計算気象予報士の「知のテーパ」

旧名の「こんなの解けるかーっ!?」から改名しました。

年度末・・・遂に力尽きる?

2008年03月29日 | 気象情報の現場から
 仙台・那覇の高層観測廃止問題については、CAMJ東北支部のMLやメールマガジンでも述べたので、改めてこのブログに・・・は書きません・・・。もうさすがに・・・疲れました

 あれ程の文章を読む(読まされる?)側もさぞお疲れの事だろうと思います。書いている側も莫大な知力・体力・神経を総動員して書いたので遂に疲れ果てました。

 ただ、今回の件を通じて、行政と民間のそれぞれの気象業務の在り方というものについて、真剣に考える事ができたのは「良し」としたいと思います。気象業務に関する諸問題に対して、気象庁や一般の皆様の間に立った視点で考え、必要に応じて意見を述べる事もまた、気象予報士の果たすべき役割なのかもしれません。

 まもなく、2007年度が終わります。新しい年度がもう、そこまで来ています。4月からは新年度が始ります・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「リアル」と「ヴァーチャル」の違い。「民間」と「行政」の違い。

2008年03月24日 | オピニオン・コメント
 かつて選挙の際に、国民は政治改革を望むと言う審判を下しました。公費の無駄遣いの削減を望んだのは事実です。しかし、それは今話題のガソリン税の問題に関連して明らかになっている道路特定財源の無駄遣い(マッサージチェアやら豪勢な丸抱え旅行やら)や訳の分からない公金の「裏金」等の不正を無くし、本当に必要な事業(社会福祉や医療を始め国民生活に必要な部分等)に経済資源を注入せよ、と意思表示であった筈。それがむしろ「無駄遣い」の方を守り、真の「公共の福祉」を蔑ろにするような流れになっては元も子もありません。折りしも国会関連のニュースを見ても、党利党略の駆け引きばかりが目立って「国民不在」の感が否めません。

 そのような中でも、日々激務に追われている気象庁職員の皆様には頭の下がる思いです。それは今でも変わりません。国民の生命・財産、そして夢や希望を自然災害から守ろうとする、その尊く誇り高い使命の実現に向けて日夜、自然と向き合っている皆様には心から敬意を表します。しかし、だからこそ理不尽さを覚えるのは私だけではないと思います。


仙台・那覇高層観測『効率化』で月末廃止 気象庁『他地点で補完』(東京新聞)



 この記事を拝見した時は、言葉を失いました。何とも驚いてしまう内容でした。本来削減すべき「無駄遣い」を何とかするのが先ではないでしょうか。なぜ、必要な公共事業の方が先に切り捨てられてしまうのでしょうか。

 記事を要約すると「衛星やウインドプロファイラのデータを取り込んで数値予報モデルによるシミュレーションを用いれば、わざわざ仙台と那覇で高層観測を実施しなくても予報の結果に大差無い。高層観測を廃止しても、仙台と那覇の上空の様子はGPVで代替できる。」というものです。

 そして、高層観測に関しては「衛星やウインドプロファイラのデータで代替する」旨の言及もありますが、観測し得る高度範囲が異なるので、果たして十分に代替できるのか、率直に疑問が残ります。もし、完全に代替できるのであれば何故、仙台と那覇「だけ」を廃止するのでしょうか。本当に全て代替できると言うのであれば、全ての高層観測が将来的には廃止されるのでしょうか。このまま「なし崩し的」に観測拠点を削減するような流れが起こらない事を切に願います。

 また、「仙台と那覇の上空の様子はコンピューターで解析できる」との説明には正直、違和感を感じます。これは「仙台と那覇の上空の様子は、実際に観測しなくてもコンピューターで解析すればデータを得る事ができる」というニュアンスに感じられ、そこには、数値シミュレーション結果と実況観測を混同する、もしくは同一視する思想が垣間見れます。しかし、実況観測と数値解析は本来全く違う存在です。その究極の違いは「観測は実像(リアル)を捉えるものであり、モデルは虚像(ヴァーチャル)を表す」事にあります。虚像が実像に取って代わる事は出来ませんのです。

