間もなく、子供達の「夏休み」が終わります。近年その時期に合わせて、新学期が始まるのを苦に自ら命を絶つ子供達の、痛ましく悲しいニュースが報じられる事が多いように感じます。
もし、学校がそんなに辛い場所ならば、バックレても良いんじゃないか?とさえ思います。そのための社会的な受け皿も整ってきているようです。例えば「#学校ムリでもここあるよ」で紹介されています。
このようなことを言うと、中には「困難から逃げてばかりではダメ、立ち向かって乗り越える事も必要」という意見もあるかも知れません。しかし、その「困難に立ち向かう」段階は「既に過ぎている」のです。それこそ「一時的な緊急避難」が必要な状態なのです。
この問題に関連して、思いつくままに何点かコメントしたいと思います。以下の内容は、実は「かつての私」が誰かに教えて欲しかったことなのかも知れません。
■ 「逃げるが勝ち」も「危機管理」の一つ ■
冒頭で(学校が死ぬほど辛いなら)「バックレても良いんじゃないか?」と述べました。もちろん「困難に耐えて、立ち向かい、克服する」ことも必要です。しかしながら、限界を超えてまで、我慢を強要する意味はありません。
その場所にいることがもはや「危険」であるならば、その危険を「回避」するのは当然の対応です。これは立派な「危機管理」です。これは生き抜くためのスキルの一つです。例えていうなら、ブラック企業で死ぬまで働かされて過労死に追いやられる前に、水面下で転職活動をするのと同じです。「逃げるが勝ち」というのは立派な「生存戦略の一つ」です。
本来「学校へ行くこと」それ自体は「目的」ではなく「手段」です。多くの優れた知識や貴重な体験を、体系的に効率良く「学ぶ」ための手段・環境として「学校」があるのです。そして、教科書の内容だけが勉強ではありません。
色々な物・事・人と触れ合い、思考を重ね、感性を磨き、心身を育むこともまた、立派な「勉強」です。どのような形であれ「勉強」は継続した方が良いでしょう。勉強を通して、自らの視野・見聞を広げることで、より豊かな発想や視点から物事を俯瞰できるようになります。現在は「フリースクール」や「通信制高校」などの選択肢も充実しつつあります。
■ 「学校だけ」がこの世の全てじゃない ■
自分の子供時代を振り返ってみると、実際に「学校の世界」と「家の中の世界」で過ごす時間が大半を占めていました。従って、この2つの世界が「自分の生きている世界」でした。確かに「学校の世界」が占めるウェイトは大きなものがあります。
しかし、学校生活を卒業し、社会に出て、幾多の転職を経て、改めて冷静に考えてみると、小学校は「たかだか半径数kmの枠の世界」、中学校も「たかだか半径十数kmの枠の世界」、高校と言っても「たかだか半径数十kmの枠の世界」です。もちろん、地域によって枠の大きさは変わるのでしょうが、要するに学校という世界は「とても狭く、とても小さな、かつ閉鎖的」なものです。
大人になって選挙の投票などで小学校に赴くと、校舎が「とても小さく、狭い」ことに驚きます。子供の頃「児童」と呼ばれていた頃の校舎は「とても大きく、広い世界」のように感じられたにも関わらず、です。自分が大人になってみると「当時はこんな小さな世界で過ごしていたのか」と改めて驚いてしまうのです。
そう考えると、何も学校などの狭い枠の中だけに拘らず、その枠の外に居場所を求めるのも一つの方法であることに気付くのです。そして、そのような選択肢を提示できるのが、周囲の「大人」のアドバンテージではないかと思います。過去の記事で紹介した鎌倉市図書館の「学校が始まるのが死ぬほどツラかったら、図書館においで」という有名なツイートは、その良い例と言えるでしょう。
また、学校などの枠の中で出会うのは、大抵は「たまたま同じ時期に、同じ地域(枠の中)で生まれた者」同士というだけです。そのような「限られた母集団」の中で「親友」と呼べる存在と出会える可能性は必ずしも高いわけではありません。もし出会えたならば、それはもう「非常に幸運」なことと言っても過言ではないでしょう。むしろ、日頃から挨拶と言葉を交わせる「級友」に出会えれば、それだけでも「御の字」としましょう。
