計算気象予報士の「知のテーパ」

旧名の「こんなの解けるかーっ!?」から改名しました。

サクラサク・サクラチル

2024年03月10日 | オピニオン・コメント
 春の足音を感じるこの時期は、受験や合格発表の時期とも重なります。

 試験なのでもちろん「咲く桜」もあれば、「散る桜」もあります。それでも、日々のひたむきな積み重ねは、決して無駄にはなりません。ただ違いがあるとすれば、それは「見える花」になったのか、それとも「見えない糧」として蓄えられたのか、ただそれだけです。

 しかし、蓄積された「糧」はやがて、大輪の花を咲かせる大きな「力」となります。花を咲かせることはもちろん大切ですが、大地にしっかりと根を張ることもまた大切です。目の前の目標に向かって、全力で取り組むことができたかどうか、それこそが「真の価値」なのです。

 受験勉強は確かに大変だと思います。しかし、その努力はただ単に「合格」するのみならず、その後の「高度な学びのための基礎学力」および「自ら学ぶ習慣」を身に着けるプロセスでもあります。そしてこれらは今後の人生の財産となります。これらの基礎・土台を自らの中に構築することにこそ、受験勉強の意義があるとさえ感じます。

 そして、学べば学ぶほど、知識は増し、また視野も広がります。その一方で、自分の知識が未だ微々たるものに過ぎないと言う事実を、あらためて突き付けられます。どこまで学びを進めても「もう十分だ」と思えることは無く、むしろ「まだ全然足りない」と焦燥感に駆られるのです。古代ギリシアの哲学者・ソクラテスが唱えた「無知の知」の境地と言えるでしょう。
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そろそろ年度末

2022年03月16日 | オピニオン・コメント
 2021年度も残す所、あと半月となりました。

 毎度のことながら、年度替わりの時期は何かと異動の知らせも賑やかに感じております。三月末を以って「卒業」など、それまでの活動に終止符を打ち、この四月から新生活・新しい門出を迎えられる方も多いのではないかと思います。まずは、お疲れ様でした(ちょっと早いかな)。私も昨年11月半ばから続いている降雪予報期間のゴールが近づいてきました。

 さて、昭和から平成、平成から令和に移り変わるにつれて、世の中の在り様は怒涛の如く変化しています。まさに「VUCA時代」と言う言葉に象徴されるように、従来の常識を覆すような社会変化が次々と起こっており、今となっては「将来」を予測するのが困難な状況です。

 この「VUCA(ブーカ)」とは「Volatility:変動性,Uncertainty:不確実性,Complexity:複雑性,Ambiguity:曖昧性」を組み合わせた用語です。現代の状況を端的に表す4つのキーワードともいえるでしょう。まるで「下りのエスカレータをひたすら上っている」ような錯覚さえ覚えます。

 このような時代の流れの中で変化を拒み続けることは、最早「保守的」や「停滞」所の話ではなく、確実な「衰退」を意味します。さらに時代の変化に伴い「加速度」も加わります。従って、この現代を生きていくためには、常に「学び、考え、行動し、成長する」ことが必要です。そして、この積み重ねこそが「努力」です。人は何のために学ぶのか。それは、このような激流の中を「生きるため、生き抜いていくため」と言っても過言では無いでしょう。

 ところで、巷では「○○ガチャ」と言う言葉が流行しているようです。この言葉を使うことには賛否両論ありますが、私は肯定的に捉えています。要は「人に与えられる条件は必ずしも平等ではない」と言う本質を、カジュアルに表現したものです。別の言い方をすれば、人生には「自分の努力ではどうにもならない」要素が多いと言うことです。

 確かに「ガチャ」に当たった人は幸運であり、「ガチャ」に外れた人は不運と言えますが、そもそも人生の「ガチャ」は無数にあります。ある「ガチャ」には当たれども、別の「ガチャ」には外れることもあり得ます。とは言え周囲を見渡せば、「当たりガチャ」が多い人もいれば、「外れガチャ」の多い人もいます。「やはり、人に与えられる条件は平等ではないのだ」とあらためて実感します。

 しかし、「それならしょうがない」とばかりに、いつまでも同じ所に留まって、ボーッと救いの手を待っていても、誰かが手を差し伸べてくれるわけではありません。それこそ「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と言われるのがオチでしょう。「ガチャ」に外れたならば、その不運を乗り越えるための「努力」が必要です。しかし、「ガチャ」に当たったとしても、やはりその幸運を活かすための「努力」は必要です。

 もちろん「ガチャ」と言うのは「努力ではどうにもならない」ものですが、「ある程度のダメージ・コントロール」はできるでしょう。いわば「運命」と言う名の荒波に乗るサーファーのようなイメージ、もしくは人生の「リスクマネジメント」とも言えるでしょう。努力は成功の必要条件なれど、十分条件ではありません。それでも努力を続ければ、どこかで道は開けるかも知れません。

 私も何かと「ガチャ」に振り回されることが多い人生と感じてます。一方、人生の節目・分かれ道において「天の見えざる手」によって導かれているではないか、と感じることもあります。ただし、ここで「天」とはいかなる存在かについては考えません(これは「宗教」の領域なので、宗教家の皆様にお任せします)。

 ふと、外に目を向けてみると「私たちの社会が多くの仕事によって構成されている」ことに気付きます。社会を構成する一人一人が各々の役割を担っており、各自の務めを果たすことで成り立っている、と言い換えることもできるでしょう。

 別に「社会」と言った大きなものに限りません。例えば、「オーケストラ」であれば、大きくは弦楽器・管楽器・打楽器に分けられ、さらに指揮者やソリスト、曲目によっては合唱団が加わることもあります。各々の奏者が譜面を通して与えられた旋律を奏でる事で、全体として壮大な音楽が作り出されます。また、「野球」や「サッカー」などの団体球技でも、様々なポジションがあり、その各々に固有の役割があるはずです。

 さらに、様々な意味でマジョリティが存在する一方、マイノリティも存在します。そして、それぞれに何らかの役割があるはずです。社会はまさに多様な人材多様な役割によって構成されています。この多様性こそが「ダイバーシティ」です。

 ただ、ここで悩ましいのは、個々人が「どのような役割を担ってこの世に生を受けたのか」つまりは「天によって与えられた役割(使命)」が判らない、と言うことです。予めそれが判っていれば、今更「何を学ぶべきか、どのような行動を起こすべきか」と迷うこともありません。しかし、現実は違います。それは、換言すれば「自らの創意工夫によって、自らの活路を切り開くことが可能」と言うことです。

 もし「大まかな役割(方向性)」は与えられていたとしても、その具体的な在り様は、時々刻々とその状況に応じて変わります。VUCA時代には「決まった答え」のない問題が山積しています。自分の役割を果たすといっても、その現れ方のヴァリエーションは無限にあるでしょう。

 そして、その活躍の「根源」となるのは、自らの中に構築される「知識・知恵の体系」すなわち「知のテーパ」です。そして、自らの中にどのような「知のテーパ」を構築するのか、それは人それぞれです。昨今のコロナ禍における制約もありますが、学び、考え、行動と成長を重ねることで、来るべき「アフターコロナ」に備えましょう。
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新年度(2021年度)の始まりを迎えて

2021年04月01日 | オピニオン・コメント
 いよいよ、新しい年度が始まりました。新年度あけましておめでとうございます。

 世相に目を向けると、未だコロナ禍の出口が見えない日が続いております。しかし、明けない夜はありません。いずれこの暗闇は終わりを告げることでしょう。問題は「その後(アフターコロナ)」どうするか。この点について、今から考え始めても早すぎることは無いでしょう。

 さて、私は地方の気象情報会社で予報業務に従事しています。創業時から参画しているので、もう十余年になるでしょうか(しかしながら、このgooブログの方が歴史は長いのです)。

 現在の主な専門分野は「山形県・新潟県の地域気象に関する数理モデルと情報システムの開発」です。所謂「テレビに出ている人」ではなく、情報処理技術者やデータアナリスト、R&Dに近いので、業種の分類も「情報サービス業」と名乗っています。

 日々の業務として、放送番組用の天気原稿の作成、地域行事の開催・運営に関わる気象予測や技術開発など、冬はさらに除雪作業のための降雪量や最低気温の予報も行います。その傍ら、熱流体計算や機械学習などの様々な計算処理を行うテクノロジーを研究・開発しています。独自の研究成果を学会発表や論文投稿で発表もしています。