 そもそも「モデリング」とは、本来複雑である「対象たる自然現象」を独自の自然科学的世界観に基づいて解釈し、その再構築を図るものです。要は、観測を通じて実際の現象と向き合いそれをどのように解釈したのかを「モデル」と言う形で表現するものです。

 気象庁の数値予報モデルは世界屈指の技術水準を誇っておりますが、それでも完全・完璧では無いので、観測値と照らし合わせながら、モデル自身にフィードバックして行かなければなりません。この繰り返しでモデルは日々進化していくのです。従って、観測値とモデル値は本来異なる性質のものであり、コンピュータの計算結果の過信・盲信にならぬよう気をつけなければなりません。

 但し、念のために申し添えますが、以上までの趣旨を持って、観測地点の無い「空白域」について、モデルの計算値を「推定値」として与えるという手法・計算上の工夫やノウハウ等を否定するつもりは勿論ありません。空白域については推定するしかないのは当然理解できます。確かに、上空ではパラメータの水平方向の変動は下層ほど急峻ではなく緩やかであるため、観測拠点の間隔を広げたとしても、補間する事である程度は推定する事はできると思います。しかし、その許容範囲を超えた場合は、数値解析が実像を捉えきれない事になります。むしろ、このような解析手法を成し得るのも「現在の観測があればこそ」ではないでしょうか。現在の18ヶ所の観測によって維持されていると考える事もできるのです。

 続いて 「シミュレーション実験したところ、仙台と那覇のデータはなくても予報結果に大差なかった」については、具体的にどのような実験が行われたのかは分かりませんが、要は「高層データを取り込んだ場合と抜いた場合でアウトプットは変わらないのだから抜いても良い」と言う趣旨であると理解します。しかし、逆の見方をすれば、このような「知見」が得られたのも「観測値があればこそ」と見る事もできるのです。

 もし「シミュレーションさえ可能あれば、その結果をもって代替できるのだから観測を廃止して良い」と言う思想があるのであれば、これは厳に慎まなければなりません。それ以前に、この懸念が単なる私の妄想や勘違い、ミスリードであってくれる事を切に願わずには居られません。

 近年、数値シミュレーション技術が飛躍的に向上している事や数値予報モデルの技術水準の高さに疑いの余地はありません。そして、その根幹を支えている基礎理論は、これまでの長い歴史の中で多くの先人達が培ってきたノウハウや森羅万象のミステリーと格闘し、その法則を解明する事で得られてきた知識を結集したものです。これらの多くの努力や苦悩、そしてその結果得られた英知に、心から敬意を表する事はやぶさかではありません。私もまた数値シミュレーションの分野を勉強してきた中で、先人達の残した成果の偉大さに感動している一人です。

 しかしながら、未だ解明されない(モデルに表現しきれない)現象も多く存在します。このような部分の影響をどのように数値予報モデルに取り込み計算に反映させていくか、と言う分野では今尚それこそ壮絶な格闘が繰り広げられているのです。その際に重要な判断の拠り所となるのは、これまで見出されてきた自然界の法則、そして最後は観測データに行き着くのです。これらを組み合わせ、さらに議論と考察を重ねる事で新たなる理論が生み出され、モデルが構築されていくのです。我々の科学をもってしても未知なる現象がある、と言う事実に対しては謙虚でなければなりません。

 記事によれば、気象庁内でも今回の施策には疑問の声が上がっているとの記述もありました。やはり庁内でも疑問視する方々は少なくないのでしょう。記事に見る気象庁サイドの説明も、見方を変えればやはり「できる事ならば観測を廃止したくない」しかし「コストをカットしなければならない」。その狭間での気象庁サイドの「悲鳴」なのかも知れない、と感じてきました。