たまたま通っている学校で「親友」に出会えなかったとしても、それは別に悪い事でも、恥ずかしい事でも、何でもないのです。案外、そんなものです。むしろ、今この時をしっかりと生きることの積み重ねの方がよっぽど大切なのです。とにかく、自分の持ち味を存分に活かせる場所を見つけよう。そして、その場所は必ずしも「学校の中」にあるとは限りません。
ちなみに、昭和歌謡に詳しい方なら、山口百恵さんが歌われた「いい日旅立ち」という有名な曲を御存知のことと思います。その一節に「ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」というフレーズがあります。「私を待ってる人」がいる場所は「日本のどこか」なのです。「地元のどこか」ではないのですね。
ついでに、学校のスクールカースト上位を謳歌しているクラスメイトも、あと20~30年もすれば「中年」の仲間入りです。今は仮にイケていようが、いなかろうが、そんなことは一切関係なく、やがては皆「おじさん」「おばさん」になるのです。その時には、かつて「スクールカーストの上位だった」という事実も、もはや些細なエピソードに過ぎず、ささやかな「過去の栄光」でしかなくなるのです。
■ 世の中には「色々な選択肢」があることを知ろう ■
今「学校に友達がいない、居場所がない、自分に価値を見いだせない・・・」と悩んでいたとしても、その「今」が永遠に続くわけではありません。何か一つでも、自分が興味を持って打ち込めるもの、得意になれるものがあれば、きっと変われます。何か一つでも、突破口が見つかれば、そこから自ずと道は開けます(私もそうだったから)。
ただし、そのためには、色々な物・事・人・価値観に触れること、すなわち広い意味での「勉強」が必要です。「自分が思っている以上に多種多様な選択肢が存在する」と言う事実を、まずは「知る」ことです。そして、重要なのは、本人が選んだ「選択肢」に関する「良き理解者」の存在です。ただ、これはもう巡り合わせなんですがね・・・。
必ずしも身近な大人が「良き理解者」になれるとは限りません。どんな大人であっても、この世の中のありとあらゆる分野に精通しているわけではありません。それにも関わらず(狭量な価値観で)闇雲に「周囲と同じであること」「普通であること」などを強要し「かくあるべき」と同調圧力を行使すれば、子供は次第に逃げ場を失ってしまいます。
そうすると、もし仮に「より良い選択肢」が他にあったとしても、みすみすそれを見逃してしまうことになりかねないのです。これは大変な機会損失です。だからこそ「第三者的な立場の信頼できる大人」の存在が必要になるのです。そのためには、大人の側もまた勉強し、自らの視野を広げ、知識をアップデートする努力を続ける必要があるでしょう。
そのような意味で、私が子供の頃に比べれば、現代はとても良い時代になったと思います。なぜなら、ネットでちょっとググる(検索する)だけで、色々な情報や多様な価値観・意見に触れることができるわけですから。
もちろん、ネットの情報は「玉石混交」なので、その内容を吟味する必要はあるでしょう。ただ、そのようなリスクはあっても「多様な考え方・選択肢があるのだ」と知ることができるだけで、精神的な支えとなり得るのです。
私が子供の頃は、そもそもネットのインフラは無かったので、周囲の意見や価値観が絶対的な存在でした。その後、大学に進学して、全国から集まってきた学友たちと触れ合う中で、様々な価値観があることを知り、次第に感化されていきました。ちなみに、インターネットが当たり前になってきたのは、私が大学生の頃でした。
もともと小学生の頃の私は病弱で、学校を欠席することが多く、友達も少なく、もちろん勉強にも殆どついていけない有様でした。当然、外で元気よく遊ぶこともままならず、内に篭ることが多い子供でした。そんな私が興味を持ったのは、たまたま家にあった「マイコン(今で言う所のPC)」です。見様見真似でBASICのプログラムを書いて、自作のゲームを動かすことに熱中したものです。しかし、当時はマイコンはあまり普及しておらず、周囲にマイコンの話で盛り上がれる同士もいませんでした(今なら「SNS」や「BBS」があるというのに!)。
