の過勞を來した。
或時作文帖の端に何知らず筆を走らせた一句によりて、教師より訓戒をうけた。
そは悲観的厭世えんせに陥つて居るとの故であつた。
---暮れ告ぐる お寺のかねの うら淋し。
の一句である。
此頃妙に心が沈み淋しみを好んだ。
教師の通知によりて父から讀書を禁じられてしまつた。
長姉が嫁ぎ行く宵、兄弟の誰彼れは門口に彼女を送ったそうだ。
余は一人土蔵に潜んで 古書の中に踞まつた儘姉さへも送らなんだ。
そして祖母よりいたく叱責されしことを今もよく記憶して居る。
それは十二月であつた。
家出づる時姉は余に会はぬを嘆いて、
「 記念に 」 と 祖母に托して余に与へた白の襟巻が今も残って居る。
神経衰弱 ? と 人は言うた。

大正三年三月廿四日、余は小学を卒へた。
此頃、余は己に家の蔵書を一と通り讀破して居た。
四月、中学に進んだ。
尋常出身を以て高等小學出身者の間に在って、入學の成績三番といふのであつた。
そして中学二年間優等生の席を占めて居た。
入学二ヶ月の後、全校雄弁大会に選まれたる余は、
「 男児立志の秋 」 なる題下に朝鮮支那印度の亡国を指摘して、
彼等の跡を追はんとするかに思いなさるる日本人の亡状無気力を痛憤し、
日本男児奮發躍進の秋正に今なるを絶叫した。
然して年少弁壇の闘将たる名を寄与された。
不良同期生を修學旅行中の一夜 「 級會 」 席上面責して改悛を誓明せしめたこと。
一年二年の確執に二年生の横暴を憤慨して一年級團結の上、反抗した思ひ出。
一年級野球團の主將として小學連合軍を三度に亙りて撃破せし思ひ出。
それから又なく懐かしい。
二年級に進みし四月、幼年學校に受験した 。
そして八月二十八日、父と共に廣島に向け出發した。
九月一日、中學の掲示板には余の退校を許可せし紙片が淋しく掲げられて居たといふ。
かくして、余は十五年の故郷生活を終へて新しき戰途に上つたのである。

兄は余の中學入校と共に中學を終へて居た。
三年來の耳疾のため半ば聽能を害して居た彼は、
登髙の志を一時抛つて其の母校たる角盤高等小學校に教鞭をとつて居た。
彼は己に哲學的一見識をもつて居た。
又 劍道に於ては在學当時 已に一頭地を抜く達者であつた。
彼は年七歳にして早くも維新生残りの老劍士河村正彦翁の門に這入って居、
又 漢學を同じく田中蝸庵翁に從つて修めて居た。
教鞭をとりし以來、彼の信望は日に日に加はつて行つた。
彼は授業以外に少年の志気を鼓舞し、道義を唱明し、
餘暇には日々警察署の道場に有志の少年三十名を集めては、劍道の修練に励んだ。
そして隔日毎に夜、彼等を余が家に集めては道談をなした。
余は彼と書齋を同じうして居た。
二人は骨肉以上に道友の契り深かつた。
二人は道のためには歩みを共にした。
最も忘れ難き思ひ出は、ウオーターロー百年記念の夕べ、
塩煎餅をかんで一同大いに談論せし六月十八日である。
かくして、彼は名を地方に知られた。
然し乍ら、それと共に耳疾は次第に重つて行つた。
七月---大正四年---に入ると已に彼は凡てを抛棄ほうきの餘儀なき病態に陥たち。
大正四年十月二十七日、彼は余が遊學の後に寂しい思ひを抱きつつ
耳から遂に肺を併せ痛めて危篤に陥つた。
三十日、いとも畏き教育勅語下賜の記念日に彼は帰らぬ旅に上つたのである。
そして何たる因縁ぞ、
彼が買求めて年頃愛玩せし鉢植の山茶花は彼の死前後より凋しぼみ初め遂に枯れてしまつた。
彼は今 劍道の先師河村正彦翁の墓近く二十一年の生涯を埋めて居る。
遺書は死後發見された。
そは彼の死約二ヶ月以前に認められしもので、無為双親に先立つ罪を謝し、
一家の後事を詳細に委託し、人生観を簡述して居る。
墓地の如きも病末だ重からざる日 自ら現地に立つて決定せしものであることが彼の遺言中にある。
彼の死に逢ひ得ざりし遊學中の余は、殆ど情なきに近い父の教誡のままに、
空しく廣島に死別を悲しんだのである。
彼の葬儀は我故郷曾つて類なき盛儀と言はれて居る。
そして死後彼の墓前には誰のともなき香花が薫つて居る。
彼の中學時代の師時山松窗は愛弟子のためにと、碑銘を認められた。
「 西田英文之墓 」 を 正面にして 「 大正四年十月三十日歿享年二十一歳 」
と 共に他の一側には左の文字が刻まれてある。
  資性温厚  誠實力殫
  天如仮寿  績可大観
かくして彼は桐の一葉と共に秋に散つた。
然も十年の後、吾が父は愛児と共に相並んで墓標の主となつてしまつた。
げに、米子は余の生れ故郷なる意義以上なる永遠不忘の地である。
祖宗累代の戰闘的英霊の眠れる地である。

大正四年八月二十八日、登髙嚮上の志を抱いて故郷を去った。
爾來十年の月日は流水の如く抛いた。
故山の風光、そは何時もかはらぬ懐かしさである。
大山の霊容、日本海の雄大、綿海の典雅、---人事幾度か轉変變するも、
それのみは依稀當年に異ることない。
げに忘れ得ぬは 十五年の故郷生活である。

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