 これまで「民間で出来る所は民間に」というフレーズは、何度も聞いて来ました。逆に言えば「民間の力では出来ない所こそ行政が」ではないでしょうか。観測設備には莫大なコストが掛かります。投資対効果が明確に出るまでには時間も掛かります。極端な話、自前で独自の気象衛星をぶち上げる事は民間気象会社では到底、出来ません。このような壮大な公共事業が出来るのは、やはり「行政」の持てる力ではないか、と思います。

 これから地球環境問題において国際的なフィールドでのイニシアチブを取ろうとしている日本において、このような現実があると言うのは、そして環境省と共に中核を担うであろう気象庁がこのような施策を取らざるを得ない状況にある(と言うよりも追い詰められている)と言うのは、行政主体たる国の姿勢が問われているようにも思います。

 唯でさえ観測データは貴重な「財産」です。観測データを様々な角度から分析する事により、未知の現象や特性を明らかにしたり、新たな課題や問題を見出す事が出来るのです。それらが結果的に新たな気象学的知見やモデル、局地予報の際の予報則として蓄積され、広く国民、ひいては世界中の利益に還元されて行くのではないでしょうか。その事に思いを馳せると、今回の施策は残念でなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巨大なゾウと小さなアリ

2008年03月21日 | 気象情報の現場から
 学会誌「天気」がそろそろ溜まり始めています・・・。届いても届いても読むスピードが追いついていません・・・A(^^;)。最近は少しずつですが・・・学会誌の記事に目を通すようにしています。教科書で学ぶ気象学でさえ難しいのに、学会誌に掲載される記事は更に難しい・・・でも、確かに最先端の動きを知る事はできます。例え時間は掛かっても、何とか喰らいついて行かなければ・・・そう思っています。研究が進むにつれて、勉強すべき事が膨大だなあ・・・と最近つくづく感じています。

 広大な気象学の世界において、私が研究している領域と言うのは、それこそ重箱の隅を突くようなものです。言ってみれば、私の研究は気象そのものの真理を解き明かすものではありません。飽くまでも「精度の高い局地予測を実現するためのノウハウ」に他なりません。例えば、観測データをどのように数学的処理を行えばより適切な予測モデル式が得られるかであったり、独自の乱流数値シミュレーションを駆使して局地的な気象特性とそのメカニズムを解明し、独自の予報則に反映していくと言う事です。これはある意味、曖昧模糊とした現象の中に何とかして法則を見出すようなものです。

 現在の気象学の中でホットな話題を見ても地球規模の巨大なスケールの内容が多いです。私にとってホットなテーマは、やっぱり局地気象の微小なスケールの内容です。まるで巨大なゾウと小さなアリ程の隔たりがあります。しかし、「小さなアリ」だからと言って自分の研究を卑下している訳ではありません。誰もやっていないのであれば、そこにチャンスがあると言う事です。巨大なゾウは誰の目にも見えやすい一方、小さなアリはうっかり見落とされてしまうのです。この小さなアリは、その小ささ故に見向きもされませんが、しかしその研究テーマの奥深さは巨大なゾウにも決して引けをとりません

 さて、2月22日の記事で山形県米沢市周辺の冬季の局地気象特性について簡単にお話しました。雪の降り方については上空の寒気を指標とするのは天気予報の常套ですが、この地域の場合は更に下層の季節風の強弱も考慮した方が良いかも知れない、とこれまで言及してきましたものです。米沢市の場合は下層の風が弱い場合には(冬型の気圧配置となるような日であっても)午前中には晴れると言う事もありました。このような場合は、午前中は晴れてお昼頃から吹雪を伴うようになる天候の急変のパターンが見られました。