そんな私の趣味に理解を示し、励ましてくれた理解者が二人いらっしゃいます。まずは小6の時の担任の先生です。その先生自身も工科系の大学の御出身で、マイコンの勉強をされていたこともあり、私にとっては良き理解者となって頂きました。そして、小学校高学年時には、公共の学童施設に「マイコンクラブ」と言うものがあり、そのクラブに所属してプログラミングを学びました。そのクラブの先生にも大変お世話になりました。
この時期に培ったプログラミングのセンスが、後々の熱流体シミュレーションや人工知能の数値モデルの開発に役立つことなど、当時は知る由もありませんでした。人生、何が役に立つかは判らないものです。「無用の用」の良い例ですね。
■ 人間関係は「移り変わる」もの ■
今や時代も移り変わり、誰もが「生まれた地域で人生が完結する」とは限りません。時代や環境の変化のスピードが増している現在において、このような変化に対応できないことは言うまでもなくディスアドバンテージです。このような所にも「ダーウィンの進化論」が当てはまりそうですね。
さて、人間は死ぬまで成長し得る存在です。その成長のステージにおいて当然、価値観は変わり、自らを取り巻く環境もどんどん変化して行きます。それに伴って、人間関係もまた様変わりします。小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学から社会人、そして転職云々と自らのステージが変化する度に、住む場所や人間関係は激変(シャッフル)します。そして、それは自然なことなのです。これはもう「時の流れ」に委ねるしかないでしょう。
人間関係はかくも「流動的」なものです。だからこそ、その時々で最善を尽くすだけです。日々、努力と精進を重ね、人事を尽くし、天命を待つのみ。大切なのは「今在る仲間」と「今この瞬間を共に生きる」ことに「最善を尽くす」ことであり、その後の展開は「天」に委ね、後は時の流れに身を任せるのみです。
人生とは常に「アップデート」を繰り返すプロセスなのだと、言い換えることもできるでしょう。極論を言えば「竹馬の友」というのは一種の「ファンタジー」なのだと思います。そこには「こうだったら良いな」と言うような、いわば「永遠の友情」「不変の友情」のような理想や願望が込められています。だからこそ「美しきファンタジー」なのです。そして「友達100人できるかな~♪」もまた「ファンタジー」です。
蛇足ですが、結婚式を考えてみると、夫婦となる二人は招待客や神仏の前で「永遠の愛」を誓うわけです。ところが「3組に1組」の割合で離婚に至るそうです。わざわざ神仏に誓ったにも関わらず、様々な事情でその誓いとは異なる結末を迎えるのです。「永遠の○○」と言うのは、かくも難しいものなのです。従って、今ある御縁に素直に感謝し、今この瞬間を大切にすることに意識を向けた方が良いのではないでしょうか。
随分と夢のない話を述べましたが、一旦は別々の道を歩んでいても、いつかどこかで再会する機会があるかもしれません。その時に恥ずかしくない自分でありたいと思います。
■ 友達は「つくる」ものではない ■
結婚式や離婚の話題を引き合いに出したので、ついでに「フォーリンラブ(fall in love)」という言葉は、誰しも一度は聞いたことがあるでしょう。「恋に落ちる」という意味です。そう、「恋」は「落ちる」もの、すなわち「いつの間にかそうなっている」ものであり、わざわざ「つくる」ものではありません。
友情などもまた然りで「人間関係」というのは、あくまで人と人との「関係」であり、その「現在の状態」に過ぎません。日頃から挨拶と言葉を交わしている内に、いつしか「近しい関係」の状態になるのです(詳しい事は「ザイアンスの法則」や「単純接触効果」と言うキーワードでググって見て下さい)。
この観点から、友達を「つくる」、恋人を「つくる」などと言った表現には正直、違和感を覚えます。意識して「つくる」ことができるのは、あくまで出会いの「機会」に他なりません。しかし、機会ができたからと言って「関係も構築できる」という「保証」は全くありません。
従って、上手くいかなかったからと言って、いちいち悲観する必要もありません。さっさと次の機会に移れば良いだけの話です。「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」と言うでしょう。
■ 「失敗する」のも良いことだ ■