 最近は経済学や経営学、金融工学と言ったビジネス分野にも関心を持ち、勉強しています。気象条件の変化が経済活動に及ぼす影響や気象情報を活用した経営上の意思決定やリスクマネジメントについて、何か役立つ道はないかと模索しています。また、地球温暖化を軸とした世界の趨勢にも目を向け始めています。日夜、自らの「知のテーパ」を構築し続けています。

 これまでは「ひとかどの専門家」となるべく、自らのコア・コンピタンスを確立しようと一心不乱に邁進してきました。まるで「悟りを求める修行僧」のような人生と呼べるかもしれません。この「孤独」と言うよりも「孤高」の道を歩んでいる内に、やがて「自分は後世に何を残せるのか」を考えるようになりました。

 今は、次の時代を生きる人々にとって「今後起こり得る様々な課題に立ち向かう際のヒントとなるような『知恵』や『アイデア』を残す」役割を担いたいと願っています。なぜなら、未来の課題は「決まった答え」のない問題が山積しているからです。

 もし、私が表舞台に立つことがあるならば、その時は何を伝えることができるのか。そのことも意識しながら、自らの研究開発を進め、知識・経験の棚卸や知の体系化を進めて行こうと思います。

 また、気象予報士をはじめ、「資格試験」は合格した瞬間に勉強が終わるわけではありません。試験合格の前後で学びのステージは変われど「学び」そのものに終わりはありません。

 試験に合格する迄は「資格を取得する」ための勉強です。その多くは「必修科目」であり、「何を学ぶか」は試験委員から既に与えられています。この段階では、共通して求められる基礎的能力を涵養します。

 試験に合格した後は「資格を活用する」ための勉強です。その多くは「選択科目」であり、「何を学ぶか」は自ら模索し続けなければなりません。この段階では、試行錯誤を通して自らの専門性(コア・コンピタンス)を追求します。

「努力した者が全て報われるとは限らん。しかし!成功した者は皆すべからく努力しておる」

 これは森川ジョージさんの漫画「はじめの一歩」の台詞だそうです。思わず「蓋し名言」と得心しました。努力は成功の必要条件なれど、十分条件ではない。それでも努力を続ければ、どこかで道は開けるのかも知れません。私の学びの旅も、まだまだ続きます。

 今の学びは「アフターコロナ」への投資でもあります。皆様にとっても、希望ある2021年度となることを祈念しております。
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知のテーパ

2021年03月29日 | オピニオン・コメント
 学びには大きく分けて2種類の形があります。それは「広く浅く」学ぶか、それとも「狭く深く」学ぶか、です。この両者を円柱のイメージで表すと、次のように描くことができます。



 さて、あらゆる分野の学問を「広く深く」学ぶには、人生の時間は短いものです。しかしながら、あらゆる分野の学問を「広く浅く」学ぶだけでは、「自らの核となる強み=コア・コンピタンス」を確立することはできません。そこで、現実的には「様々な広さと深さを組合わせた」学びに落ち着くことでしょう。



 まずは、自らの「専門分野」を軸として、これを最も深く突き詰めようとします。そしてその範囲は自ずと狭く限られてきます。円柱も細長いものになります。ただ、それだけでは不十分なので、専門分野に隣接する「関連分野」にも関心を広げていきます。専門分野ほどの深入りはしないものの、ある程度は深く掘り下げます。

 さらに、視野を広げる=幅広い教養と言う意味で「周辺分野」にも目を向けていきます。こちらは深く専門性を突き詰めるというよりも、広く基礎基本をしっかり学ぶイメージです。この円柱は平らに広がるような様相を呈します。

 上図の左側は、専門分野・関連分野・周辺分野の円柱を重ね合わせた状態です。階段状に凹凸が現れています。この凹凸は、学びを続けていくうちに、自ずと埋められていくので、最後は右側のような綺麗なテーパの形に仕上がります。私はこれを「知のテーパ(Taper of knowledge)」と呼んでいます。

 どのような分野を組み合わせて、どのような形の「知のテーパ」を構築するのかは人それぞれです。人間は学び続けることを通して、自らの「知のテーパ」を構築し続けているのです。
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「夏休み」が終わる時期なので

2019年08月23日 | オピニオン・コメント
 間もなく、子供達の「夏休み」が終わります。近年その時期に合わせて、新学期が始まるのを苦に自ら命を絶つ子供達の、痛ましく悲しいニュースが報じられる事が多いように感じます。

 もし、学校がそんなに辛い場所ならば、バックレても良いんじゃないか?とさえ思います。そのための社会的な受け皿も整ってきているようです。例えば「#学校ムリでもここあるよ」で紹介されています。

 このようなことを言うと、中には「困難から逃げてばかりではダメ、立ち向かって乗り越える事も必要」という意見もあるかも知れません。しかし、その「困難に立ち向かう」段階は「既に過ぎている」のです。それこそ「一時的な緊急避難」が必要な状態なのです。

 この問題に関連して、思いつくままに何点かコメントしたいと思います。以下の内容は、実は「かつての私」が誰かに教えて欲しかったことなのかも知れません。


■ 「逃げるが勝ち」も「危機管理」の一つ ■

 冒頭で(学校が死ぬほど辛いなら)「バックレても良いんじゃないか?」と述べました。もちろん「困難に耐えて、立ち向かい、克服する」ことも必要です。しかしながら、限界を超えてまで、我慢を強要する意味はありません。

 その場所にいることがもはや「危険」であるならば、その危険を「回避」するのは当然の対応です。これは立派な「危機管理」です。これは生き抜くためのスキルの一つです。例えていうなら、ブラック企業で死ぬまで働かされて過労死に追いやられる前に、水面下で転職活動をするのと同じです。「逃げるが勝ち」というのは立派な「生存戦略の一つ」です。

 本来「学校へ行くこと」それ自体は「目的」ではなく「手段」です。多くの優れた知識や貴重な体験を、体系的に効率良く「学ぶ」ための手段・環境として「学校」があるのです。そして、教科書の内容だけが勉強ではありません。

 色々な物・事・人と触れ合い、思考を重ね、感性を磨き、心身を育むこともまた、立派な「勉強」です。どのような形であれ「勉強」は継続した方が良いでしょう。勉強を通して、自らの視野・見聞を広げることで、より豊かな発想や視点から物事を俯瞰できるようになります。現在は「フリースクール」や「通信制高校」などの選択肢も充実しつつあります。


■ 「学校だけ」がこの世の全てじゃない ■

 自分の子供時代を振り返ってみると、実際に「学校の世界」と「家の中の世界」で過ごす時間が大半を占めていました。従って、この2つの世界が「自分の生きている世界」でした。確かに「学校の世界」が占めるウェイトは大きなものがあります。

 しかし、学校生活を卒業し、社会に出て、幾多の転職を経て、改めて冷静に考えてみると、小学校は「たかだか半径数kmの枠の世界」、中学校も「たかだか半径十数kmの枠の世界」、高校と言っても「たかだか半径数十kmの枠の世界」です。もちろん、地域によって枠の大きさは変わるのでしょうが、要するに学校という世界は「とても狭く、とても小さな、かつ閉鎖的」なものです。

 大人になって選挙の投票などで小学校に赴くと、校舎が「とても小さく、狭い」ことに驚きます。子供の頃「児童」と呼ばれていた頃の校舎は「とても大きく、広い世界」のように感じられたにも関わらず、です。自分が大人になってみると「当時はこんな小さな世界で過ごしていたのか」と改めて驚いてしまうのです。

 そう考えると、何も学校などの狭い枠の中だけに拘らず、その枠の外に居場所を求めるのも一つの方法であることに気付くのです。そして、そのような選択肢を提示できるのが、周囲の「大人」のアドバンテージではないかと思います。過去の記事で紹介した鎌倉市図書館の「学校が始まるのが死ぬほどツラかったら、図書館においで」という有名なツイートは、その良い例と言えるでしょう。

 また、学校などの枠の中で出会うのは、大抵は「たまたま同じ時期に、同じ地域(枠の中)で生まれた者」同士というだけです。そのような「限られた母集団」の中で「親友」と呼べる存在と出会える可能性は必ずしも高いわけではありません。もし出会えたならば、それはもう「非常に幸運」なことと言っても過言ではないでしょう。むしろ、日頃から挨拶と言葉を交わせる「級友」に出会えれば、それだけでも「御の字」としましょう。

 たまたま通っている学校で「親友」に出会えなかったとしても、それは別に悪い事でも、恥ずかしい事でも、何でもないのです。案外、そんなものです。むしろ、今この時をしっかりと生きることの積み重ねの方がよっぽど大切なのです。とにかく、自分の持ち味を存分に活かせる場所を見つけよう。そして、その場所は必ずしも「学校の中」にあるとは限りません。