 このメカニズムについても漸く一つの可能性が見出されつつあります(そもそも、この為にシミュレーション研究を始めたのです)。この場でその詳細を述べる事は致しませんが、何らかの形で学会発表に持ち込みたいと考えています。ただ一つ言える事は、局地気象に根ざした独自のシミュレーション環境を開発できたからこそこの知見が見出せた、という事です。今後、更なる裏付けの研究が続きます。時折、熱ロスビー波の再現等で遊んでみたりもしてますが、少しずつ局地気象特性について計算気象という切り口からアプローチを進めています。更には、独自の予測モデル式の形にインプリメントする事で、局地予報のQTAT化の実現に結び付けて行きたいですね。(LESをそのまま実行すると途轍もなく計算時間が掛かるので・・・)

 広大な気象の世界において、私は一匹の小さな小さなアリです。しかし・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメダスよりも細かい局地観測データ

2008年03月17日 | 気象情報の現場から
 意外に知られているような、知られていないような話ですが、実は、気象庁以外の行政機関や地方公共団体も、独自に観測網を整備してリアルタイムに気象観測を行っています。そしてそのような観測値をホームページ上に公開している所もあります。その中でも私が注目しているのは24時間降雪量です。○○市内のあちこちの観測所の観測データというものをインターネットで閲覧できるのです。

 最近は「国内単独研究」の名目で(要するに予報業務の範疇ではない)、上空の大気の条件と降雪量の関係を「独自のモデル関係式(予測式)」の形に表現できないか・・・とあれこれ模索していますが(要は気象数学の研究)、単純な線形重回帰や最小2乗法で求める事はできません。無数のパラメータの条件が複雑相互に影響し合っているので、主要なパラメータの条件が一致しても、実際の降雪量として取りうる値はある程度のバラツキ(範囲)を持って広がってしまいます。

 降雪量の場合、ピッタリ「降雪量:○○cm」という予測は無理にしても、大して降らないのかそれともそれなりに降るのかは判別できないだろうか・・・と考えます。そのための判断指標としての予測計算式を開発しようとしているのです。

 ところが、気象業務法では気象予報業務に使用するための観測データは、検定に合格した観測機器を用いなければならないと定めています(第9条)。従って、このモデル式の予測値をそのまま「予報」に用いてしまうと法律上問題を生じる可能性があります。もともと、このような観測データを予報業務に用いる際は、観測している機関や自治体から情報を入手するための契約も必要になります。この辺の所は予測モデルの開発段階でのみこれらのデータを用いるのか、予報に際しても使用するのか、と言った微妙な所で法解釈が異なる部分もあり、法律面からの検討も必要になるでしょう。

 しかし、あくまで局地的な気象特性に関する知見を得るための「研究」という位置付けならば特に問題はないでしょう。法律は「予報業務」については厳しく制限を加えておりますが、「研究」制限は加えられておりません。私の専らの興味は、もちろん精度の高い局地予測を実現する事ですが、そのためにも観測データをどのように数学的処理を行えばより適切な予測モデル式が得られるかであります。

 独自の観測設備を導入するにせよ、アメダスの観測値を用いるにせよ、そのデータを上手く「料理」する腕がなければ意味が無いのです。そして、「予測モデル式」と一口に言っても、どのようなパラメータを組み合わせてどのような関数形に落とし込むのかもなかなか難しいものです。このような数学的処理の仕方や関数形といった解析手法の研究を行うのであれば、このような気象庁以外の行政機関や地方公共団体が提供するデータもなかなか良い練習材料になります。この研究を通じて、雪の降りやすい所と降りにくい所、そして上空の大気と実際の降雪量の関係を経験的に学ぶことができます。これが気象予報士の人間の勘を形成していくのですね(多分)。

 但し、今後このような予測を「予報業務」として行っていくかどうかは・・・未定です。その前に・・・研究成果が纏まるかどうか(爆)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これは現代の「魔女狩り」か・・・