さて、「良い子」と言うと、どのような子供をイメージするでしょうか。例えば「学校では仲の良い友達が多く、健康で運動も抜群で、しかも勉強もできて、素直で優しく、異性にもモテて・・・等々」という感じでしょうか。アニメ「ドラえもん」の登場人物で言えば、「出木杉」君や「しずか」ちゃんのようなイメージが近いかもしれません。
ちなみに、かつての私は「のび太」君が一番近いです。のび太君との相違点を上げると、のび太君は健康のようですが、子供の頃の私は病弱でした。そして、のび太君の傍には「ドラえもん」がいて、良き親友として助けてくれます。一方、当時の私には傍に寄り添ってくれる存在さえ無かったのです。
正直、当時の私の有様から今の姿を想像することは、おそらく誰にもできなかったことでしょう。当の本人ですら想像できませんでした。そんな私が言えるのは「未来への望みを捨ててはいけない」ということです。何か一つでも突破口が見つかれば、そこから自ずと道は開けます。そして、もう一つ、大切なことがあります。
「成功する」のは良いことだ。「失敗する」のも良いことだ。成功すれば自信につながり、失敗すれば学びにつながる。
成功が良いことなのは自然なことです。しかし、「失敗をポジティブに捉える」という発想は余り無いのではないでしょうか。ビジネスやスポーツの試合、音楽のコンクールなど「失敗が許されない」局面というのは確かに存在します。そして、その「本番」に備えるために入念に準備をしたり、トレーニングや練習を重ねるわけです。
とは言え、最初から何でも上手くできるとは限りません。勉強でも、運動でも、周囲との交流でも、器用にこなす人もいれば、なかなか不器用な人もいるものです。そして、その「上手くいかないこと」を安易に非難したり、馬鹿にする人のなんと多いことか。子供の場合は精神も未熟なので、他者への配慮が欠けていることも往々にしてあるでしょう。そればかりか、周囲の大人でさえこのような有様、と言うこともあるのです。
そもそも、数多くの「失敗」を繰り返すことで、「どこが行けなかったのか」「どうすれば上手くいくのか」経験を通じて学ぶことができるのです。いわば、このような「試行錯誤」のプロセスを経て、人は成長を積み重ねて行くのです。これが「学習」の本質です。
そして、人だけではなく、今や脚光を浴びている人工知能(AI)もまた然りです。ニューラルネットワークの学習では、莫大な数の「試行錯誤」を、圧倒的な「速度」で繰り返しながら、自らの「最適化」を図っているのです。そもそもニューラルネットワークは「脳の神経細胞の働き」を数理モデル化したものです。つまり、脳がどうやって「学習」するのか、その仕組みをコンピュータ上で再現しているのです。
言わば何度も失敗を繰り返しながら、その結果をフィードバックし、学習を重ねることで、次第に上達・成長して行くのです。すなわち、「失敗」は学習の大切な「プロセス」なのです。失敗することは必ずしも「恥ずかしい」ことではないのです。失敗できる内にドンドン失敗して、その経験を糧に上達・成長して行けば良いのです。その中で、自分が興味を持って打ち込めるもの、得意になれるもの、つまり「突破口」を見つけて行けば良いのではないでしょうか。
■ とりあえず、立ち止まってみよう ■
生きとし生けるものはすべからく、遅かれ早かれいつかは「最期の時を迎える」のです。だから「死に急ぐ」ことを考えるのではなく「まずは立ち止まって、違った環境に身を置いても良いんじゃない?」と提案したいのです。これが冒頭の「バックレる」の意味です。今は見えないのかも知れませんが、きっと他に「選択肢」はあるのです。まずは焦らずに、それを見つけましょうよ。
人生の寄り道や回り道は必ずしも無駄なこととは限りません。むしろ、人間としての幅や深みを持たせる「肥やし」にさえなり得るのです。もっとも、そのような発想の転換を図ることができる「良き理解者」が身近にいると良いんだけどなあ。
現実問題として「一人の人間」があらゆる分野をカバーすることは無理です。だからこそ、多くの「理解ある指導者」によるアプローチが必要なのです。その意味では「学校」も当然必要ですが、「その他の選択肢」となり得る存在もまた必要なのです。それは、塾や予備校かも知れないし、フリースクールや通信制学校、または外部のサークルや団体なのかも知れません。