 ちなみに、昭和歌謡に詳しい方なら、山口百恵さんが歌われた「いい日旅立ち」という有名な曲を御存知のことと思います。その一節に「ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」というフレーズがあります。「私を待ってる人」がいる場所は「日本のどこか」なのです。「地元のどこか」ではないのですね。

 ついでに、学校のスクールカースト上位を謳歌しているクラスメイトも、あと20~30年もすれば「中年」の仲間入りです。今は仮にイケていようが、いなかろうが、そんなことは一切関係なく、やがては皆「おじさん」「おばさん」になるのです。その時には、かつて「スクールカーストの上位だった」という事実も、もはや些細なエピソードに過ぎず、ささやかな「過去の栄光」でしかなくなるのです。


■ 世の中には「色々な選択肢」があることを知ろう ■

 今「学校に友達がいない、居場所がない、自分に価値を見いだせない・・・」と悩んでいたとしても、その「今」が永遠に続くわけではありません。何か一つでも、自分が興味を持って打ち込めるもの、得意になれるものがあれば、きっと変われます。何か一つでも、突破口が見つかれば、そこから自ずと道は開けます(私もそうだったから)。

 ただし、そのためには、色々な物・事・人・価値観に触れること、すなわち広い意味での「勉強」が必要です。「自分が思っている以上に多種多様な選択肢が存在する」と言う事実を、まずは「知る」ことです。そして、重要なのは、本人が選んだ「選択肢」に関する「良き理解者」の存在です。ただ、これはもう巡り合わせなんですがね・・・。

 必ずしも身近な大人が「良き理解者」になれるとは限りません。どんな大人であっても、この世の中のありとあらゆる分野に精通しているわけではありません。それにも関わらず(狭量な価値観で)闇雲に「周囲と同じであること」「普通であること」などを強要し「かくあるべき」と同調圧力を行使すれば、子供は次第に逃げ場を失ってしまいます。

 そうすると、もし仮に「より良い選択肢」が他にあったとしても、みすみすそれを見逃してしまうことになりかねないのです。これは大変な機会損失です。だからこそ「第三者的な立場の信頼できる大人」の存在が必要になるのです。そのためには、大人の側もまた勉強し、自らの視野を広げ、知識をアップデートする努力を続ける必要があるでしょう。

 そのような意味で、私が子供の頃に比べれば、現代はとても良い時代になったと思います。なぜなら、ネットでちょっとググる(検索する)だけで、色々な情報や多様な価値観・意見に触れることができるわけですから。

 もちろん、ネットの情報は「玉石混交」なので、その内容を吟味する必要はあるでしょう。ただ、そのようなリスクはあっても「多様な考え方・選択肢があるのだ」と知ることができるだけで、精神的な支えとなり得るのです。

 私が子供の頃は、そもそもネットのインフラは無かったので、周囲の意見や価値観が絶対的な存在でした。その後、大学に進学して、全国から集まってきた学友たちと触れ合う中で、様々な価値観があることを知り、次第に感化されていきました。ちなみに、インターネットが当たり前になってきたのは、私が大学生の頃でした。

 もともと小学生の頃の私は病弱で、学校を欠席することが多く、友達も少なく、もちろん勉強にも殆どついていけない有様でした。当然、外で元気よく遊ぶこともままならず、内に篭ることが多い子供でした。そんな私が興味を持ったのは、たまたま家にあった「マイコン(今で言う所のPC)」です。見様見真似でBASICのプログラムを書いて、自作のゲームを動かすことに熱中したものです。しかし、当時はマイコンはあまり普及しておらず、周囲にマイコンの話で盛り上がれる同士もいませんでした(今なら「SNS」や「BBS」があるというのに!)。

 そんな私の趣味に理解を示し、励ましてくれた理解者が二人いらっしゃいます。まずは小6の時の担任の先生です。その先生自身も工科系の大学の御出身で、マイコンの勉強をされていたこともあり、私にとっては良き理解者となって頂きました。そして、小学校高学年時には、公共の学童施設に「マイコンクラブ」と言うものがあり、そのクラブに所属してプログラミングを学びました。そのクラブの先生にも大変お世話になりました。

 この時期に培ったプログラミングのセンスが、後々の熱流体シミュレーションや人工知能の数値モデルの開発に役立つことなど、当時は知る由もありませんでした。人生、何が役に立つかは判らないものです。「無用の用」の良い例ですね。


■ 人間関係は「移り変わる」もの ■

 今や時代も移り変わり、誰もが「生まれた地域で人生が完結する」とは限りません。時代や環境の変化のスピードが増している現在において、このような変化に対応できないことは言うまでもなくディスアドバンテージです。このような所にも「ダーウィンの進化論」が当てはまりそうですね。

 さて、人間は死ぬまで成長し得る存在です。その成長のステージにおいて当然、価値観は変わり、自らを取り巻く環境もどんどん変化して行きます。それに伴って、人間関係もまた様変わりします。小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学から社会人、そして転職云々と自らのステージが変化する度に、住む場所や人間関係は激変(シャッフル)します。そして、それは自然なことなのです。これはもう「時の流れ」に委ねるしかないでしょう。

 人間関係はかくも「流動的」なものです。だからこそ、その時々で最善を尽くすだけです。日々、努力と精進を重ね、人事を尽くし、天命を待つのみ。大切なのは「今在る仲間」と「今この瞬間を共に生きる」ことに「最善を尽くす」ことであり、その後の展開は「天」に委ね、後は時の流れに身を任せるのみです。

 人生とは常に「アップデート」を繰り返すプロセスなのだと、言い換えることもできるでしょう。極論を言えば「竹馬の友」というのは一種の「ファンタジー」なのだと思います。そこには「こうだったら良いな」と言うような、いわば「永遠の友情」「不変の友情」のような理想や願望が込められています。だからこそ「美しきファンタジー」なのです。そして「友達100人できるかな~♪」もまた「ファンタジー」です。

 蛇足ですが、結婚式を考えてみると、夫婦となる二人は招待客や神仏の前で「永遠の愛」を誓うわけです。ところが「3組に1組」の割合で離婚に至るそうです。わざわざ神仏に誓ったにも関わらず、様々な事情でその誓いとは異なる結末を迎えるのです。「永遠の○○」と言うのは、かくも難しいものなのです。従って、今ある御縁に素直に感謝し、今この瞬間を大切にすることに意識を向けた方が良いのではないでしょうか。

 随分と夢のない話を述べましたが、一旦は別々の道を歩んでいても、いつかどこかで再会する機会があるかもしれません。その時に恥ずかしくない自分でありたいと思います。


■ 友達は「つくる」ものではない ■

 結婚式や離婚の話題を引き合いに出したので、ついでに「フォーリンラブ(fall in love)」という言葉は、誰しも一度は聞いたことがあるでしょう。「恋に落ちる」という意味です。そう、「恋」は「落ちる」もの、すなわち「いつの間にかそうなっている」ものであり、わざわざ「つくる」ものではありません。

 友情などもまた然りで「人間関係」というのは、あくまで人と人との「関係」であり、その「現在の状態」に過ぎません。日頃から挨拶と言葉を交わしている内に、いつしか「近しい関係」の状態になるのです(詳しい事は「ザイアンスの法則」や「単純接触効果」と言うキーワードでググって見て下さい)。

 この観点から、友達を「つくる」、恋人を「つくる」などと言った表現には正直、違和感を覚えます。意識して「つくる」ことができるのは、あくまで出会いの「機会」に他なりません。しかし、機会ができたからと言って「関係も構築できる」という「保証」は全くありません。

 従って、上手くいかなかったからと言って、いちいち悲観する必要もありませんさっさと次の機会に移れば良いだけの話です。「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」と言うでしょう。


■ 「失敗する」のも良いことだ ■

 さて、「良い子」と言うと、どのような子供をイメージするでしょうか。例えば「学校では仲の良い友達が多く、健康で運動も抜群で、しかも勉強もできて、素直で優しく、異性にもモテて・・・等々」という感じでしょうか。アニメ「ドラえもん」の登場人物で言えば、「出木杉」君や「しずか」ちゃんのようなイメージが近いかもしれません。

 ちなみに、かつての私は「のび太」君が一番近いです。のび太君との相違点を上げると、のび太君は健康のようですが、子供の頃の私は病弱でした。そして、のび太君の傍には「ドラえもん」がいて、良き親友として助けてくれます。一方、当時の私には傍に寄り添ってくれる存在さえ無かったのです。