2008年03月14日 | オピニオン・コメント
痴漢でっち上げ「信じてもらえず、不安と悔しさ」(朝日新聞) - goo ニュース

 これはまるで映画そのものではないか!
 たまに公共交通機関の利用する立場の一人の国民にとしても決して他人事ではありません。

 真に犯罪を行う者が諸悪の根源であるのは言うまでもありません。真犯人を捕らえ裁く事は至極当然であるのは論を待たないでしょう。それにしても、最近のこのような冤罪事件やその捜査・公判の杜撰さが報道される度に目を覆いたくなります。

 富山県婦女暴行事件や踏み字の志布志事件、更に最近の拘置先の同房者をスパイに仕立て上げての証言でっち上げ等、一般のごく普通に生活している国民が、ある日突然濡れ衣を着せられ、その後の人生を根底から破壊される恐怖は計り知れません。鹿児島の志布志事件や先のスパイ捜査の件では裁判所の良識が機能しましたが、富山県の場合は警察・検察・裁判所の合同によるこれぞ正しく「組織的国家的失態」と言っても過言ではないでしょう。有罪判決が確定し、服役するまでに至ったのですから、裁判におけるチェックがまともに機能しなかったとの批判は免れないでしょう。

 このような状況では、幾ら「国民参加型の裁判員制度」と言われても「おためごかしもは甚だしい」と言わざるを得ません。良識ある国民をそれこそ「冤罪のでっち上げ」に加担させようとでも言うのですか。警察・検察・裁判所にはある種の尊敬の念を抱いていたのですが、最近その思いが揺らぎ始めているのが正直な所です。我々は何を信じれば良いのでしょうか・・・神?仏?霊?占い?霊能者?・・・それとも、宇宙人?
 
 しかも、この被害者の方が受けた警察での取調べは、最初から「犯行を行ったものと決め付けたもの」との事ですから、これまでの冤罪事件の教訓が全く活かされていないと理解せざるを得ません。科学的かつ客観的な捜査・立証方法と言うものを検討する必要があるのではないでしょうか。自称被害者が「この人が犯人です」と言い、自称目撃者が「私が見ました」と言えば、司法警察職員も何ら疑うことなく「お前がやったんだろう」と過酷なまでの取調べ・・・これでは冤罪のデパートではないでしょうか。日本弁護士連合会が求める「捜査過程の可視化」も去ることながら、科学的な捜査手法の向上に期待せずにはいられません。

 そもそも、このような検証無き捜査がまかり通るとは、科学技術立国を標榜する日本の警察の捜査としては如何なものでしょうか。これはもう現代の日本における魔女狩りや宗教裁判に他なりません。これでは法を持って治める「法治国家」なのか、誠に捕らえ裁くべき真犯人を放置する「放置国家」なのか・・・。そして「開かれた」裁判の場でどれほど精査されているのかも疑問に感じてしまいます。有罪率99%という数字が意味するのは、刑事訴訟法の原則「疑わしきは被告人の利益に」がひょっとして無効化しているのではないでしょうか。法廷は公開されていると言いますが、国民の監視の目が届いていない事の現れとみる事もできるのです。

 今回の事件の被害者の方は現在もメディアのインタビューに答えていらっしゃいます。最後まで毅然と無実を訴え続けたその勇気と根気に心から敬意を表したいと思います。そして、このでっち上げを行った真犯人と共犯者には厳重なる正義の審判が下される事を期待します。警察・検察・裁判所は今こそ失われつつ信頼を回復して頂きたい。やはり、国民の一人としては信じたい。警察・検察・裁判所の多くの方々が、それでも高い使命感と倫理観、そしてプロ意識を持ちながらその職務を全うしようとしている事を・・・。

 冤罪は二重に過ちを犯すものです。一つは無実の人を社会的に抹殺するものであり、もう一つは真犯人を野放しにするものです。そして結局は何ら根本的な解決がなされていないのです。逆に言えばこのような冤罪を防止する事こそが、真に「公共の福祉」につながるのではないでしょうか。