そして、「理解ある大人」に出会うことができたならば、今度は自分が将来、悩める若人たちの「良き羅針盤」になれるよう目指して欲しい、と願っています。
もし、学校がそんなに辛い場所ならば、バックレても良いんじゃないか?とさえ思います。そのための社会的な受け皿も整ってきているようです。例えば「#学校ムリでもここあるよ」で紹介されています。
このようなことを言うと、中には「困難から逃げてばかりではダメ、立ち向かって乗り越える事も必要」という意見もあるかも知れません。しかし、その「困難に立ち向かう」段階は「既に過ぎている」のです。それこそ「一時的な緊急避難」が必要な状態なのです。
この問題に関連して、思いつくままに何点かコメントしたいと思います。以下の内容は、実は「かつての私」が誰かに教えて欲しかったことなのかも知れません。
■ 「逃げるが勝ち」も「危機管理」の一つ ■
冒頭で(学校が死ぬほど辛いなら)「バックレても良いんじゃないか?」と述べました。もちろん「困難に耐えて、立ち向かい、克服する」ことも必要です。しかしながら、限界を超えてまで、我慢を強要する意味はありません。
その場所にいることがもはや「危険」であるならば、その危険を「回避」するのは当然の対応です。これは立派な「危機管理」です。これは生き抜くためのスキルの一つです。例えていうなら、ブラック企業で死ぬまで働かされて過労死に追いやられる前に、水面下で転職活動をするのと同じです。「逃げるが勝ち」というのは立派な「生存戦略の一つ」です。
本来「学校へ行くこと」それ自体は「目的」ではなく「手段」です。多くの優れた知識や貴重な体験を、体系的に効率良く「学ぶ」ための手段・環境として「学校」があるのです。そして、教科書の内容だけが勉強ではありません。
色々な物・事・人と触れ合い、思考を重ね、感性を磨き、心身を育むこともまた、立派な「勉強」です。どのような形であれ「勉強」は継続した方が良いでしょう。勉強を通して、自らの視野・見聞を広げることで、より豊かな発想や視点から物事を俯瞰できるようになります。現在は「フリースクール」や「通信制高校」などの選択肢も充実しつつあります。
■ 「学校だけ」がこの世の全てじゃない ■
自分の子供時代を振り返ってみると、実際に「学校の世界」と「家の中の世界」で過ごす時間が大半を占めていました。従って、この2つの世界が「自分の生きている世界」でした。確かに「学校の世界」が占めるウェイトは大きなものがあります。
しかし、学校生活を卒業し、社会に出て、幾多の転職を経て、改めて冷静に考えてみると、小学校は「たかだか半径数kmの枠の世界」、中学校も「たかだか半径十数kmの枠の世界」、高校と言っても「たかだか半径数十kmの枠の世界」です。もちろん、地域によって枠の大きさは変わるのでしょうが、要するに学校という世界は「とても狭く、とても小さな、かつ閉鎖的」なものです。
大人になって選挙の投票などで小学校に赴くと、校舎が「とても小さく、狭い」ことに驚きます。子供の頃「児童」と呼ばれていた頃の校舎は「とても大きく、広い世界」のように感じられたにも関わらず、です。自分が大人になってみると「当時はこんな小さな世界で過ごしていたのか」と改めて驚いてしまうのです。
そう考えると、何も学校などの狭い枠の中だけに拘らず、その枠の外に居場所を求めるのも一つの方法であることに気付くのです。そして、そのような選択肢を提示できるのが、周囲の「大人」のアドバンテージではないかと思います。過去の記事で紹介した鎌倉市図書館の「学校が始まるのが死ぬほどツラかったら、図書館においで」という有名なツイートは、その良い例と言えるでしょう。
また、学校などの枠の中で出会うのは、大抵は「たまたま同じ時期に、同じ地域(枠の中)で生まれた者」同士というだけです。そのような「限られた母集団」の中で「親友」と呼べる存在と出会える可能性は必ずしも高いわけではありません。もし出会えたならば、それはもう「非常に幸運」なことと言っても過言ではないでしょう。むしろ、日頃から挨拶と言葉を交わせる「級友」に出会えれば、それだけでも「御の字」としましょう。
たまたま通っている学校で「親友」に出会えなかったとしても、それは別に悪い事でも、恥ずかしい事でも、何でもないのです。案外、そんなものです。むしろ、今この時をしっかりと生きることの積み重ねの方がよっぽど大切なのです。とにかく、自分の持ち味を存分に活かせる場所を見つけよう。そして、その場所は必ずしも「学校の中」にあるとは限りません。
ちなみに、昭和歌謡に詳しい方なら、山口百恵さんが歌われた「いい日旅立ち」という有名な曲を御存知のことと思います。その一節に「ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」というフレーズがあります。「私を待ってる人」がいる場所は「日本のどこか」なのです。「地元のどこか」ではないのですね。
ついでに、学校のスクールカースト上位を謳歌しているクラスメイトも、あと20~30年もすれば「中年」の仲間入りです。今は仮にイケていようが、いなかろうが、そんなことは一切関係なく、やがては皆「おじさん」「おばさん」になるのです。その時には、かつて「スクールカーストの上位だった」という事実も、もはや些細なエピソードに過ぎず、ささやかな「過去の栄光」でしかなくなるのです。
■ 世の中には「色々な選択肢」があることを知ろう ■
今「学校に友達がいない、居場所がない、自分に価値を見いだせない・・・」と悩んでいたとしても、その「今」が永遠に続くわけではありません。何か一つでも、自分が興味を持って打ち込めるもの、得意になれるものがあれば、きっと変われます。何か一つでも、突破口が見つかれば、そこから自ずと道は開けます(私もそうだったから)。
ただし、そのためには、色々な物・事・人・価値観に触れること、すなわち広い意味での「勉強」が必要です。「自分が思っている以上に多種多様な選択肢が存在する」と言う事実を、まずは「知る」ことです。そして、重要なのは、本人が選んだ「選択肢」に関する「良き理解者」の存在です。ただ、これはもう巡り合わせなんですがね・・・。
必ずしも身近な大人が「良き理解者」になれるとは限りません。どんな大人であっても、この世の中のありとあらゆる分野に精通しているわけではありません。それにも関わらず(狭量な価値観で)闇雲に「周囲と同じであること」「普通であること」などを強要し「かくあるべき」と同調圧力を行使すれば、子供は次第に逃げ場を失ってしまいます。
そうすると、もし仮に「より良い選択肢」が他にあったとしても、みすみすそれを見逃してしまうことになりかねないのです。これは大変な機会損失です。だからこそ「第三者的な立場の信頼できる大人」の存在が必要になるのです。そのためには、大人の側もまた勉強し、自らの視野を広げ、知識をアップデートする努力を続ける必要があるでしょう。
そのような意味で、私が子供の頃に比べれば、現代はとても良い時代になったと思います。なぜなら、ネットでちょっとググる(検索する)だけで、色々な情報や多様な価値観・意見に触れることができるわけですから。
もちろん、ネットの情報は「玉石混交」なので、その内容を吟味する必要はあるでしょう。ただ、そのようなリスクはあっても「多様な考え方・選択肢があるのだ」と知ることができるだけで、精神的な支えとなり得るのです。
私が子供の頃は、そもそもネットのインフラは無かったので、周囲の意見や価値観が絶対的な存在でした。その後、大学に進学して、全国から集まってきた学友たちと触れ合う中で、様々な価値観があることを知り、次第に感化されていきました。ちなみに、インターネットが当たり前になってきたのは、私が大学生の頃でした。
もともと小学生の頃の私は病弱で、学校を欠席することが多く、友達も少なく、もちろん勉強にも殆どついていけない有様でした。当然、外で元気よく遊ぶこともままならず、内に篭ることが多い子供でした。そんな私が興味を持ったのは、たまたま家にあった「マイコン(今で言う所のPC)」です。見様見真似でBASICのプログラムを書いて、自作のゲームを動かすことに熱中したものです。しかし、当時はマイコンはあまり普及しておらず、周囲にマイコンの話で盛り上がれる同士もいませんでした(今なら「SNS」や「BBS」があるというのに!)。
そんな私の趣味に理解を示し、励ましてくれた理解者が二人いらっしゃいます。まずは小6の時の担任の先生です。その先生自身も工科系の大学の御出身で、マイコンの勉強をされていたこともあり、私にとっては良き理解者となって頂きました。そして、小学校高学年時には、公共の学童施設に「マイコンクラブ」と言うものがあり、そのクラブに所属してプログラミングを学びました。そのクラブの先生にも大変お世話になりました。
