嶋津隆文オフィシャルブログ

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「カッコーの巣の上で」で思い起こす役人道というもの

2008年02月07日 | Weblog

1975年のアカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞を獲得した映画「カッコーの巣の上で」。精神病棟での管理体制に反発して、自由と活気を求めて改革を進めようとする主人公が、しかし抑圧され、ついには前頭葉切除で廃人にさせられていく悲劇の物語。そもそもは管理体制の厳しい共産東欧のチェコから米国に逃亡してきた著者の作品の映画化です。

このまことに重い名画を先日BSで見つつ、30年前の美濃部都知事のスピーチを思い起こしました。そのスピーチは冒頭で、日比谷の映画館で「カッコーの巣の上で」を観て大変学ぶものがありましたという展開でした。普段、無味乾燥なあいさつ文が読み上げられる中で、米国映画のシーンから口火が切られたことに私たち職員は大いに驚き、また美濃部都知事という人物の教養性がひときわ際立たされように感じたものでした。

しかし考えても見れば、知事の発言原稿というものは一般的に部下職員が作成します。もちろんその原稿内容はもちろん職員の言葉でなく、東京都知事の風格を持つものでなくてはなりません。カッコーの原稿も知事のスタッフであった太田久行政策室長(現在作家の童門冬二)が最終的には書いたもののようで、美濃部知事の人権重視の革新イメージを大いに増幅させることに成功したものといえます。

鈴木都知事時代の高木祥勝秘書部長はよくこういっていました。「われわれは如何に知事を大きく見せるかが仕事です。知事を大きく見せる。そのことで東京を大きく見せる。そうすることが自分を大きく見せることにもなるのです」。役人と組織の心情、すなわち「役人道」を実に的確に表した言葉ではないかと感心したものでした。

振り返って国立市政の場合はどうでしょうか。明らかにトップと職員のそうした一体感がないのです。例えば駅周辺のまちづくり計画。この間の国立の市長は政治主義的姿勢で走り、JRなど関係機関との交渉をやってきませんでした。しかしそのような場合、普通は役所内部で実務的に問題点を整理し、首長に進言し、場合によってはJRや東京都と水面下で調整は図るといった作業を進めるのです。その縁の下の力持ち的作業をやってこそ行政人なのです。

首長が行き詰まってしまえば、部下も何も動かない国立市役所。これでは市長もまちも死んでしまいます。実は東京都もJRも、国立市政には首長への不信があるだけでなく部下職員への不信が強烈に醸成されていることを、市民・職員ともどもに知るべきなのです。

もう一つ加えるならば、最近、市報などで関口博市長のスピーチや挨拶文がそれなりに目に入ります。しかし率直に言って、そのいずれもがおよそハラハラとし聞くに苦痛な、中学生の作文のような稚拙な内容のものです。市長の文章力やスピーチ力が貧困であるとするならば、それは組織として、職員のサイドが支え、世間に示す市長イメージ下落の阻止を図らねばいけません。それが「役人道」なのです。

映画「カッコーの巣の上で」では、民主的と称される管理体制の運営の中で、病棟にいる人々は誰もが日々無気力になっていきます。しかしそんな寒々とした風景が、どこぞの市役所などにはないと、とても言い切れない気がするのは残念でなりません。市長を支えその自治体を大きくみせていくというのは、役人としての責任であり、またまさに醍醐味と思うのですが、いかがでしょうか。
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