 結局、自分を守れるのは、最後は自分自身という事なのでしょうか。そのためにも法を学ぶ必要があると強く感じました。法はそれを知らぬものは罰しますが、権利の上に眠るものは助けないのですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日は合格発表の日でしたね。

2008年03月10日 | 気象情報の現場から
 昨日は第29回気象予報士試験の合格発表が行われたようですね。合格された皆様、おめでとうございます。あと一歩だった皆様、次の目標(8月)に向かって迷わず進みましょう。

 そういえば、私も第9回試験で合格したので合格通知は3月に届きました。それだけにこの時期になると当時の事を思い出します。合格してからもう10年・・・長いですね。私もこの10年の間に色々な事がありました(しみじみ)。合格した当時はまだ機械工学を専攻する大学生。それから大学院で計算バイオメカニクスを専攻した後、半導体設計エンジニアを経て、現在は漸く計算気象予報士・・・。

 と書くと如何にも順風満帆な人生のようにも感じられますが・・・とんでもない!全く違いますよ。その凄まじい?過去は、ブログ内の他の記事やメールマガジンでもこれまで色々書いている筈なので、改めて述べるような事はしません。あ、別に脅かすつもりはありません。ただただ、過去を懐かしんでいるだけですから(笑)。

 もう春なんですね・・・。

 そういえば、今日「てんきすと」が届きました。今回は何と、昨年10月に投稿した記事が掲載されました。今回取り上げた「熱ロスビー波」の数値実験は、以前に円筒座標系の熱流動シミュレーションとして行っていた研究です。まあ・・・半年も前の内容なので今はもう・・・(爆)。

 最近は色々な局地気象に関する研究に手を出している傍ら、気象の理論を勉強し直しています。「てんきすと」の次は「天気」を狙って行きたいですね・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう3月なんですね・・・

2008年03月02日 | 何気ない?日常
 気がついたら3月。そろそろ忌々しい冬型の気圧配置を見る機会も減ってきそう・・・かな?

 3月になるといよいよ入試の合格発表、卒業式、そして人事異動の季節。それは新たなる旅立ちを意味します。この時期は様々な人間ドラマが繰り広げられるのでしょう・・・とまあ、他人事のように書いていますが、何か新しい事が始りそうなこの時期の雰囲気がなんとなく好きです。

 冬を忍べば春がまたやってくる。当たり前のような現象ではありますが、何も季節だけの話ではありません。どんなに辛い事も永遠には続かないし、どんなに良い事も永遠には続かないのです。これまで30年少々生きてきて感じるのは、自分に出来るのはただ如何なる時も人事を尽くして天命を待つのみ、と言う事。

 そして、人事を尽くすための羅針盤となるのが、自分の夢や理想・信念・思想でしょう。しかしその夢や理想が叶わぬ事は往々にしてあります。いや叶わぬ事の方が、むしろ多いのかも知れませんね。そこで諦めるにせよ、堅持するにせよ、「自分で」決めた決断こそがやはり尊いのだろうと思います。

 4月からは新しい年度が明けます。受験でも、就職でも、その他諸々の事でも、希望通りに進んだ方もいれば、そうでない方もきっといると思います。しかし、希望が破れたからといって、自分の人生が終わったと絶望する必要はない、私はそう思います。確かに、嘆きたくなる気持ちは分かります。私もこれまで何度もそんな局面を経験していますので・・・(その内容は「知る人ぞ知る」世界ですが)。

 現実問題として、過ぎた事はどうする事もできないし、過去を変える事は出来ない。しかし未来に挑む事は出来るのです。そのための戦略をしっかり立てていこうではありませんか。

「過去を悔やむな、未来を憂うな、今この時を生きよう」

 今、静かにそう考えています。今を生きる事は「今さえ好ければ良い」と言うものではなく、未来に挑むためにも、今この時を大切にすると言う事。未来を見据えつつ、今日をどう生きるか・・・これは私が日頃意識している事です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする