退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「できるだけ相手を限定しない『観察』の素敵さと『手軽さ』の生み出すものもしくはそれに逆らえないのが『普通』であること」について

2018-02-12 01:51:54 | Weblog
晴れ。風強く冷える。

「ファーブル昆虫記2」読了。

「描写の基本」はここにあるのか。
安易な結論に飛び付かず徹底的に実験を繰り返す姿も。

「観察すること」の「理想的な形」よ。
対象に迫るその姿には頭を垂れるのみ。

マル激を観る。

自分の「情報収集」や「判断」に疑問を抱くためには
それらを超えた「現実」に出会っているという「経験=失敗」が大事かも。

「行動経済学」によれば
「いいね!」の情報によって人種・性別・嗜好などがかなりの確率で明らかになるらしい。

思ったよりわれわれは「単純な存在」でもある模様。
その「情報」をどう利用するかはその人次第で。

テクノロジーによる「新たな発見」は必ず「両刃の剣」であること。
その上で「まともな道」を探る「動機」は「なぜそうするのかを問うこと」か。

フェイスブックはこれまで「リベラルな志向」をしているけれど
「バイアス=偏見」があるのは確実でなおかつ「特定のルール」に縛られることになり。

一番いいのは「フェイスブックをしないこと」だとはいえ(個人的には未体験)
それが「基本」になる未来も十分にあり得るわけで。

「ネット及びSNSの利用」は便利ではあるものの
従来では思いもつかない大量の情報の集積とその分析による「知恵」を生み出し。

それらの「好ましい利用」もあればそうでない利用もある「現実」は時代を問わず。

結局「何がしたいのか」ということに尽きるのかもしれず。
もちろんそれは「育ってきた歴史」に左右されて。

ひとつだけ確かなのは「人は『自分の思い通り』が好きであること」。
だからこそ「認知的不協和=見たくないものは見ない」のが「当然」に。

繰り返すがたかの知れた「思い通り」より「世界の複雑さ」を味わいたいもの。
ただしそれが「高嶺の花」であるのが「現実」でもあることは間違いなく。

ファーブルは「普通の人」ではない。
当時のフランスの田舎の人々は彼の不思議な行動に「どう儲かるのか」と聞いていたし。

さて。

もうちょいとゴソゴソして寝る。
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