 正直、当時の私の有様から今の姿を想像することは、おそらく誰にもできなかったことでしょう。当の本人ですら想像できませんでした。そんな私が言えるのは「未来への望みを捨ててはいけない」ということです。何か一つでも突破口が見つかれば、そこから自ずと道は開けます。そして、もう一つ、大切なことがあります。

 「成功する」のは良いことだ。「失敗する」のも良いことだ。成功すれば自信につながり、失敗すれば学びにつながる。

 成功が良いことなのは自然なことです。しかし、「失敗をポジティブに捉える」という発想は余り無いのではないでしょうか。ビジネスやスポーツの試合、音楽のコンクールなど「失敗が許されない」局面というのは確かに存在します。そして、その「本番」に備えるために入念に準備をしたり、トレーニングや練習を重ねるわけです。

 とは言え、最初から何でも上手くできるとは限りません。勉強でも、運動でも、周囲との交流でも、器用にこなす人もいれば、なかなか不器用な人もいるものです。そして、その「上手くいかないこと」を安易に非難したり、馬鹿にする人のなんと多いことか。子供の場合は精神も未熟なので、他者への配慮が欠けていることも往々にしてあるでしょう。そればかりか、周囲の大人でさえこのような有様、と言うこともあるのです。

 そもそも、数多くの「失敗」を繰り返すことで、「どこが行けなかったのか」「どうすれば上手くいくのか」経験を通じて学ぶことができるのです。いわば、このような「試行錯誤」のプロセスを経て、人は成長を積み重ねて行くのです。これが「学習」の本質です

 そして、人だけではなく、今や脚光を浴びている人工知能(AI)もまた然りです。ニューラルネットワークの学習では、莫大な数の「試行錯誤」を、圧倒的な「速度」で繰り返しながら、自らの「最適化」を図っているのです。そもそもニューラルネットワークは「脳の神経細胞の働き」を数理モデル化したものです。つまり、脳がどうやって「学習」するのか、その仕組みをコンピュータ上で再現しているのです。

 言わば何度も失敗を繰り返しながら、その結果をフィードバックし、学習を重ねることで、次第に上達・成長して行くのです。すなわち、「失敗」は学習の大切な「プロセス」なのです。失敗することは必ずしも「恥ずかしい」ことではないのです。失敗できる内にドンドン失敗して、その経験を糧に上達・成長して行けば良いのです。その中で、自分が興味を持って打ち込めるもの、得意になれるもの、つまり「突破口」を見つけて行けば良いのではないでしょうか。


■ とりあえず、立ち止まってみよう ■

 生きとし生けるものはすべからく、遅かれ早かれいつかは「最期の時を迎える」のです。だから「死に急ぐ」ことを考えるのではなく「まずは立ち止まって、違った環境に身を置いても良いんじゃない?」と提案したいのです。これが冒頭の「バックレる」の意味です。今は見えないのかも知れませんが、きっと他に「選択肢」はあるのです。まずは焦らずに、それを見つけましょうよ。

 人生の寄り道や回り道は必ずしも無駄なこととは限りません。むしろ、人間としての幅や深みを持たせる「肥やし」にさえなり得るのです。もっとも、そのような発想の転換を図ることができる「良き理解者」が身近にいると良いんだけどなあ。

 現実問題として「一人の人間」があらゆる分野をカバーすることは無理です。だからこそ、多くの「理解ある指導者」によるアプローチが必要なのです。その意味では「学校」も当然必要ですが、「その他の選択肢」となり得る存在もまた必要なのです。それは、塾や予備校かも知れないし、フリースクールや通信制学校、または外部のサークルや団体なのかも知れません。

 そして、「理解ある大人」に出会うことができたならば、今度は自分が将来、悩める若人たちの「良き羅針盤」になれるよう目指して欲しい、と願っています。
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コアコンピタンスのポートフォリオ

2019年05月28日 | オピニオン・コメント
 このブログは本日をもって、開設より4900日目を迎えました。
 
 そんな日に、一つ気になる記事を見つけました。
 NEC、創薬事業に本格参入 AI活用、新型がんワクチン (gooニュース・共同通信)

 記事によると、NEC(日本電気株式会社)がAIを用いて創薬分野に参入するそうです。私にとって「NEC」と言えば、やはり「PC-9801」シリーズなどに代表されるコンピュータやOA機器のイメージが強いです。子供の頃は「PC-6001mkII」「PC-8801FA」「PC-9801F2」などに触れ、プログラミングに親しんだものです。

 さて、現在では、様々な電気・電子・機械メーカーが医薬品事業に参入するなど、従来の専門分野の垣根を越えて異業種参入する動きが見られます。その内、気象情報分野への異業種参入も珍しい事では無くなるでしょう。見方によっては、既に始まっていると言っても良いかもしれません。私も元々「気象学」ではなく「工学系」に身を置いていたので、「異分野参入組」と言えるでしょう。

 かつて、半導体事業に従事していた頃、当時の経営幹部から「これからは各自の『コアコンピタンス』が大事だ」と力説されたものです。この考え方については、私も同意見です。

 さらにこれからの時代は、自分のコアコンピタンス、もしくは「専門分野」と呼べるものは少なくとも「複数」必要になるでしょう。それらの専門分野(コアコンピタンス)について「フレキシブルなポートフォリオ」を確立することが求められるのではないか、と思います。

 ビジネスの世界は常に変化しています。一旦ポートフォリオを確立したからと言って、それがいつまでも通用するとは限りません。事業の対象分野がガラッと変わってしまうことも珍しくありません。どのような分野にも対応し得る基礎を固めつつ、様々な応用分野に目を向け、チャレンジし続けることが求められる時代になって来ているように感じます。

 さらに、巷では「AI」という言葉が「流行のファッション」のように使われています。周知の通り、AI(人工知能)は過去の蓄積された情報を基に類推・判断する事に長けています。つまり「与えられた問題を解く」事については、物凄い能力を持っています。これからの人間の役割は、むしろ「AIに解いてもらう問題」を見出すことにシフトすることになるでしょう。

 社会やビジネスの多様化は、それまでの細分化された専門分野を幾つも横断・融合するような課題を有しています。複数の分野から成るポートフォリオによって、新たに解くべき問題を見出す・・・例えば、Aの分野とBの分野を組み合わせたCという問題を設定する所までは人間が担い、それを解くのはAIに委ねる(人間がやると途方もなく骨の折れる仕事)という流れになるでしょう。

 何となく、そんなことを感じました。
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謹んで新時代「令和」のお慶びを申し上げます

2019年05月01日 | オピニオン・コメント
 美しき黄金週間に加え、改元と言う歴史的な出来事の調和もあり、世間は年末年始のような盛り上がりを見せているように感じます。超長期休暇を満喫される方もいれば、休日返上の繁忙期となっている方もいらっしゃることでしょう。

 年末年始(大晦日~元日)や年度末年度始(3月末日~4月1日)も節目ではありますが、これらは毎年のように訪れる周期的な節目です。しかし、改元は数十年に一度の歴史的な節目と言うこともあり、感慨深いものであります。

 これまでの自らの人生を振り返ってみると、昭和時代を小学校で過ごし、平成時代の始まりと共に中学校に進学し、それから学生時代を経て社会に飛び立ち、幾多の紆余曲折を経て今日に至ります。人生の過半数を過ごした平成時代は、言わば自らの基礎・基盤を固め、進むべき専門分野を確立すべく、自己研鑽と修行を重ね続けた時期であったように思います。そして、これから始まる令和の時代は、さらに次のステージに挑む時期になるかも知れません。

 さて、国内外の情勢に目を向けると、ネガティブな話題の多さに目を背けたくなることがあります。ナショナリズムとグローバル・スタンダードの対立も去ることながら、様々な思想や価値観のバランスを如何に調整するのか、難しい問題が山積しています。新元号「令和」は英訳すると「beautiful harmony(美しい調和)」。この言葉の通り、多くの問題に対して「美しい調和」の光が届くことを祈念して止みません。
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気象情報を企業活動に活かす仕組み?

2019年01月11日 | オピニオン・コメント

 最近は「天候リスクマネジメントへのアンサンブル予報の活用に関する調査」の報告書に加えて、「企業の天候リスクと中長期気象予報の活用に関する調査」の報告書を少しずつ読み進めています。

 これらの資料は過去にも何度か読書にトライしましたが、予備知識に乏しく途中で挫折しておりました。しかし、ビジネス社会における実務経験や気象業務の知識・経験に加えて、新たに経済学や金融工学の基礎を学んだことで、ようやく読み解くことができつつあります。理解できる内容が増えてくるにつれ、自分の思考も深まって行くのを感じます。それでも「読書百篇」の言葉通り、引き続き何度も読み返すことになりそうです。

 さて、前回の記事でも書きましたが、私が専門領域として掲げているのは「計算・局地気象分野」と「経済・金融気象分野」です。これは、下図のように、大きく分けて3つのキーワードから構成されています。


 まずは「地域気象」です。地域に根差した「どローカル気象」を対象として、予報・解析・研究を行うという考え方です。

 続いて「数値シミュレーション」です。対象地域の局地気象特性を調べ、その知見を基に解析モデルを構築し、様々なデータと組み合わせて予報・解析・研究するものです。私は、その実現のために「熱流体解析(ラージ・エディ・シミュレーション)」や「人工知能(ニューラル・ネットワーク)」などの数値解析を用いています。

 そして残るのが「数理ファイナンス」です。これは「気象情報をビジネスに活用する」と言う考え方です。ビジネスにおける「天候リスクマネジメント」と言っても良いでしょう。その一環として、天候デリバティブの研究に取り組んでいます。事業を進めていく上で潜在的に存在する天候リスクの分析(計量化)、すなわち天候リスクの「見える化」を図る必要があります。このための手法について、天候デリバティブのプライシングの考え方には大いに学ぶものがあると考えています。

 以前は「地域気象」と「数値シミュレーション」を組み合わせた「計算・局地気象分野」に重点的に注力してきましたが、近年は新たに「地域気象」と「数理ファイナンス」を加えた「経済・金融気象分野」に取り組んでいます。一見、これらの分野はバラバラに独立しているようにも見えますが、下図のように連携することができます。換言すれば、「気象情報を企業活動に活かす仕組み」の姿を模索しているのです。


 気象に関するデータは大きく分けて、観測データと予測データがあります。過去の観測データの分析を通じて、地域気象の特性を明らかにすることは、地域気象の情報サービスを担う上で重要なコアとなるでしょう。さらに、その知見と種々の予測データを組み合わせることで、地域に根差した詳細な予測情報を提供することも、気象情報会社には求められます。

 そして、経営・財務・事業データと気象データを組み合わせて分析することにより、当該地域において事業を進める際の天候リスクを把握することもまた重要です。公共性の高い分野の例としては防災・減災がまず挙げられますが、それに留まらず、より身近なビジネスにおいても天候リスクを抱えている事業は少なくありません。自社の事業動向が天候の影響に左右されると言う認識を「何となく感じる」段階から、ある程度「計量化」して「見える化」を図り、定量的に把握するニーズが高まるかもしれません。

 その大きな目的は「収益の安定化」です。天候によって収益の動向が振り回されるのは、ある程度は致し方ないにせよ、その振れ幅(金融工学的にはボラティリティ)を小さくすることで、収益のアップダウン(リスク)をより安定的にキープできる可能性があります。そのためのリスクヘッジ手法として、様々な金融手法が開発されつつあります。また、単に金融手法に頼るばかりでなく、気象情報を有効に活用できる可能性も広がって来ています。

 このような「気象情報を企業活動に活かす仕組み」についても検討・研究を重ねて行きたいと考えています。

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鬼の居ぬ間に・・・いや、雪の降らぬ間に、書く。

2018年12月15日 | オピニオン・コメント

 天気図上でも「冬型の気圧配置」が頻繁に現れるようになりました。この時期は、毎年恒例の「降雪量の予報」が重く圧し掛かります。この他にもローカルメディアの番組に向けた原稿の執筆などもあり、一年の中でも最もビジーなシーズンが始まりました。

 これらのルーティン・ワークの傍らで、最近は時間の合間を見ながら「天候リスクマネジメントへのアンサンブル予報の活用に関する調査」の報告書を少しずつ読んでいます。この調査は、平成13年~14年度に気象庁が経済産業省と連携して実施したものです。気象の変化が事業に与える影響やリスクヘッジのための気象情報の活用と言った視点で、様々な分析やアプローチが行われております。

 確かに「気象情報をビジネスに活用する」を言う発想は以前からありましたが、ニーズとシーズのミスマッチや予測限界などの課題もあり、気象情報サービス産業の市場規模は300億を超える程度で停滞する状態が続いておりました。しかしながら、気象情報をビジネスに活用することへの潜在的なニーズの高まりや気象予測技術の発展も後押しとなって、気象ビジネス推進コンソーシアム(WXBC)が、昨年の3月に立ち上がりました。

 これまでも「気象情報をビジネスに活用したい」と言う潜在的ニーズはありましたが、それらに応えられるだけのソフト&ハード両面のインフラが漸く今、徐々に整いつつあるのかも知れません。いわば「現実が漸く理想に追いつき始めた」と言うのが率直な感想です。

 かつて気象業務法が改正され、気象予報士制度が創設されるに至った背景にもまた、「気象情報をビジネスに活用する」と言う潜在的なニーズがあったものと認識しております。つまり、「欲しい時に、欲しい所の、詳しい気象情報」を民間企業が独自に提供するためのライセンス制度です。これを「街の予報官」と言うキャッチコピーで触れ回る通信講座もあったほどです。しかし、気象情報サービス産業の市場規模は先述の通り、停滞~漸増と言う状況が続いています。

 その一方で、気象情報をビジネスに活用する方向性とは別に、防災分野における気象予報士の活躍の場を広げる動きが活発になっています。例えば気象庁では、気象予報士などを対象に「気象防災アドバイザー」を育成する研修を実施しました。地方公共団体の防災の現場で即戦力となる気象防災の専門家を育成することを目的としたものです。

 これに留まらず、(一社)日本気象予報士会では、各地の気象台で実施される「お天気フェア」のイベントへの協力や、各地の気象台と連携して防災知識の普及を目的とした出前講座を実施しています。地域の皆様に対し、一般的な気象に関する知識を広め、理解を深めて頂くことは、グラスルーツ(草の根)の防災啓蒙活動と言えるでしょう。個人的な印象としては、どちらかと言うとビジネス面への応用と言うよりも、広く防災面の啓蒙活動の方にベクトルが向いているように感じています。

 さて、私が専門領域として掲げているのは「計算・局地気象分野」と「経済・金融気象分野」です。これは大きく分けて3つのキーワードから構成されています。



 一つは「地域気象」です。山形県の冬の気象への取り組みに代表されるように、あくまでも地域に根差した「どローカル気象」を対象として、予報・解析・研究を行っています。従って、気候変動や地球温暖化などの話には余り詳しくありません。

 続いては「数値シミュレーション」です。過去の記事「一人の『工学屋』のポジションから『局地気象』に向き合う」でも述べたように、気象予報士は「対象地域の局地気象特性を調べ、その知見を基に解析モデルを構築し、気象庁等から発表される様々なデータと組み合わせて予報できる」人材であると考えています。

 私は、その実現のために「熱流体解析」や「人工知能」などの数値解析を用いています。その取り組みの詳細については「計算・局地気象分野」のカテゴリをご参考下さい。

 そして3つ目が「数理ファイナンス」です。地域に根差した気象情報を発信するために、地域の気象に関する研究・解析を重ねて、予報を行うわけです。そこで、改めて考える必要があるのは、そのような詳細な「どローカル気象情報」が必要とされるのは何故か?と言うことです。どこに向けて発信し、どのように役立てていくのか。

 確かに、地域の防災に役立てる意味はありますし、地域のコミュニティ放送でも役に立てるでしょう。他には何があるのか・・・。ここで答えに詰まってしまうと、それこそ「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と、5歳児のチコちゃんに叱られてしまいます。

 そこで「気象情報をビジネスに活用する」と言う原点に立ち戻るのです。気象データの解析や局地気象の予測を行い、さらに「その知見を様々なビジネスに活用する」こと。これが、気象予報士の活躍するフィールドになると思います。そこまでを見据えたときに、ビジネスにおける気象情報の活用の意味を改めて考えると「マーケティング」と「リスクマネジメント」が大きな所ではないかと考えます。

 とは言え「マーケティング」もまた「売れ筋商品の潜在的なニーズの変動」と捉えれば、これもまた一つの変動し得る「天候リスク」になるので、究極の所「天候リスクマネジメント」に収斂するでしょう。

 気象要素の変動の幅を早い段階で予測することができれば、その範囲で必要な対応策を講じることができる、と言うことです。株価などの変動の幅を予測する上で用いられるのが金融工学ですが、気象要素は物理法則に則ってある程度は予測可能です。しかしながら、現時点では金融工学的手法に負う所が大きいのではないか、と感じております。その基礎理論にも登場する確率微分方程式を数値解析で解く、というものまた興味深い研究分野です。

 また、実際の事業計画に際しては、意思決定からその効果が発現するまでの時間(リード・タイム)が短期間であれば「ウェザー・マーチャン・ダイジング」、長期間であるならば「ウェザー・デリバティブ」などの使い分けも可能です。

 さらに、最近は長期予報の情報も充実してきています。本業では余り長期予報を扱わないのですが、特に2週間~1か月程度の中長期予報の予測データ(GPV&ガイダンス)に関する高解像度化が進んでいます。このようなデータを用いたウェザー・リスクマネジメントに関する研究にも取り組んでみたいと思っています。

 この冬は『会社のスタッフ』の本業としては、降雪予報やローカルメディアの気象担当、その他諸々など、ビジーな日々を過ごしております。しかし、それは私にとっては「ホンの一部」に他なりません。本業の枠にとらわれることなく、『一人の専門家』として「地域気象の数値シミュレーションから、地域における天候リスクマネジメントまでを俯瞰できるようなビジネスモデル」にも取り組んでみたいと考えています。

 さて、来る2019年2月24日には、(一社)日本気象予報士会「第11回研究成果発表会」が開催されます。先日、正式に発表の申込手続を完了しました。今回は「天候デリバティブ」に関する演題でエントリーしました。十数年前、余りの難解さに「天候デリバティブ」を学ぶことを一旦は放棄した私ですが、そのような経験を持つからこそ「天候デリバティブの考え方について少しでも判りやすく解説したい」という熱い想いを持って挑みたいと思います。

 このような私の取り組みは、気象界の中でも正に「グラスルーツ」です。もとい、見過ごされがちな雑草のような存在です。しかし、そこから新しいイノベーションにつながれば、何か飛躍のチャンスが巡ってくるのではないか、と感じております。少しでも興味を持って頂けたら、嬉しいです。

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AIやロボットが労働を担う時代

2018年10月07日 | オピニオン・コメント
NHKスペシャル(2018年10月07日)
マネー・ワールド ~資本主義の未来~ 第2集 仕事がなくなる!?
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20181007

 人間の仕事のほとんどがAIに奪われる・・・そのような危機を煽られながら、歴史上の出来事が幾つか脳裏に浮かんできました。

 中世の日本における武士の主従関係、すなわち「御恩と奉公」の体制が確立したのは、鎌倉幕府の頃と言われています。将軍(鎌倉殿)と御家人は、互いに「ギヴ・アンド・デイク」の関係が成立しています。しかし、元寇の後の御家人への恩賞給与は僅かに留まったことなどから、この「ギヴ・アンド・デイク」の関係に綻びが生じました。御家人は次第にの経済的に圧迫され、幕府に対して不満を持つようになりました。この結果、鎌倉幕府の滅亡にまで発展しました。

 また、19世紀初頭のイギリスでは、資本家は労働者に賃金を与え、労働者は資本家のために労働を担っていました。資本家と労働者は、互いに「ギヴ・アンド・デイク」の関係が成立しています。さて、産業革命によって生産の機械化が進み、生産労働が人間から機械にシフトすることで、こちらも「ギヴ・アンド・デイク」の関係に綻びが生じました。労働者の失業不安は次第に高まり、機械化の波に抵抗する機運も高まりました。この結果、ラッダイト運動の嵐が巻き起こりました。

 現在の資本主義社会でも、資本家は労働者に賃金を与え、労働者は資本家のために労働を担っています。資本家と労働者は互いに「ギヴ・アンド・デイク」の関係が成立しています。さて、AIによる業務の自動化・効率化が進み、多岐にわたる分野で、「ギヴ・アンド・デイク」の関係に綻びが生じ始めています。資本家は労働者に頼ることなく、AIやロボットを使って収益を上げることが出来ます。労働者は収入を得にくくなり、さらにレーゾンデートルも失われるような事態も予想されています。

 さらに、「レーゾンデートルの喪失」という点では、明治維新に伴う徴兵令の発布が思い浮かびます。この徴兵令の発布により、レーゾンデートルを失った士族(旧武士)達の不満が高まりました。そしてそれは、後の西南戦争にまで発展しました。

 人間による「財の消費」が無ければ、そもそも経済は回りません。収入を得られなければ、人間は消費行動を起こすことが難しくなります。また、レーゾンデートルが無ければ、人間は自らの社会的な居場所を見出すことが出来ません。

 経済活動の本質は「ギヴ・アンド・デイク」です。現在のビジネスにおける「ステークホルダー」としては大きく分けて「経営者・従業員・出資者・顧客」の四者が存在します。そして、この四者は互いに「ギヴ・アンド・デイク」の関係でつながっています。この中で、AIやロボットは「従業員」のポジションにはなれますが、その他のポジションにはなれません。

 人は誰でも「財の消費」を行う際は、「顧客」のポジションに立ちます。しかし、その前提として「財の消費」に対する「貨幣(対価)」を支払う必要があります。つまり、収入があることが前提となります。その収入を得るために、多くの人は「従業員」のポジションに立って、労働に従事しています。このポジションをAIやロボットに取って代わられることは、多くの人の「収入を得る手段」が断たれることにもなり得るのです。それはすなわち、経済活動の先細りにつながるリスクでもあるのです。すなわち、「賃金収入の減少→購買意欲の減少→経済活動(消費活動)の縮小→企業収益の減少→税収の減少」という負の連鎖になるでしょう。もちろん、少子化も加速するでしょう。

 将来を見据えて、「ベーシックインカム」など、何らかの対策を考えて行かないと、経済活動が立ち行かなくなる恐れもあるのではないか、と感じています。財源の確保については「法人税」がまず候補に挙がりますが、EUでは「ロボット税」を導入しているようです。また、AIやロボットによる業務効率化を活用して、国全体としてのGDPの向上を目指すという考え方もあるでしょう。単純に「AIに仕事を奪われる」等と目先の事をセンセーショナルに煽っている場合では無く、資本主義社会の体制や構造が大きく変わってしまうかも知れません。

 「AIが得意なことはAIに、人間が強い分野は人間に」「AIに奪われるのを恐れるのではなく、AIを使ってどんな事業を進めていくのか」と言った発想の転換が必要ではないでしょうか。

 例えば、事業の方向性を示し、計画に落とし込むまでは「人間」が行い、実際の現場の最前線の仕事を「AIやロボット」が担うのです。個々の細分化された業務は「AIやロボット」に任せ、それらを統括・監督する役割を「人間」が担えば良いのです。

 世間では「AI」は何やら「不気味な存在」のようなイメージで語られることが多いですが、結局の所「過去の蓄積」に依存します。蓄積された過去のデータを与えられ、その枠の中で学習・類推し、判断する存在です。この枠の中でパターン化された仕事に特化することで威力を発揮します。従って、ある程度パターン化、シーケンス化、あるいはルーティン化された「個々の細分化された業務」に強いのです。

 一方、人間は、枠にとらわれず自由に発想することができます。従って、パターンにとらわれず柔軟な発想で臨機応変に進められる分野については、AIに対して優位性をもつのです。パターンにとらわれず柔軟な発想で事業の方向性を示し、臨機応変に計画を修正し、不測の事態に対処するのは人間の範疇です。人間は機械とは異なり、自由な発想ができます。それは機械に比べて「アバウト」であり「いい加減」、さらに言えば「気まぐれ」な気質を持っているという事も出来ます。一見、ネガティブな言葉にも見えますが、見方を変えれば「AIに対する優位性」と捉えることもできるでしょう。

 進化論で有名なダーウィンの言葉とされているものに「強い者が残るのではなく、賢いものが生き残るのでもなく、変化に対応できるものが生き残る」があります。AIが台頭する時代は、社会が大きく変化する時代です。時々刻々と変化する社会の流れを見据えつつ、何が求められているのか、その要請に応えるためには何をどうすれば良いのか、それを常に考え、試行錯誤することが人間に役割なのかもしれません。その上で具体的な作業はAIにどんどん割り振って行くような分業体制になるのかな・・・と漠然と考えています。
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現時点では、人工知能は「道具」

2018年09月15日 | オピニオン・コメント
NHKスペシャル(2018年09月15日)
人工知能 天使か悪魔か 2018 未来がわかる その時あなたは…
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180915

 テレビをつけたら、たまたま放送していたので、そのまま見てました。人工知能が「なんだか得体の知れない存在」のように扱われていますが、要は「ビッグデータをそのように活用するか」の問題のようにも思えました。

 さて、「xを入力すると、yが出力される」という数量の関係を「y=f(x)」と表記するとき、入力と出力の橋渡しをする関係f(x)のことを「xの関数」と言います。人工知能は、多数のx(入力)と多数のy(出力)の関係を取り持つ関数のような存在です。単なる関数と異なるのは、「学習」を通して、自らを修正を図ることができる点でしょう。

 そもそもの本質は、膨大なデータを扱う「多変量解析」です。膨大なデータの中から規則性やパターンを見出し、それを定量的に関数化することができるのが大きな特徴です。イメージとしては、入力変数と出力変数の組合せ(x,y)のサンプルをたくさん用意して、それらの関係を最も上手く表現する関係「y=f(x)」を探し当てるものです。人工知能の場合は、この関係f(x)がとても複雑な形になっているものと考えると良いでしょう。

 また、人工知能が「なんだか得体の知れない存在」のように扱われるのは、この関係f(x)が良くわからないことも一つの要因でしょう。なぜ、そのような判断になるのか?それは、「入力されたパラメータを機械的に計算したらそうなった」と言うだけの話です。

 番組では、様々な人工知能の例が紹介されていましたが、視聴した限り、「何を入力変数(前提条件)として、何を出力変数(予測対象)とするのか」、その「パラメータの選定」を行っているのは人間です。また、「教師データ(学習すべきデータ)」を用意しているのも人間です。さらに、ニューラルネットワークの場合は、入力・出力共に0と1の「デジタル信号」の組合せです(私は0~1の間の実数の「アナログ信号」のように使っています)。

 多種多様な入力・出力の情報を人工知能(数値モデル)で扱えるような「数値データ」の形にどうやって変換するのか、その「変換方式(インターフェース?)」を開発するのも人間です。

 少なくとも現時点では、人工知能は「天使」でもなければ「悪魔」でもなく、新しい「道具」であると言うのが率直な感想です。大切なのは、この道具を使って「何を実現したいのか?」だと思います。
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最近の雑感

2017年09月22日 | オピニオン・コメント
 過去の記事「7月20日に考える「市場規模300億円の壁」」でも紹介しましたが、気象庁刊行の「気象業務はいま 2012」のp144には気象関連事業の年間総売上高と予報業務許可事業者数の推移がグラフとして示されています。1993年や2007年の気象業務法の改正などに伴って、事業者数は増加しておりますが、市場規模(年間総売上高)は300億円規模で停滞しています。

 一方、最近の予報業務許可事業者の参入状況(各社のWeb 等)を注視すると、ランチェスター戦略(選択と集中)に則った「特定分野への特化(差別化)」を図る事業者が多く見られます。今後、様々な新しいアプローチによって「市場規模300億円の壁」を超えて、気象関連事業が活性化することを期待したい所です。

 以前、起業志望者を対象とした創業セミナーに参加した際、経営コンサルタントの講師からは「これから伸びるのは気象業界だ」との指摘を頂きました。その趣旨は「気象の変化がこれまでとは違ったものに変わりつつあるので、事業を行う上でも過去の経験則や認識がそのまま適用できない。従って、予測が重要となる」と言うものでした。

 また、リスクマネジメントにおいても「回避」「軽減」「共有」「許容」の4つの対応策が挙げられます。例えば、ウェザーマーチャンダイジング(WMD)はリスクの「軽減」に相当し、ウェザーデリバティブ(WD)はリスクの「共有(移転)」に相当する、と私は理解しています。

 予測情報の提供および意思決定からその効果が発生するまでのリードタイム短期間であれば、(短期予報を基にした)WMDの方法論が適用できます。一方、リードタイムが長期間になれば、(長期予報や過去の観測値を基にした)WDを考えることになります。

 その他、発想の転換として例えば、同じ気象要因・変化傾向に対してポジティブな影響を受ける事業とネガティブな影響を受ける事業を組み合わせる事で、全体として(最低限の)安定した収益を確保できるような「事業ポートフォリオ」を検討する、というアイデアも浮上してきます。電力会社とガス会社のカラーオプションも一つの例と言えるでしょう。

 気象・気候の変動を観測・予測・解説するのみならず、その変化を見据えた上で、天候リスク対応策(取り得る選択肢)を創出するような事業が「近い将来伸びる業界、新しい職業」になり得るのではないか、と思います。

 現状、天気予報に関する業務は「観測・予報・解説」に大別されると思います。これが将来は「観測・予報・解説・応用(対応)」に拡張されるのではないか、と考えています。ただ、最後の「応用(対応)」について、私自身は未だ具体的なイメージを描けていないのが正直な所であり、現在の大きな課題の一つとなっています。

 そのような中、最近は人工知能(AI)による気象予測サービスが急速に成長しつつある事例を何かと見聞します。かくいう私自身、局地気象の特性を解析するために、三次元熱流体数値モデル(LES)ニューラルネットワーク(NRN)を開発・活用しています。その経験からAIは「道具」である、との認識を持っています。

 AIは「使用する側」の目的や手法に応じて、「利器」にも「凶器」にもなり得るものです。一方、人間は(AIの結果を信頼しつつも)最後は「自らの」意思で、覚悟を持って「決断」し、その結果に対して「責任」を持つことが出来る存在です。

 実は私自身、数少ない講演の際に「『予報』とは『決断』である」と述べたことがあります。つまり、未来における可能性を「予測」し、何を・どのように伝える(報じる)べきかを「決断」すると言う趣旨です。この中で「予測」それ自体はAIがその多くを担い得るとしても、「決断」するのはあくまで人間のテリトリーと考えます。なぜなら「決断」は「意思」と「責任」を伴うからです。

 さて、課題の設定から解決までの流れは、例えば次のようになります。

1.解決すべき課題を設定する
     ↓
2.様々な情報を分析・検討する
     ↓
3.取り得る選択肢を提示する
     ↓
4.意思を持って決断する
     ↓
5.その結果に対して責任を持つ

 この中で、人間は1~5の全てが可能ですが、AIは2と3が可能もとい、この分野で最も威力を発揮するものです。但し、解くべき課題や、そのルールを設定するのはあくまで「人間」のテリトリーです。

 また、私の知る範囲では、AIは「(膨大なデータから)パターンや規則性、あるいは定石のようなものを読み解いて、そこから類推・予測する技術」と認識しています。私の場合で言えば、例えば局地気象について、AI(NRN)の解析から「このような場合には、このような特徴が現れる」という傾向(結論)が判っても、ぞれでは「どのようなメカニズムでそうなるのか」と言う「結論までのプロセス」を解明するわけではありません。つまり、

NRN・・・どのような条件で、どのような特徴が現れるかの傾向 (結論)

LES・・・どのようなメカニズムで、そのような特徴が現れるのか (理由)

のように、目的に応じて数値モデルを使い分ける必要があります。

 以上を基にして、気象の挙動に関する予測をAIが行う未来が実現した場合、AIが導き出した気象の「予測」(結論)に対して、人間の範囲を考えると、一つの考え方としては・・・

 「なぜそのような結論に至るのか?」を担うのが「予報」のテリトリー

 「何を・どのように伝えるべきか?」を担うのが「解説」のテリトリー

 「情報をどのように活用すべきか?」を担うのが「応用」のテリトリー

と言った感じで考えています。あくまでこの分け方も漠然としたものであり、綺麗に境界線を引くことはできないでしょう。

 本来、気象業務法における「予報」とは「現象の予想の発表」であり、気象予報士の資格が必須となるのは「予報業務許可事業者において『現象の予想』を行う」場合だけです。しかし、現実に目を向けると、ただ単に「現象の予想の発表」だけで完結するようなビジネスモデルは限界に達しつつあり、それが「市場規模300億円の壁」という形で表面化しているのではないか、とさえ感じます。

 独自の技術やノウハウの基づく「現象の予想」やその「発表」を核としつつも、そこに新たな付加価値を創生・発信して行く段階にきているのかも知れません。

 気象予報士「1万人」時代を迎えた今、その活躍のフィールドを「予報業務許可事業者において『現象の予想』を行う」という狭い範囲に押し込めることは現実的ではないでしょう。むしろ、「現象の予想」も行うことが出来る知識・能力をどのように活用していくか、その新しい活躍の形を模索することで、次の時代の扉を開くことが出来るのではないでしょうか
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新年度を迎えて

