嶋津隆文オフィシャルブログ

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長州は三隅に村田清風と香月泰男を訪ねる

2007年11月04日 | Weblog

国立の大学通りで天下市が行われていたちょうどその11月1日と2日、回天の明治維新を遂行した長州藩は三隅と萩へ向かいました。幕末にあって、8万貫の大赤字に苦しむ藩財政の改革に取り組んだ経世家、村田清風の足跡を調べる取材の旅でした。

村田清風は憂国の念を一貫して訴え、「いくさ爺さん」といわれた人物です。彼の思想的影響を受け、吉田松陰や高杉晋作、木戸孝允らが維新の革命を起こしていきます。その清風の生まれたのが、萩から20キロ離れた小さな町、三隅(現在合併で長門市)なのです。

その町への訪問にはもう一つの目的がありました。同じ三隅に生まれた一人の画家の作品に触れることでした。香月泰男(かづきやすお)。終戦後にシベリアに抑留され、極寒のなかで望郷の念に苦しみながら逝った多くの同僚の慟哭を描いた画家です。

香月のシベリアシリーズには、画面に刻まれたどす黒い大地から覗く幾つもの目が、祖国と生への執念と絶望を漲らせ、戦後の日本人に亡国の歴史の重さを突きつけています。まさに清風が警告してやまなかった憂国の、その大局を掴め得ずして半世紀後に国を滅ぼした日本を、同じ三隅の地に出た人物は鬼気迫る筆使いで指弾しているのです。

この二人の存在はただに偶然に隣り合ったに過ぎないのでしょうか。そのことを確認したくて三隅へ向かったのです。しかしコスモスが咲き乱れ、赤い石州瓦の屋根の続く静かなこの町は何も教えてくれませんでした。

「罪は政治(まつりごと)を為す人にあるべし。」長州における天保の大一揆の原因について、清風が指摘した藩政の問題点の総括です。しかしそれはシベリアでの塗炭の苦しみを経た香月の、心の中に常に呟いていた共通の言葉でもあったに違いありません。少なくとも三隅の地はそのことを感じさせてくれたものと、私自身も呟いて帰京の途に就いたものでした。

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