武田百合子、『富士日記(上)』

 今日はひねもす本読み。ふっと本から離れると、ぼんやり虚ろになってしまう。お盆には少し実家に寄らねばならないので、あれこれ考えそうになってしまう。やでやで。

 なかなか手が出せなかった百合子さんの日記、全三巻を一度に読むのは大変そうなので、一冊ずつを手に取っていくことに決めた。
 『富士日記(上)』、武田百合子を読みました。


 日記文学を読む楽しさというのは、小説のそれとはすこぶる当り前ながら全然違う。そうね、例えば、どんなに抜きん出た才能を持つ人であろうと、そこに“生活”がでんと構えている限り、ありきたりで瑣末な事柄に取り囲まれ、笑ったり怒ったり呆れたり悲しんだりしながら日々をやり過ごしている点では、そんなに他の人たちと変わらないなぁ…なんて、にやにやしながら読むのも楽しい。いかにも昭和らしい食事の内容を見る度に、そんな食卓を囲む3人の様子を想像してしまった。泰淳さんだけ違うメニューが多いのはどうしてなのかな…などと思ったりしつつ。
 そうして、そんな日々の繰り返しの中にこぼされる言葉の端々に、その人らしさや価値観や生き方の癖のようなものが隠しようもなく滲みだしているのを感じると、ますます好きになってしまうのだ。

 それにしてもこの日記の素晴らしさは、百合子さんご自身の放つ鮮やかな魅力に負うところが大きい。真夏の向日葵みたいと言うか、何と言うか…。 
 気難しい上に繊細そうな泰淳さんと、竹と言うよりは鋼をぱっかーん!と割りながら突き進んでいくような元気な個性を振りまく百合子さんという組み合わせは、夫婦の妙としか言いようがなくて感心してしまった。やー、面白かった。
 百合子さんを指した「全的肯定者」という呼び方(埴谷雄高による)にも頷きつつ読んでいて、ちょっと気になったのは、友人知人他人かつて愛読した作家…と、人が亡くなったという記述の多いことであった。淡々とした山の日記の中にこれまた淡々と、例えば近くで人が亡くなった事故のことなどが書き添えられていたりする。“死んだ”、と端的に。
 そんな中で心に残ったのは、こんな個所だった。

〔 今朝がた、湖の裏岸をまわって鳴沢へ戻るとき、河口湖にしては、大へん水が澄んでいて、釣をする人も絵のようにしずかに動かない、うっとりするような真夏の快晴だった。〈こんな日に病気の人は死ぬなあ〉と思いながら車を走らせていたら、梅崎さんが死んだ。涙が出て仕方がない。 〕 121頁

 “こんな日に病気の人は死ぬなあ”って、何だか深くて怖くて凄い。普通だったらむしろ、“何故こんな日にも人が死ぬの?”って思いそうな気がする。見据えているものが全然違うのだろう。

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