嶋津隆文オフィシャルブログ

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新春の多摩御陵に三菱重工爆破を思う

2008年01月12日 | Weblog

「君の同郷で早稲田の先輩の著書だから読んでみてはどうか」。先日そう言われて、友人から手渡された一冊の本がありました。人権派弁護士と称される内田雅敏が半生を自ら綴ったもので、タイトルは「敗戦の年に生まれて」、副題に「ヴェトナム反戦世代の現在」とありました。

何気なくページをめくって目が離せなくなりました。その後彼らはどうしたのだろうかと気にかかっていた東アジア反日武装戦線・狼。その裁判の弁護の顛末と被告の一人大道寺将司らの言動を綴った箇所があったからです。

死者8人、負傷者376人の惨事となった1974年8月30日の丸の内三菱重工爆破テロ事件。そこで使った2個の爆弾は、8月14日に那須の御用邸から帰京する天皇を、荒川鉄橋上で列車ごと爆破しよう(虹作戦)というものでした。爆弾セット中に人の気配がしたとして作業を中断。しかしせっかく準備したからと標的を変え三菱重工ビルを爆破したものです。

三菱は武器製造に携わっている「日帝の大黒柱」であり、韓国への過去の侵略責任を反省せず戦後も同じことをくりかえす姿勢に警告をしたものと犯行声明等にあります。この論理はお召列車爆破についても同様でした。「天皇の戦争責任は未決着である。日本人の戦争責任の問題について、その頂点にあった天皇の責任が問われなかったところにすべての始まりがある」。大道寺は、そう天皇爆殺の理由を公判で陳述していました。

事件から10年余り後の1987年、死刑判決が確定し現在に至っています。しかしいま大道寺は、死刑制度廃止の運動を積極的に行なっているとありました。それは命ごいではないかという弁護士の質問に、「死刑廃止というのは、どうも自分の生き方とか思想に合わないといいますか、潔くないみたいな、そういう意識に最初の頃はとらわれていたが」といい、やがて「差別の極に死刑制度がある、この運動に専念する」との陳述が記されていたのです。

釈然としません。

反省をしないとして相手を爆殺するロジックをとる者が、死刑という反省を求められながら死刑廃止を運動としていくというのです。こういった薄す味の行為は、しかしながら私たち戦後世代の共通項ともいえるようです。他人は責める。自分は曖昧にする。例外といえば、死刑確定後も血反吐を吐くような総括を続けている、連合赤軍の坂口弘くらいのものでしょうか。

4回目の公判で大道寺は尋問に答え、「はい。私たちが行った三菱重工爆破によって死傷された方々、そしてご遺族の方々に心からお詫び申し上げます」と述べていました。
言葉の軽さも、われわれ団塊世代の共通の禍です。しかしそれでも、責任を追及するというスタンスをとるものなら、自らの責任もそれなりのオトシマエはつけなくてはいけません。

そんなことが頭から離れない先週の1月6日、昭和天皇が亡くなられてちょうど20年目になるということもあり、多摩御陵を訪れました。玉じゃりを踏みながら、戦争を悔い、自らを責めてきたであろう人間天皇の痛苦というものを思いました。一方で、せめて退位していれば戦争責任をとる指導者層も違っていたという指摘も一理あると感じたものでした。

それはともあれ、多摩御陵の木立にもう一つ思わされたことがありました。責任を問うなら、既に新しい戦後の責任が生じてきているのではないかということです。戦後民主主義に幾つもの功罪を積み上げてきた我々団塊の世代。いまや後続の世代からその無責任さが問われようとしています。子育てであれ、権利至上主義であれ、曖昧なままに今日の社会混乱を招いた我々世代の「戦後責任」ともいうべきものが、改めて追及される時代になってきたのです。過去とは現在なのです。
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