この時期に培ったプログラミングのセンスが、後々の熱流体シミュレーションや人工知能の数値モデルの開発に役立つことなど、当時は知る由もありませんでした。人生、何が役に立つかは判らないものです。「無用の用」の良い例ですね。
■ 人間関係は「移り変わる」もの ■
今や時代も移り変わり、誰もが「生まれた地域で人生が完結する」とは限りません。時代や環境の変化のスピードが増している現在において、このような変化に対応できないことは言うまでもなくディスアドバンテージです。このような所にも「ダーウィンの進化論」が当てはまりそうですね。
さて、人間は死ぬまで成長し得る存在です。その成長のステージにおいて当然、価値観は変わり、自らを取り巻く環境もどんどん変化して行きます。それに伴って、人間関係もまた様変わりします。小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学から社会人、そして転職云々と自らのステージが変化する度に、住む場所や人間関係は激変(シャッフル)します。そして、それは自然なことなのです。これはもう「時の流れ」に委ねるしかないでしょう。
人間関係はかくも「流動的」なものです。だからこそ、その時々で最善を尽くすだけです。日々、努力と精進を重ね、人事を尽くし、天命を待つのみ。大切なのは「今在る仲間」と「今この瞬間を共に生きる」ことに「最善を尽くす」ことであり、その後の展開は「天」に委ね、後は時の流れに身を任せるのみです。
人生とは常に「アップデート」を繰り返すプロセスなのだと、言い換えることもできるでしょう。極論を言えば「竹馬の友」というのは一種の「ファンタジー」なのだと思います。そこには「こうだったら良いな」と言うような、いわば「永遠の友情」「不変の友情」のような理想や願望が込められています。だからこそ「美しきファンタジー」なのです。そして「友達100人できるかな~♪」もまた「ファンタジー」です。
蛇足ですが、結婚式を考えてみると、夫婦となる二人は招待客や神仏の前で「永遠の愛」を誓うわけです。ところが「3組に1組」の割合で離婚に至るそうです。わざわざ神仏に誓ったにも関わらず、様々な事情でその誓いとは異なる結末を迎えるのです。「永遠の○○」と言うのは、かくも難しいものなのです。従って、今ある御縁に素直に感謝し、今この瞬間を大切にすることに意識を向けた方が良いのではないでしょうか。
随分と夢のない話を述べましたが、一旦は別々の道を歩んでいても、いつかどこかで再会する機会があるかもしれません。その時に恥ずかしくない自分でありたいと思います。
■ 友達は「つくる」ものではない ■
結婚式や離婚の話題を引き合いに出したので、ついでに「フォーリンラブ(fall in love)」という言葉は、誰しも一度は聞いたことがあるでしょう。「恋に落ちる」という意味です。そう、「恋」は「落ちる」もの、すなわち「いつの間にかそうなっている」ものであり、わざわざ「つくる」ものではありません。
友情などもまた然りで「人間関係」というのは、あくまで人と人との「関係」であり、その「現在の状態」に過ぎません。日頃から挨拶と言葉を交わしている内に、いつしか「近しい関係」の状態になるのです(詳しい事は「ザイアンスの法則」や「単純接触効果」と言うキーワードでググって見て下さい)。
この観点から、友達を「つくる」、恋人を「つくる」などと言った表現には正直、違和感を覚えます。意識して「つくる」ことができるのは、あくまで出会いの「機会」に他なりません。しかし、機会ができたからと言って「関係も構築できる」という「保証」は全くありません。
従って、上手くいかなかったからと言って、いちいち悲観する必要もありません。さっさと次の機会に移れば良いだけの話です。「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」と言うでしょう。
■ 「失敗する」のも良いことだ ■
さて、「良い子」と言うと、どのような子供をイメージするでしょうか。例えば「学校では仲の良い友達が多く、健康で運動も抜群で、しかも勉強もできて、素直で優しく、異性にもモテて・・・等々」という感じでしょうか。アニメ「ドラえもん」の登場人物で言えば、「出木杉」君や「しずか」ちゃんのようなイメージが近いかもしれません。