2017年04月01日 | オピニオン・コメント
 この年度替わりの時期は何かと異動の知らせが賑やかなように感じております。

 三月末を以って「卒業」など、それまでの活動に終止符を打ち、この四月から新しい門出を迎えられる方も多いのではないかと思います。まずは、お疲れ様でした

 私の方は降雪予報に加え、CAMJの研究成果発表会や市民講座(まちなかカフェ)と言ったビッグイベントも終了し、達成感と安堵感を覚えつつ、引き続き、その他の業務を続けています。また、三月末日の電話出演を以って、通算100回目を達成しました。この春、私自身は特にこれと言った異動はありませんが、様々な形で新たなスタートを迎えられる方々のお話を見聞しております。

 さて、何かが終わる、ということは同時に、また新しい何かが始まることでもあります。しかし、この先、何がどのように展開するかはわかりません。ある意味、「博打」です。人生そのものが既に博打かも知れません

 年度の終わり・・・今はまだ寂しさもあるかも知れません。しかし、新年度が始まれば、また新たな博打が始まります。だからこそ、新年度を迎えたこの瞬間にこの台詞を言うのです。

 大博打の始まりじゃぁぁあああああ!!!
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7月20日に考える「市場規模300億円の壁」

2016年07月22日 | オピニオン・コメント
 先日の7月20日は、(一社)日本気象予報士会の設立満20周年に当たります。そのようなこともあり、気象情報サービス事業について少しお話してみたいと思います。

 一口に「気象情報」と言えば、やはり「防災・減災」が最重要なのは言うまでもないでしょう。また、「気象予報士」と言えば、やはりメディア等に登場して解説を行うスタイルをイメージされる方が多いと思います。しかし、実際には、「防災・減災」以外の多くの産業分野においても「天候リスク」は存在しますし、表舞台に登場しない(けれど、気象情報の第一線で活躍している)気象予報士も多くいます。

 現在、私が興味・関心を寄せているのは、この「多くの産業分野が抱えている天候リスクへの対応」です。誤解を恐れずに言うならば、私の置かれている「ビジネス・パーソン」という立場は、基本的には「全体の奉仕者」でなく、「一部の(クライアントを始めとするステークホルダーに対する)奉仕者」になります。どんな仕事もそうですが、まずは「お客様あっての商売」ですからね。

 もちろん「防災・減災」に無関心というわけでは決して無く、これも含めたより広い意味・広い範囲において、「クライアント」が抱える「天候リスクに関する諸問題」の解決・改善等を通して、相手(を始めとするステークホルダー)の利益のために貢献するものです。


 ここで、気象庁刊行の「気象業務はいま2012」の資料を参考にして、気象情報サービス事業の年間総売上高と事業者数の推移をグラフにしてみました。この間、1993年の気象業務法改正に伴い、第1回の気象予報士試験は1994年に実施され、また、2007の気象業務法の改正により、許可事業として行いうる予報に、それまでの「気象・波浪」に加えて「地震動」が新たに加わりました。

 これらの変化に伴って、事業者数は増加しておりますが、市場規模(年間総売上高)は300億円規模で停滞しています。私はこれを「市場規模300億円の壁」と呼んでいます。この「市場規模300億円の壁」が意味するものは「従来のやり方(ビジネスモデル)の限界」ではなかろうか、と思います。

 さて、リスクマネジメントにおける「リスク対応」には大きく分けて4種類の対応があります。それらは「リスクの回避」「リスクの低減」「リスクの共有(移転・分散)」そして「リスクの保有」です。産業分野で取り入れられつつあり「ウェザー・マーチャンダイジング」や「ウェザー・デリバティブ」と言う視点で考えてみると、「リスクの回避」および「リスクの低減」は「ウェザー・マーチャンダイジング」、そして「リスクの共有」は「ウェザー・デリバティブ」が該当するでしょう。

 「リスクの共有」はさらに「リスク移転」と「リスク分散」に細分化されます。「リスク移転」はコールオプションやプットオプションと言った形で、契約相手(保険会社など)に、文字通り「リスクを移転する」ものです。リスクを肩代わりしてもらうわけです。一方、「リスク分散」は、例えば(電力会社とガス会社間のように)スワップ取引の形を取ることで、リスクを互いにシェアし合うものです。これにより、個々の抱えるリスクは低減されます。

 また、(気象情報を用いた)意思決定からその効果が具体化するまでの「リード・タイム」も重要です。リードタイムが短期間(数日程度)であれば「ウェザー・マーチャンダイジング」の姿勢で対応できますが、リードタイムが長期間(数か月程度)になると「ウェザー・デリバティブ」を考えた方が現実的かもしれません。

 短期予報はある程度「決定論的な予報」が実用化されていますが、長期的な予報はどうしても「確率論的な予報」になってしまいます。ちなみに、金融工学は確率論に基づくリスク・リターンの議論をしているので、長期の確率論的な予報と親和性があるでしょう。

 しかしながら、現実問題としては、リスクの保有(リスクに対する対策は特に行わない)が最もポピュラーな選択肢となっているのが実情でしょう。その背景にあるのは、天候リスクに対する対応策とその効果を判り難い、そして気象情報の使い方が判り難い、という事情でないかと推察します。この辺のコスト・パフォーマンス等を判りやすい形で示すことができれば、「市場規模300億円の壁」をぶち破ることができるのではないかと期待しています。とは言え「言うは易く、行うは難し」の課題です。

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社会経験は信用の第一歩

2016年04月05日 | オピニオン・コメント
 4月になって社会人の仲間入りをされた新入社員の皆さんも、早くも導入研修がスタートしている頃でしょうか。今頃はきっと、学生と社会人の立場の違いに戸惑っていることも多いでしょう。職場の中でも戸惑いながら、時に躓きながら、または失敗して派手に叱られることもあるでしょう。

 実際の実務に携わるようになると、それこそ厳しい叱責の嵐にも揉まれ、辛く苦しい試練を乗り越える局面にも立たされるでしょう。そのような中で、どれだけ多くの事に気付き、学び、そして成長して行けるのか。その経験の真価が問われるのは、実はもう少し後になってから・・・なんですよね。

 入社したての頃は、早く専門的な業務や最先端の業務に従事したい!と気持ちばかりが先走ってしまうわけですが、まずは、「社会人」としての基礎をしっかりと確立することが、最初の仕事なんです。これからずっと、一つの業務だけをずっと継続していくとは限らないのです。多くの場合は、業務内容がガラリと変わってしまうこともあるでしょう。それでもなお、社会人としての立振舞いやビジネスマナーなど、社会人としての普遍的なスキル(ヒューマンスキル)が存在します。また、精神的な成熟度や打たれ強さもまた、社会人としては当然に求められるヒューマンスキルに含まれるでしょう。

 学生時代の勉強は、まだ自分一人の世界の中に閉じこもっていても完結できました。しかし、仕事はそうは行きません。「他者が自分に依頼する」または「自分が他者に依頼する」のどちらかの形を取るものです。つまり、仕事は「他者」の存在無くして成立することはあり得ません。その際、自分と相手との間のコミュニケーションを進めるに当たって共通の認識(コモンセンスが必要です。

 このコモンセンスを担うのが、「社会人」としてのヒューマンスキルです。これは業務経験を通じて鍛えるしかありません。そして、このヒューマンスキルなくして他者との信頼関係を構築することはできません。つまり、仕事を円滑に進めることはできません。他者との信頼関係を構築できなければいくら知識や能力があっても、それらを活かす場は、いつまでたっても誰からも、決して与えられません。当たり前の事です。信頼できない者に、大切な仕事を託す人などいないからです。

 社会人としての「基礎」が出来上がってはじめて、より高度かつ専門的な業務を担うプロフェッショナルとしての礎が培われて行くのです。専門的な知識や技術(テクニカルスキルは後からでも勉強できます。いや、勉強しなければならない状況に追い込まれます。また、業務経験を重ねてゆけば、先々この分野の知識が必要になるのではないか・・・と先を読むような感覚が研ぎ澄まされて行くことでしょう。

 結局、どのような業務に関わるにしても、社会人として「共通の成熟度」が求められるものであり、そのためには「それなりの社会経験」が前提となるのか必然なのです。最近つくづくそう感じます。しかも、社会人としての成熟度は、年齢や学歴は、ほとんど関係ありません(必要条件にはなり得ても、十分条件ではない)。どれだけの業務(実務)やチャレンジを経験し、苦労し、それを乗り越えて、成長し続けてきたのか・・・これを一言で言ってしまうと「社会経験」です。

 私も「社会人」として、さらに成長を続けていきたいと思っています。それが、巡り巡って、「信頼」にもつながっていくと思うのです。
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