ちなみに、かつての私は「のび太」君が一番近いです。のび太君との相違点を上げると、のび太君は健康のようですが、子供の頃の私は病弱でした。そして、のび太君の傍には「ドラえもん」がいて、良き親友として助けてくれます。一方、当時の私には傍に寄り添ってくれる存在さえ無かったのです。
正直、当時の私の有様から今の姿を想像することは、おそらく誰にもできなかったことでしょう。当の本人ですら想像できませんでした。そんな私が言えるのは「未来への望みを捨ててはいけない」ということです。何か一つでも突破口が見つかれば、そこから自ずと道は開けます。そして、もう一つ、大切なことがあります。
「成功する」のは良いことだ。「失敗する」のも良いことだ。成功すれば自信につながり、失敗すれば学びにつながる。
成功が良いことなのは自然なことです。しかし、「失敗をポジティブに捉える」という発想は余り無いのではないでしょうか。ビジネスやスポーツの試合、音楽のコンクールなど「失敗が許されない」局面というのは確かに存在します。そして、その「本番」に備えるために入念に準備をしたり、トレーニングや練習を重ねるわけです。
とは言え、最初から何でも上手くできるとは限りません。勉強でも、運動でも、周囲との交流でも、器用にこなす人もいれば、なかなか不器用な人もいるものです。そして、その「上手くいかないこと」を安易に非難したり、馬鹿にする人のなんと多いことか。子供の場合は精神も未熟なので、他者への配慮が欠けていることも往々にしてあるでしょう。そればかりか、周囲の大人でさえこのような有様、と言うこともあるのです。
そもそも、数多くの「失敗」を繰り返すことで、「どこが行けなかったのか」「どうすれば上手くいくのか」経験を通じて学ぶことができるのです。いわば、このような「試行錯誤」のプロセスを経て、人は成長を積み重ねて行くのです。これが「学習」の本質です。
そして、人だけではなく、今や脚光を浴びている人工知能(AI)もまた然りです。ニューラルネットワークの学習では、莫大な数の「試行錯誤」を、圧倒的な「速度」で繰り返しながら、自らの「最適化」を図っているのです。そもそもニューラルネットワークは「脳の神経細胞の働き」を数理モデル化したものです。つまり、脳がどうやって「学習」するのか、その仕組みをコンピュータ上で再現しているのです。
言わば何度も失敗を繰り返しながら、その結果をフィードバックし、学習を重ねることで、次第に上達・成長して行くのです。すなわち、「失敗」は学習の大切な「プロセス」なのです。失敗することは必ずしも「恥ずかしい」ことではないのです。失敗できる内にドンドン失敗して、その経験を糧に上達・成長して行けば良いのです。その中で、自分が興味を持って打ち込めるもの、得意になれるもの、つまり「突破口」を見つけて行けば良いのではないでしょうか。
■ とりあえず、立ち止まってみよう ■
生きとし生けるものはすべからく、遅かれ早かれいつかは「最期の時を迎える」のです。だから「死に急ぐ」ことを考えるのではなく「まずは立ち止まって、違った環境に身を置いても良いんじゃない?」と提案したいのです。これが冒頭の「バックレる」の意味です。今は見えないのかも知れませんが、きっと他に「選択肢」はあるのです。まずは焦らずに、それを見つけましょうよ。
人生の寄り道や回り道は必ずしも無駄なこととは限りません。むしろ、人間としての幅や深みを持たせる「肥やし」にさえなり得るのです。もっとも、そのような発想の転換を図ることができる「良き理解者」が身近にいると良いんだけどなあ。
現実問題として「一人の人間」があらゆる分野をカバーすることは無理です。だからこそ、多くの「理解ある指導者」によるアプローチが必要なのです。その意味では「学校」も当然必要ですが、「その他の選択肢」となり得る存在もまた必要なのです。それは、塾や予備校かも知れないし、フリースクールや通信制学校、または外部のサークルや団体なのかも知れません。
そして、「理解ある大人」に出会うことができたならば、今度は自分が将来、悩める若人たちの「良き羅針盤」になれるよう目指して欲しい、と願っています。